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【コラボ小説】新しい航海 (「澪標」番外編 「東雲の幻」より)

この小説は、may_citrusさんの小説「澪標」番外編「東雲の幻」の続きを、私の想像で書いたものです。


あなたと別れ、試験運営を請け負う会社の北関東事業所に異動して少し経った頃。
私は休暇をとり、ひとり曇天の日本海に立っていた。

私は鞄から香水「サムライ アクアクルーズ」のボトルを取り出して、虚空にミストをゆっくり、何度も何度も噴射した。

プッシュボタンを押す度に、はじめて会った時から互いに惹かれ、あなたと愛し合った日々がよみがえってきた。

途中風向きが変わって、ミストが私の体にまとわりついた。
かつてのあなたの香りに私は心を締め付けられて、誰もいない砂浜で声が嗄れるまで大声で泣いた。

空になった瓶は、日が暮れてからあなたの祖父母が住んでいた空き家の庭に埋めてきた。
幸い周りは空き家ばかりで、人目にはつかなかった。

「さようなら、あなた。」
私は自力で座礁してしまった心を何とか立て直さなければならない。
私の澪標みおつくしは無くしてしまったから。

鞄に入れてきたもう1本の香水、ロクシタンの「エルバヴェール」を御守りに、すっかり暗くなってしまった道を私はひたすら歩いた──


あれから30年近くの年月が流れた。
還暦まであと数年となった私は、「2本」のエルバヴェールの瓶を握り締め、41歳のあなたに似た整った顔立ちの男性の運転で高速道路を東京に向かっていた。

男性の名前は「海宝かいほう航平こうへい」。
あなた…かつての私の上司、「海宝こう」の一人息子である。

「鈴木さん、そろそろ高速を降ります。そしたら病院にすぐに着きますから!」
そう言う真摯な言い回しは、記憶の中のあなたにとても似ている。

『澪標という言葉があります。水深が十分にあり、船が航行できる通路を澪。澪を航行する船が座礁しないよう、水深などを知らせる標識を澪標といいます』
別れの日、あなたが私に教えてくれた「澪標」という言葉。

二人の関係を知る私の親友に、「死ぬまで使い続ける」と言ったエルバヴェール。
それは元々、私の愛用していた香水だった。
私と別れた後、それをあなたは15歳年上の双極性障害を抱えた奥様と、当時高校生の航平さんを守り通す為の「澪標」にしていた。

昨夜脳梗塞で倒れたあなたは、私が今手にしている片方のエルバヴェールに手を伸ばしたという。

昨年守るべき奥様が84歳で亡くなって数ヶ月後、あなたは航平さんに私との会瀬おうせを話していた。
私のもとで、奥様を支え続けるのに疲れたあなたが家族を守るため「充電」していたことを。

航平さんは、海宝家が崩壊しなかったのはそのお陰だと解釈してくれたようだった。

航平さんは父親が倒れたとき、私を会わせなければと思って私の現在の職場・栃木県小山の病院まで迎えにやって来たのだった。

東雲しののめの美しい時刻に小山を出発し、高速を降り東京の病院に着いた頃にはすっかり青空が広がっていた。

もしも「あの頃」だったら他人の私は病院に入れてもらえなかっただろう。
2020年から流行した新型コロナウイルス。
あなたの奥様の持病を悪化させ、私達の関係を引き裂いたトリガー。

根絶はしなかったものの特効薬が出来て、自由に行き来出来るようになり、私は今日30年近くぶりにあなたに会うことが出来る。

私は航平さんに病室の個室まで案内してもらった。
「父さん、入るよ。」
病室に入ると、航平さんの奥さんが付き添っていた。

「はじめまして。私は航平の妻です。」
「鈴木です。」
お互い挨拶を済ませ、あなたが命の危険から脱したことを知らされた。

静かに寝息をたてるあなた。
70歳を過ぎ、しわは増え髪はグレーになったけれど、昔私の家で寛いでいた時のあなたの面影は充分だった。

「二人きりにしてあげよう。」
そう言うと航平さん夫婦は病室から退室した。

「──エルバ…ヴェール。」
そう呟いてあなたはゆっくり目を開けた。

「海宝課長!」
私はあの頃働いていた呼び方であなたを呼んだ。
「…ここは、天国?
みおさんそっくりの…天使の声が聞こえる。」
あなたは自分がこの世を去ったと疑っていなかった。

「課長!ここは病室です。助かったんですっ!」
私が語りかけると、あなたは私の方を見て驚いていた。

「何で…あなたがいるんですか?
僕は弱っている姿を…あなたに見られたくなかった。」
あなたはそっぽを向いてしまった。
あなたに拒絶され、私の心は痛んだ。

「…すいません。課長が倒れたって航平さんに聞いて。居ても立ってもいられなくて来てしまいました。…すぐ帰ります。」

あなたは私に会いたくなかった。
生きている顔を見られた、それで良いじゃない。
そう言い聞かせて私は悲しい気持ちで病室を出ようとした。

「…嘘です。本当は死ぬほど会いたかった。」
おずおずとあなたは私のいる方に顔を向き直した。

私は病室にある丸椅子を1脚、あなたのベッドの横に持ってきて座った。

「…航平が、あなたを連れてきてくれたんですか。あの子には感謝ですね。」
弱々しく微笑むあなた。

「私も…課長に会えて嬉しいです。」
「もう、『課長』じゃ…ないですよ。会社を辞めて、もう何年も…経ちます。」
「…では、『航』…さん?」
好きな人の下の名前で呼んだだけなのに、私はまるで少女のように照れくさくなってしまった。

「…あなたに名前を…呼ばれると、特別な響きが…しますね。」
くすぐったそうにあなたは微笑んだ。

あなたと愛し合っていた頃は、ボロが出て関係を知られないように「あなた」呼びを徹底していた。
本当はいつか家族の元に還ると予感していたから、お互い線を無意識に引いていたのかもしれない。

「…そういえば、今あなたは…何をしているんですか?ご家族は…あなたが…ここに来ていること…ご存知なんですか?」
あなたは私が北関東事業所を寿退社したことまでしか知らない。

「私は今は小山の病院で看護師の外科の師長をしています。
あなたといた頃より、逞しくなったんですよ。
たちの悪い患者さんも、一人で上手くあしらえます。」
意識を取り戻したばかりのあなたに心配をかけないよう、離婚したことは伏せた。
しかし無意識に右手で左手を隠す動作をしてしまったのを見られてしまった。

「…指輪、してないんですね。看護師で…指輪を付けられないとしても、こまめに…ハンドクリームを…塗り直すあなたです。
もし…結婚しているなら、外では…付けるのではないですか?」
あなたの聡明な瞳が私の秘密を暴く。

「…あなたには隠し事は出来ませんね。
あなたが察した通り、私は今一人で生きています。
結婚した先の家では良くしてもらえました。
私が後継ぎを産めなかったので離婚という結末を迎えました。検査をしたり人工受精とかいろいろ試したのですが、ダメでした。」
私は看護師生活で培った笑顔を作った。

「何で…そこで…笑うんですか。捨てられたのに。
あなたはっ、優しすぎる!あの頃も…今も!
もっと…怒って良いんです。泣き喚いて…良いんです。
本当は…僕は…別れを切り出したとき、あなたに罵って…欲しかった。
だけどあなたは、どこまでも優しくて…。」
憤ったあなたは泣き出してしまった。

「僕が…あなたの夫…だったら、あなたの身体に…負担をかけておいて…捨てたりしなかった。」
そう言った時、あなたは我に返った。
「…あなたを置いていった男の…言う台詞ではないですね。」

あの頃と変わらない真っ直ぐな言葉。
きっと私があなたを引き留めていたら、失われてしまったものだ。

「離婚のことは、もう良いんです。もう過去のことですから。
それよりも、私は嬉しいんです。あなたが後ろ指を差されることなく奥様と添い遂げたこと。
別れたときの切り裂かれるような痛みも無駄じゃなかったこと。
だから泣かないで下さい。」
私は備え付けのティッシュであなたの涙を拭った。

「失礼しまーす。海宝さん、検温させて下さーい。」
この病院の看護師が入室してきた。

私は再会したことが嬉しくて、長居していることに気付かなかった。
あなたは安静にしていなければならないのに。

「…すいません、私そろそろお暇します。」
私はいそいそと立ち上がり、丸椅子を端に寄せた。

もうあなたに会うことはないでしょう。
だけど今日の再会がこれからの私の澪標になる。

退室しようとあなたに背を向けた時、看護師が「海宝さん、安静にしていて下さい!」
と声を上げた。
振り返ると、あなたが不自由な体で立ち上がろうともがいていた。

「行かないで…ください!もう離ればなれは…嫌なんです。
せっかく生還しても、あなたがいなければ…新しい航海は出来ない!」
必死に引き留めようとするあなたに、私の心は動いた。

「航さん。あなたは今はおかでゆっくり休む時です。
回復したら一緒に新しい航海をしましょう。
今日、美しい東雲が見られたんです。
覚えていますか?
一緒になろうって約束した日本海で美しい東雲を見たとき、『沈んでいく夕日より、昇っていく朝日のほうが僕たちの門出にふさわしいでしょう』って、言ってくれたこと。」
私はベッドの横に戻って、あなたの目線に近づくようその場にしゃがんだ。

「覚えていますよ。」
と言って、あなたはもがくのを止めた。


東京の病院を退院した後、あなたが小山にある私の家に越してきた。
リハビリをして驚異的な回復を果たしたあなたは、70代とは思えぬ色気を放っている。

「あなたがまだまだ若いのに、僕だけ老けている場合ではないでしょう。」
と言って、会社時代のつてで仕事を始めた。

休みの日には、昔のように黒豆茶を淹れて一緒に本や映画を楽しんでいる。

越してきてすぐの頃、高齢者施設にいる私の両親に婚約の挨拶をしてきた。
意外にもあなたの印象は良かった。
年上の奥様の最期を看取ったことが、両親の目に信頼できる人間だと映ったらしい。

私が60歳になったら、籍を入れて新潟に引っ越す予定だ。
あの空き家は流石に壊してしまったけれど、今跡地に新しい家を建てている。

「空き家を壊す前、庭で半分土に埋もれたアクアクルーズの空瓶を見つけました。
澪さん…僕と別れた後、あの家に行きましたね。」
とあなたはハンカチでくるんだ古びた香水瓶を取り出した。
どうやら動物に瓶を掘り返されたらしい。

「中身は海に還しました。けれど、瓶だけは航さんの側に居させてあげたいって思ったんです。
あなたが時々空き家に来ることは知っていましたから。」
私はあなたから瓶を受けとると、窓辺に飾った。
あの頃の鮮やかな色ではないけれど、かえって味がある。

「エルバヴェールだけでなく、この瓶も『澪標』だったんですね。」
あなたは私を背中から抱き締めた。
エルバヴェールの香りがふわりと重なる。

あの頃の荒波のような恋ではないけれど、私達は穏やかに新しい航海を続ける。


【完】

この小説の元になった作品は、こちらです。

本編「澪標」はこちらです。

may_citrusさん、私の急な申し出を快諾していただき、ありがとうございました。


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