僕の実践的多様性論

さてさて、2回目の投稿でそろそろゾーンとか、人間の沸点とか、心の持つ凄さ、人間の可能性について、限界を超えることについて、とかどんどん行っちゃった話を書きたいのだけど、もう1歩寄り道させてー。いや、実は関係して来るんだけどね、人間の可能性って言うのは、ある意味で人間の多様性だからね。

このテーマで何故書こうと思ったかと言うと、それはね、森喜朗の失言?が話題と言うのかね、みんな今その話してる訳でね。本質に全く触れてないけど。一種類の意見しか見ないよね。多くて2つくらい。角度はみんな一緒。そうじゃ無くてさ、もっと掘り下げて行かなきゃ、なんの意味もないし、ただ批判することで点数稼ぎしたいだけの人が多すぎるね。
森喜朗と言う人は今に始まった事じゃなくて、定期的に失言?してるんだけど、いや、失言じゃないんだよね。本音をね、思っていること、感じていることを言っちゃう、そこで色々ズレちゃってる、ってだけでね。

まずね、一言で言うとね、これは、女と男ってそこだけじゃないわけで、人の数だけ世界があるって言うところまで行かなきゃ、これ先に言うと結論ね。世界は一つではないし、みんなが今見ているものだけがこの世界ではない、ってこと。
簡単に女性軽視って言うけど、軽視ってなにか、それはそこに別の認知や認識の様式があることを認めない、自覚しない、無視する、と言うこと。だからね、軽視って言うのはそこら中にある。自分の外に別の世界が無数に存在している、と言う事実を忘れて生きていると、知らず知らずの内に、人は別のものや世界を軽視してしまう。

女は話が長い、纏まりがない、意味がない話をする、等と例えば言ったとする。それに対していや、女だって簡潔に話せます、とかそう言う反論が沢山出てくる訳で、それはもちろんそうなんだけど、一方でね、そもそも簡潔に話すことが唯一の方法と言う在り方が男的な構造なのではないのか、という議論だってそれ以上に必要だと思う。何故、話が長いと感じるのか、纏まらないと感じるのか、それ自体が一つの認識の形に過ぎない。女と男では認識の様式に違いがある。これは否定出来ないし、すべきではない。これは事実。男と女だけではない。時代や文化によって、年齢によって、障害によって、様々な認識の世界がある。それぞれの世界が独自の認識を持っている。

生物多様性の先に何があるか、それは認識の多様性であり、無数の世界の存在である。

多様性が苦手な心の形も存在する。そう言う人達をも適切な距離で認められてこそ本来の多様性と言える。

沢山の心があり、その数だけ沢山の世界がある。
僕はそのことを16才で出会った信州の共同体で学んだ。
師の見解とは違う部分が多いけれど、教えて貰ったことも沢山ある。

今目の前にあるこの世界が、実は無数の世界の内の一つに過ぎないと知ること、そして他の世界への感受性を磨くこと。それなくして多様性などと言っても単なる言葉の遊びに過ぎない。

じゃあ最後にゾーンと言う領域についても語ろう。
ゾーンに入って居るとき、人は無数の世界を同時に生きている。多様な世界がそれぞれ固有に存在しつつ、その全てに入って行くことが出来る。幾つもの生を、幾つもの世界を同時に生きている。走馬灯のように。

これ、色々また深めて行くべきテーマもチラホラありましたね。もう少しゆっくり取り上げていかたいところですが、それはまた改めて。

今日はこんなところで。

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