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サンキュー! そこにいてくれて

ICカードを改札にかざした時に駅員さんがいちいちありがとうございますと言うのに違和感を覚え始めてからかれこれ二年経った。なぜなのか。未だに私の中で電車は国が管理しているという思い込みがあるのだろうか。公共交通機関なんて言われてるものを国が運営してないわけないと思っているのだろうか。だがおそらくこれが国営であったとしても、そこで働く公務員たちは一介の大学生がアホ面でICカードを改札にかざすたびに、律儀に一々ありがとうございますと言うのだろう。利用者数の多い駅ならこんなこともないと思うが、私の最寄り駅は、夕方の微妙な時間帯ならば出ていく人も入っていく人も同じくらいまばらなので、一々感謝の言葉を述べられる。気分が悪いものではない。しかし必ずしも必要かと言われればそうでないと思う。表現が難しいが、なんだか無駄遣いだと感じるのだ。貴方のその尊い「ありがとう」は、もっと他の、特別な何かのためにとっておいて欲しい。

しかしながら、普段ありがとうを言わない人が珍しく感謝の言葉を述べて感動される、みたいな話は好きではない。常日頃から感謝の言葉をしっかり伝えることが出来ている人こそ真に評価されるべき人であり、私からしてみれば前者は「不良によるたまにの善行」に過ぎない。コントラストの強さだけに目を奪われて本質を見失っては、視覚を保持している意味も無い。

私は、人を、その職業の人、とか、その他大勢の人、として見ることが出来ない。偶然入った店の店員さんとか、電車で乗り合わせた知らないおばさんとか、バイト先のよく知らない同期とか、それこそ最寄り駅に勤める駅員さんとか。言ってしまえばモブの概念が… 薄い。まったくない訳では無いが、人よりは考えてしまう方だと思う。その人の母親のこと、家庭のこと、友人関係のこと。手がかりがほぼゼロなのであまりに突拍子もない推測たちではあるが、なぜかやたら深く考えてしまう時がある。その人がちょうど目の前でチャットなんかを弄っていて、その会話内容が見えたならば、こちらのものだ。外で一人でいる時、大抵の人は無表情だ。だけどその手のひらの中の会話では、やたらめったらテンションが高かったりする。口角をぴくりとも動かさずにいかにも楽しげな会話を繰り広げるその姿に一種の不気味さと、興味深さを覚える。

次の駅で私が降りてしまったら、永遠に顔を合わせることがないかもしれない「その人」のことを、大した根拠もなしに、のんびりと思考する。この人は娘に嫌われてそうだな、とか、オタクの彼氏いそうだな、とかその程度のことだが。気分によって偏見や悪意はまちまち。そして駅のホームに立った途端に先程まで考えていた「その程度」の事柄たちのことはころりと忘れ、イヤホンをつけて、バイト先まで歩く。何の時間だったのかわからない。不必要と言われればそれまでだろう。しかしこの性質のせいで私は、人よりも余程、他人に優しい。これは私の自負するところのひとつだ。私に私の人生があるように、相手もまた相手なりの人生を抱え、様々なものと関わり合いながら、愛し、愛されて生きている。時には葛藤もありながら、嫌いな者と仲良くして、あの頃は良かったなと時たま過去に思いを馳せつつ、生きている。そう考えることができるなら、他人に優しく接することなど容易い。

バイトで国語の先生をやることも多いのだが、仕事を通して様々な種類の面白い評論文や物語と出会うことができ、その点はとても楽しい。そんな中、最近一番印象に残っている評論文のちょっとした主張がある。確か柳田国男だったと思うが、近頃の者達はありがとうを頻発しすぎると不平を漏らしていたのだ。彼曰く、「有り難し」はかつて、神に対して使う言葉だった。なのでそれが派生した「ありがとう」を日常の中で頻発するのは神に対する想いも薄れてしまうので、適切な場合にのみ使って欲しい、と。この考えに同意は全く出来ないが、このいかにもな近頃の者達は〜 の言い方に、どの時代にもこういった意見は必ずあるのだなと感じられて、面白く思った。しかしながらこのありがとうの頻発については、先述した私の意見にも若干通ずる所がある。神に使う言葉だったとかはどうでもいいが、やはり、ありがとうという言葉は真の感謝の言葉であるべきで、私の中では、バイト先に行くために嫌々電車に乗ろうとして改札を通る一介の大学生にかけて欲しい言葉ではない。駅員さんを駅員さんとしてではなく一人の人間として考えた時、とても不憫なのだ。こんなことに彼または彼女の貴重な「ありがとう」を使わせてしまって。

私が最寄り駅の改札を通る。ICカードのピッという音がして、数少ない電子マネー残高が公衆の面前に晒される。それを見ながらいつものようにありがとうございます、と言う最寄り駅の駅員をぐるりと振り返り、指を突き立てて、それほんまに思ってるんか? と言う。駅員さんは拍子抜けしたような顔をして、いや、あの、などと口ごもる。思ってないのに形だけで言っとるんやろ。わかっとんねん。…すみません。謝るな! お前みたいなもんが「ありがとう」を無駄遣いするから、「ありがとう」のありがたみがどんどん減っていくねん! 駅員は感銘を受けたのか、おいおい泣いていた。私はそれ以上声をかけずに、またぐるりと振り向いて、目的のホームへと脚を急がせた。秋風が冷たかった。

その著者(たぶん柳田国男)は、このありがとう論争の次に「すみません」についても触れていたが、その語源は実に目から鱗であった。漢字をあてるならば「澄みません」であり、「あなたにそんなことをさせてしまったままでは、私の心が澄みません」から、謝罪の言葉に変わっていったのだという。私は言語にあまり興味は無いが、あまりに身近すぎる言葉にこうも納得出来る語源があると、どうしたって面白く感じてしまう。

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