ネギでも食ってろ

友人を傷つけたことがある。とは言いつつも、なんということはない日常の一コマにおいてだ。私は、自分自身のことを人見知りだと言う友人に、人見知りは自意識過剰の賜物だというようなことを言った。その友人は優しいから、その場では私に対して何も言わなかったけれども(言えなかっただけかもしれない。わからない)、人づてに、その友人が些か傷ついていたらしいことを後々聞いた。本心を言ったに過ぎなかっただけに、反省した。もしこれが明確に相手を傷つける意図の元での発言だったならば却って良かったかもしれないが、無意識にしてしまったことだから、始末に負えないと思った。それが私の性分であると、判らされたような気がした。

刑事ドラマ「相棒」のファンなのだが、初代相棒の亀山薫時代の名作トリックをひとつ紹介する。ネギアレルギーを持つターゲットに、「先ほど食べた料理は、ネギを少し入れ込んだ料理だった」と思わせる。味にはわからないくらいに少量、ネギが入っていたのだ、とこっそり伝えるだけで良い。アレルギー発作を恐れたターゲットは、一つ下の階にあるお手洗いへと急ぐ。食べたものを吐き出すためだ。しかし踊り場にはダンボールなどで非常に滑りやすくする細工がしてあって、運が悪かったターゲットは、勢いのまま階段から落ち即死。料理にはネギなど入っていなかったし、証拠も残らない。事故として片付けられるヤマであることは間違いない。その謎の解明の最中、主人公の杉下右京は、未必の故意という言葉を使った。確実性はないけれども、心のどこかで「それ」が起こることを期待しての行為。この事件は事故などではなく、「それ」が実際に起こってしまった、紛れもない殺人なのである、と。もちろん逮捕はできない。裏を返すと、「裁かれたくても、裁かれることがない」。どんなに後悔しても償うことができない罪こそ、人間にとっては最も重苦しい存在ではないだろうか。結局その事件の首謀者は警察に自首するという形で、裁かれることにはなったが。

当時の私の行為に未必の故意性はまったくなかったのか。当時の細やかな心持ちのことまでは覚えていないので、明確な結論は出せない。もし仮に私がすべて覚えていたとしても、ここに書くわけもないが。ただ私が言えることは、私自身、時と場合による人見知りであること。そして、人見知りの人間は、好きでもあり、嫌いでもあるということだ。

余談ではあるが、「後々」。これ、人によってどう読むかが二種類あると思う。「あとあと」と、「のちのち」。私は基本的に「のちのち」派だが、おそらく「後」の読み方で最も市民権を得ているのは、音読みでは「うしろ」、訓読みでは「あと」である。だから特に何も考えずに「のちのち」から変換して「後々」と書くと、それは多くの場合「のちのち」ではなくて「あとあと」として受け取られてしまう。些細なことに思われるかもしれないが、結構印象が変わると思う。「あとあと」は話し言葉では重宝されるべき存在であろうが、書き言葉として見た時、二軍ではないか? インスタントフィクションを馬鹿にしているわけではない。たぶん八つ当たりだと思う。ただ私は、漢字で「後々」と書いて「のちのち」と間違いなく読んで欲しいだけなのだ。

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