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【創作小説】憧れのグランデ

 今日は絶好のチャンスだ。

 午前八時に目覚めた依子(よりこ)は、ついにこの日が来たとばかりにベッドから起き上がった。ガラス窓の外を見ると真夏の太陽が顔を出している。
 木曜日のため、いつもなら会社へ行く支度を始める時間だが、先週の日曜日に出勤した影響で今日はその振替休日がとれた。
 アラフォーの独身で一人暮らし。平日なので友人は会社。ここ最近彼氏もいない依子は今日は誰とも約束がなく、一日中自由の身であることが昨日確定した。

 ベッドの縁(へり)に座り、スマートフォンを立ち上げる。おもむろに検索サイトで、今いちばん行きたい場所を声に出しながら検索した。

「ス・タ・バ」

 依子が長年憧れている場所、それはカフェのスターバックスだ。

 普段からよく行く近所のショッピングセンターの中にスターバックスはある。出勤で駅へ向かう際にその前を通るため、中にいる客の様子を毎日横目で観察していた。

 まるでガラスケースの中を覗いているかのようにキラキラ輝いて見える店内。いちばんに目に入るのは、店の外側に向かって横一列に並べられたカウンター席だ。

 ノートパソコンを広げて何かを入力している人、スマートフォンをいじる人、手帳を広げて何かを書いている人、文庫本を開いて読書している人。

 店内のお立ち台とでも言うべきこのエリアは、いつ見ても空席のない状態で、その日その席に座ることを許された本日の主演俳優達が、店の外を歩く依子に向かって「素敵な自分」を披露していた。その傍らにはストローの刺さったおしゃれな飲み物が置かれている。

 いつか自分もあの場所で彼らのように「素敵な自分」を演じてみたい、と依子は常々夢見ていた。一人暮らしをするようになって、自宅近くにカフェがある生活となったが、元々は地方から出てきた田舎者のため、今まで躊躇してこのようなカフェに一人で入ったことがなかったのだ。

 偏見かもしれないが、あのようなカフェに入るのは、名前の最後に「子」が付いている自分のような女子ではなく、「りさ」や「ありす」などといったおしゃれな名前の女子がふさわしいような気もしていた。

 だが、長年の夢を今日叶えたい。こんな絶好の日はない。平日なので土日や祝日ほどは店内も混み合っていないだろうし、初めてのカフェで注文する時に戸惑っても、後ろに並ぶ客が少なければ必要以上に恥をかくことはないだろう。

 そうなのだ。

 このようなカフェが「敷居が高い」と感じてしまうのは、どのような手順で飲み物を手に入れ、席に着けばいいのかがよく分からないからなのだ。そのため、今スマートフォンを取り出して「スタバ 入り方」で検索をかけた。

 画面にいくつかのサイトの候補が現れた。その中で一番上に出てきたサイトを開いてみる。そのページには「店内に入ってから席へ着くまでの手順」「飲み物の種類やそのサイズ」「席にはどのくらい滞在していいのか」など、初心者向けのアドバイスが詳細になされていた。このようなサイトがあるということは、自分以外にもこのようなおしゃれカフェの敷居をなかなか跨ぐことができない仲間が全国に居るのだと予想される。依子は自分が特別ではないことにかすかな安堵を覚えた。

 その親切なサイトからは、スターバックスの飲み物メニューの画面へ移ることができた。そして「えっ」と思わず驚きの声を上げる。

 なんと飲み物はドリンクとは呼ばず「ビバレッジ」と呼ぶらしい。普通に生活していたらあまり聞かない単語だ。いきなり「ビバレッジはどれになさいますか?」などと聞かれた日には、思わず「え? もう一回言ってください」と言ってしまいそうだ。

これは、入店してから慌てないためにも、今ここで注文する飲み物を決めておいた方が良さそうに思える。そう思った依子は、そのまま、メニューとして並んでいるビバレッジの写真と名前をスマートフォンで見続けた。

 生クリームが大好きな依子は、このカフェの人気商品である「フラペチーノ」と呼ばれる、ドリンクの上にたっぷりのホイップクリームが乗った飲み物に心ひかれた。コーヒーよりもココアが好きなため、メニューの中から「チョコレートの風味を存分に味わえる」という「ダーク モカ チップ クリーム フラペチーノ」というビバレッジを注文することに決めた。よく似た名前で「クリーム」という文言が入っていない「ダーク モカ チップ フラペチーノ」と間違わないように注意しなければならない。頭に叩き込むため、何度も「クリームあり。クリームあり」とつぶやいた。

 そしてサイズ。こちらも一筋縄ではいかないらしく、S・M・Lなどとは呼ばない。「ショート」「トール」「グランデ」「ベンティ」と、これまたおしゃれな呼び名になっている。量的にはMサイズにあたると思われる「トール」くらいがいいのだろうか。だが、せっかく頑張っておしゃれな店内に入るのなら一時間半くらいは滞在したい。そして言葉の響きがかっこいい「グランデ」を言ってみたくなり、今回は「ダーク モカ チップ クリーム フラペチーノ」の「グランデ」を注文することにした。何もせずにいきなり入店していたら、さっぱりわからず焦りで全身汗だくになっていただろう。予習をしておいてよかった。依子は心からそう思った。

 そんなことをしたり、ユーチューブで動画を見たり、掃除や洗濯をすませたりしているうちに、気が付けば時計は午後一時を表示していた。朝も昼もごはんを食べずバナナとヨーグルトだけで済ませ、カフェへ行くための身支度を始める。座席はコンパクトな感じだろうと思われたため、なるべく小さなバッグに財布などの必需品と一緒に、一冊の文庫本を入れた。

 まだパソコンやノートを広げる勇気はないので、今日カフェに入ってすることは読書に決めた。おしゃれな飲み物を傍らに置いて、読みかけのミステリー小説を読む。なんて素敵なんだろう、とうっとりしながらコンタクトレンズを装着しメイクを済ませた。

 いよいよ、スターバックスのあるショッピングセンターへ向かう。天気がいいので足取りも軽い。

 自宅マンションから歩いて五分の場所に位置するショッピングセンターに入った。店内入ってすぐのエントランスには、飲食店が紹介されたボードが立てかけられ、お目当てのスターバックスや、頻繁に利用している馴染みの讃岐うどんの店もその中に表示されていた。

 そのまま歩みを進め、スターバックスのある二階へ向かうためエスカレーターに乗った。上がってすぐの左手に目的地はある。

 はやる気持ちを抑えつつ、外側に向かって並ぶカウンター席を店の外から覗いてみた。

 ため息が出た。

 残念ながら憧れのカウンター席は満席だった。大学生らしき男女やサラリーマン風の男性がカウンター席を陣取っている。出てくるのが少し遅かったか。

 だが、満席であることを残念に思いつつも、心のどこかではほっとする気持ちがあった。やはり怖いのだ。慣れないカフェに入るのが。

 それでも、せっかく決意して、眼鏡でなくわざわざコンタクトレンズを付けてまで出てきたのだから、目的は果たしたいと依子は思った。

 そうだ、この近くにもう一軒スターバックスがあったはず。

 駅を挟んで向こう側にスターバックスがあったことを思い出し、そちらへ行ってみることにした。そのスターバックスは百貨店の中にあり、こちらの店よりも広かったような気がする。空席があるかもしれない。

 目的地に向かって真夏の日差しの中をひたすら歩く。蒸し暑い空気との相乗効果で、既に洋服の中にはじっとりと汗がにじんでいた。喉も乾いてきたので、カフェで飲み物を飲みたい気持ちも膨らんでくる。

 百貨店に着いた。入り口を入ってすぐ右手がスターバックスだ。
 消毒液で手を清めて心を落ち着かせ、右手へ進んでガラスケースの外から店内を覗き込んでみた。

 やはりガラス面から外側に向かってカウンター席で「素敵な自分」を演じている人たちがいる。その中で、机に何も置かれておらず人も座っていない空席が二つあるように見えた。
 だが、もしかしたら飲み物を買いに行っていて、椅子に小さな荷物が置いてあるのかもしれない。確認したい。

 依子は確認のため、店内には入らず入り口を通り過ぎて、スターバックスのガラス面に沿ってそのまま歩みを進めた。カウンター席に座る人達になるべく気付かれないように、「ただ百貨店の店内を歩いているだけですよ」と言わんばかりに歩く。実際は、カウンター席の様子を横目で相当伺っているのだが。
 カウンター席はやはり二席空いているようだ。これはいけるかも、と心の中でつぶやく。
 引き返すのも恥ずかしいのでそのまま歩き続け、百貨店の売り場の中を小回りで一周して、最初に入ってきた入り口まで戻ってきた。

 そして憧れのスターバックスの店内に、ついに足を踏み入れた。

 飲み物を注文するカウンターには、順番待ちの客が二名いた。「素敵な自分」を披露できるガラス面のカウンター席を見ると、やはり二席は確実に空いている。だが、前の二名がカウンター席に座ったら今日の目的は果たせない。ハラハラしながら二人前の客が注文するのを見る。その時、その客から思いも寄らぬセリフが飛び出した。

「あ、持ち帰りで」

 そうだ。店内で飲食する人ばかりとは限らないんだった。ということは、すぐ前に並ぶ客が店内で飲食するにしても、依子は二人目の店内飲食者となりカウンター席へ着くことができる。いよいよおしゃれカフェデビュー。胸が高鳴る。

 ふと右手を見るとメニュー表が立てかけられていた。自宅で決めたメニューを思い出す。「ダーク モカ チップ クリーム フラペチーノ」だったはず。「クリームあり」の方だ。急いで確認する。しかしメニュー表にその名前が見当たらない。なぜだ。店舗によって無いメニューが存在するのか……?

 前の客が注文カウンターに進む。

 依子は瞬時に判断した。

 そのまま列を外れ、スターバックスの外へ出る。

 気付けば、依子の後ろには既に三名の客が並んでおり、依子が外れた立ち位置に後ろの客が進んだ。

 ダメだ。あのメニューがないならここはあきらめよう。ショッピングセンターの店舗の方にはあるかもしれないし、もう一度さっきの店に行って確かめてみたい。

 百貨店を出てショッピングセンターの店舗へ向かう。

 飲み物は何にせよ、あともう少しで憧れのカウンター席で読書するという夢が叶えられたのに、自分は何をしているのだろうか……ここは別のメニューで妥協するべきではなかったのだろうか……

 後悔半分、ショッピングセンターの店舗への期待半分で、生ぬるい空気の中を考えながら歩く。

 こうして人は様々な選択をしながら人生を歩んでいる。その時の選択が正しかったかどうかは少し先の未来になってみないと分からない。果たして今の自分の選択は正しかったのだろうか……

 ショッピングセンターのスターバックスに到着した。
 ガラス面のカウンター席を店の外から覗く。
 空席が一席見える。

 笑顔を浮かべた依子だったが、飲み物を注文するカウンターを見ると、六人ほどの長蛇の列ができていた……

 自分は人生の選択を誤ったのかもしれない。
 落胆しながらスターバックスから離れた。

 ショッピングセンターに来たついでに、なくなりかけていたシャンプーを買いに行こう。そしてどこかで時間をつぶしてまた来よう。

 そう思いながらエスカレーターに乗り四階の生活用品の売り場へ行く。買い物を済ませ、そのままレストラン街を抜けて下りエスカレーターに乗ろうと歩いた。すると、普段からよく利用している馴染みの讃岐うどんの店が右手に現れた。スマートフォンの時計を見ると、時刻は既に午後三時。
「お腹、すいたな……」

 立ち止まってガラスケースの中のうどんの食品サンプルを眺めていた依子は、衝動的に暖簾(のれん)をかき分け、うどん店に入った。
 店内には先客が一名だけおり、静かにうどんをすすっていた。

 にこにこと優しそうな店員のおばさんに誘導され、外からは見えない隅の席に座る。
 分厚い湯呑みに冷たい麦茶を入れて店員のおばさんが持ってきてくれる。
 いつもよく食べる「きつねうどんとかやくごはんの定食」をメニューを見ずに注文する。
 うどんを無料で半玉増量できるとのことだったので「増量で」と伝える。

 うどんを待つ間、持ってきたミステリーの文庫本を開き読んでみた。

 とりあえず席に着いて注文を聞きに来てくれる手順、全然難しくなく余裕で覚えられる馴染みのメニュー、半玉増量の庶民的なお得感……

 今、依子を取り巻く環境は、今朝思い描いていたものとはまるで違ったが、店内でミステリーの文庫本を開くことだけは達成でき、思わず微笑んだ。
 誰にも「素敵な自分」を披露することはできなかったが、カフェひとつ行くことに一生懸命になった自分が素敵だと思えた。選択は誤ったかもしれないが満足はできた。

「スタバは、また次の平日の休みに挑戦しよう」

 そう思っていると、店員のおばさんがにこにこと「きつねうどんとかやくごはんの定食」を持ってきてくれたので、文庫本を閉じ、依子は冷えた麦茶をひとくち飲んだ。

(了)


◆おまけ◆

依子さんが読んでいた文庫本はこれかも。

25人の作家さんが書かれた、ショートショートのアンソロジー本です。ちょっとしたミステリーあり、ほっこりするお話ありで、なんと全ての物語が喫茶店にまつわるお話とのこと。私も後日読んでみたいです!(未読、失礼いたしました……(^^;)

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