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演繹的問題解決法の限界:結局は直感に頼るしかないのです^^;

フェルマーの最終定理は証明されたと言われている。

しかし、その証明が正しいかどうかは、いまだに検証中だ。根本的に演繹的証明は「その証明が間違っていない」という証明ができない。

仮に、「証明が正しいかどうかは、論理を追えばわかる」のだとしよう。では、なぜワイルズの証明を第三者が検証しているのか? 「ワイルズが正しいと言うのならば、正しい」で話は終わりのはずだ。

ここで「ワイルズが間違っている可能性がある」と疑念を挟むならば、第三者が検証しても、「その人物間違っている可能性がある」と合理的な疑いが生じる。切りがない。

結局の所は、物理学と同じで「多くの人が検証して正しいと言うのならば、正しいとみなす」としか言えない。これは数学的厳密性からは、程遠いように、私には見える。

これが限界だ。要するに結論が正しいかどうかは、経験的な直感に頼るしか無い。と言うよりも「正しい」と信じるしかない。
 そして、それで話が通るならば、350年前に「我々はフェルマーが正しいと信じる」と言えば、この議論はそこで終わったのだ。

結局は、「論理」は判断を行った後に説明として使う「道具」なのだ。それ以上の価値があるかと言うと怪しい。

また現実社会では、ほとんどの場合は「エビデンスに基づく証明」は「もっともらしい説明」に過ぎない。そして、論理的な飛躍や穴が多く、批判に耐えない。

しかし、それでいいのだ。その種の説明は、人を納得させるために必要なのであって、論理的厳密性は求められない。実際、結論が間違っていることは、少しも珍しくない。でも、何年(時には何百年)も掛けて「証明」されるのを待つよりも、さっさと決断して行動したほうが得なのだ。

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というようなことを、コロナ騒ぎをTwitterで見ていて思いました^^

どの立場の人でも「エビデンス」を要求する人が多い。確かに主張には「根拠」は有った方がいいと、私も思います。でも「確実な証拠」なんて出てくるわけはないです。そこには過度にこだわらない方が良いと思いますねえ^^;

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ついでに言うと「論文」を「証拠」に挙げる人が多数いますが、

多くの論文(の結論)は間違っています。

何を隠そう、私自身がその種の論文を3本ほど学会に出しています。日本機械学会(溶接学会だったかも)と、日本応用物理学会と、日本レーザー学会です。査読も通ってますよ(笑)

これは何かと言うと、会社の営業用トークなのです。もちろん都合のいい試験データだけを並べて「我社の技術は素晴らしい」と書いてあります(爆)。(注1)(注2)

注1:ちなみに特許も似たようなものです。実験データなんて捏造に近いし、動作原理の説明なんかも嘘八百とは言いませんが、単なる思いつきで書いているだけ。
 特許とは「産業上の利益をもたらす発明」を保護するものなので、「この発明により性能が向上した」と書いてありますが、ほとんどはウソでしょうね。せいぜい「特定の条件においては向上した」だけです。あんなものは商品を売るときにキャッチコピーにできればそれでいいのです。「特許取得技術!」ってやつです^^;

 つまり、あれは「商売の道具」であって「真理を追求する」ものではない。だから「特許技術だから事実」なんてことは、全然ないです(笑)

 これに関しても、私自身がいくつもウソ特許を出願しています(爆笑)
注2:もちろん(私とは違って)誠実な研究者もいるはずです。私自身はそういう人に会ったことが有りませんが。
 でも正直な論文だから正しいかと言うと、そんなことはない。実験ミスなど珍しくもなんとも無い。むしろ、ほとんどの場合は間違っています。

 何よりも本質的に論文とは仮説を提示するものです。
 それが正しいとみなされるのは、批判的な検証に耐え抜いて生き残った場合だけです。そんな論文は実際にはめったに無いです。
 そもそも大半は、誰にも顧みられることなく、検証されることもなく埋もれて終わりです。例えば私の論文がそうです^^;

 そして、検証には、しばしば何十年もの時間を要します。
 一般相対性理論や量子力学も、論文を出したら「これは素晴らしい発見だ!」となったわけではない。めっちゃ疑われました。学会で正しいとコンセンサスを得られるまでには50年ぐらいかかったのです。


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