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昭和27年その① 原宿に誕生したおもちゃ屋「さくらトイス」

原宿駅を降りて、表参道のケヤキ並木を歩いていくと、間もなく左側にナイキ原宿が見えてきます。
そこは私の父・宮川浩一が昭和27(1952)年におもちゃ屋「さくらトイス」を創業した地であり、私が生まれた場所でもありました。

当時、表参道の近くにあったのは、米軍将校とその家族の住宅地である「ワシントンハイツ」です。

「ワシントンハイツ」と「おもちゃ」、いったいどう結びつくのでしょうか?

昭和27年から55年間続いたおもちゃ屋「さくらトイス」の思い出話。
今回は、さくらトイスが始まった頃のお話です。

■ 終戦後の原宿で、米軍ファミリー向けの商売を

さくらトイスの店頭で、両親たちと

終戦後、私の父、宮川浩一たち男兄弟三人と父が、東京大空襲で焼失した浅草の自宅から原宿・表参道へ引越しました。
この空襲で当日浅草の家にいた父の後妻や妹たちは亡くなってしまいました。浩一の父(私の祖父)は蕎麦屋を営んでおり、都内何か所に支店や貸家を持っていましたが、戦禍により残ったのは原宿だけでした。ここは間貸家で、借りていた住人達が度々の空襲の火の粉から建物を守ってくれていたのです。

当時、表参道のすぐ近く(現在の代々木公園の辺り)には米軍将校とその家族の住宅地である「ワシントンハイツ」がありました。昭和27(1952)年のサンフランシスコ講和条約により、占領時代は終わっていましたが、日米安保条約により、在日米軍として駐留は続いていました。

昭和27年、前年に父を亡くし、兄夫婦と弟と一緒に暮らしていた浩一は、ワシントンハイツに暮らす米軍ファミリー向けに、花の販売店を始めました。
当時、浩一は東工大の学生でした。朝、市場で花を仕入れて店を開け、店番を兄嫁に頼んで大学へ通っていました。1階が店舗、2階に家族と間貸人たちが何人か住んでいました。

ワシントンハイツのアメリカ人たちはホームパーティをよく開き、花の需要がありました。例えばランを10円で仕入れ、コサージュにすると100円で飛ぶように売れました。

やがて、花とともにパーティ用品(紙製の三角帽子、ナフキン、室内飾り等)も置くようになると、これらも売れ、ハイツ内に配達にも行くようになりました。

■ ワシントンハイツに売っていないものは「おもちゃ」

ハイツ内に花の配達をしているうちに気が付いたことがありました。
それは、子どもがいっぱいいるのに、基地内のスーパー「PX」には、おもちゃが置いていないということです。

お客のアメリカ人からも、「おもちゃはないのか?」と聞かれ始めました。そこで、おもちゃ問屋の多かった蔵前に行って、売れそうなものだけ仕入れるようになったのです。

基地の中には大きなプールがあり、夏になると沢山の子どもたちが泳ぎ遊んでいたそうです。敗戦国日本にはもちろんプールなどなく、基地の中は別世界に思えたそうです。

そのうちお客より「水泳用の足ひれが欲しい」という声を聞きました。そこで、足ひれを仕入れて売ることにしたところ、これがヒット!
1日に何回も、足ひれを仕入れに蔵前まで自転車で走ったそうです。

当時、蔵前には金属玩具、ゴム製玩具の問屋が多くありました。
その中のゴム製品メインのおもちゃ問屋、清水ゴム商店(後の株式会社セイワ)から仕入れるようになりました。

父は何も分からず始めたおもちゃ屋でしたので、商品の並べ方、売り方、値段付けなどなど、すべて問屋さんに教えてもらいました。特に清水ゴムの大奥さんにはお世話になったそうです。

「売れ筋商品は店頭に出して回転を良くし、いっぱい売ること」
そんなことも教えられました。


昭和27年から平成19年までの55年間、東京・埼玉・神奈川・千葉・茨城の各地に34店舗を構えていたおもちゃ屋「さくらトイス」の2代目社長を務めた私が、おもちゃ屋の思い出話、懐かしいおもちゃのことをつづっていきます。毎月11日に公開予定ですので、続きをお楽しみに!

また、「さくらトイス」のことを覚えている方、ぜひコメントをくださいね。

編集協力:小窓舎

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