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【加筆】差別問題を扱うときの私の抽象思考

 誰かに自分の考えを伝えるときの私個人の文章において、譬え話や逸話的説明がしばしば登場する。そして、それらによって私の文章は突飛な論理展開を持っているような印象を与えることが少なくない。また、そもそもの考察において比喩的思考や逸話による思考を行っていると受け止められる場合もある。

 しかし、実際の私個人の思考において、比喩的思考や逸話による思考から思考を開始することはあまり無い。寧ろ、味も素っ気もない無味乾燥で単純な抽象思考からスタートすることが殆どだ。そして、その自己の思考を他人に伝達するとき、余りにも無味乾燥すぎて他人には意味不明に感じられるのではないかと思い、譬え話や逸話的説明に直して説明することが多いのだ。

 だが、突飛な論理展開と読者に受け止められることからも明らかだが、譬え話や逸話的説明といった説明技法の適切な使用は私個人の課題になっている。また、抽象思考をそのままの形で理解し易く説明する方向の表現も試行錯誤しているのだが、読者を置いてけぼりにしない文章をいつでも書けるようにはなっていない。

 他の人の論説文を読むと、その練達な文章と説明の巧みさに尊敬の念を抱くことも多々ある。いつか自分もその域に達したいものだが、今後も地道に努力するしかないだろう。

 とまぁ、色々と愚痴めいたことを冒頭から述べたのには理由がある。今回は少し実験的なnote記事にしようと思うのだ。すなわち、他者に伝わることをほぼ期待しない、「私が差別問題を考えるときの発想法、すなわち、単純で無味乾燥な抽象思考」をそのままnote記事にしようと考えたのだ。もちろん、多少の説明は付け加えるが、それが十分な説明になっているかどうかは検討しない。

 では、さっそく私が差別問題を考えるときの抽象思考を示そう。


■抽象的な発想

 比較可能な事態は置き換え可能な物事によって生じる。

比較可能な事態Sの抽象的構造:S=f(x,y,・・・)
 
置換可能な物事の種類:X={x1,x2,・・・}
 置換可能な物事の種類:Y={y1,y2,・・・}
       ・・・・

 差別に関する事態の構造について、以下のように考える。

 もっとも単純な差別的事態とは、原則的に以下の条件1を満たしている場合である。逆にもっとも単純な非差別的事態とは、原則的に条件2を満たす。

条件1:f(x1,y,・・・)≠f(x2,y,・・・)
条件2:f(x1,y,・・・)=f(x2,y,・・・)

 したがって、条件1を満たすにも拘らずその事態が差別的事態でないならば、それは例外であり、なにゆえにそれが例外であるのかが明確でなければならない。条件2についても同様である。因みに、条件の番号は1が「≠」を、2が「=」を示す。

 男女差別を具体例にとって考えよう。このとき、

X={男,女,・・・}

となる。さて、男女差別的事態および男女差別ではない事態とは、原則的に以下の条件を満たす。

男女差別の条件1 :f(男,y,・・・)≠f(女,y,・・・)
非男女差別の条件2:f(男,y,・・・)=f(女,y,・・・)

このとき、条件1を満たすにもかかわらず、その事態が男女差別的事態でないならば、それは例外であり、なにゆえそれが例外であるのかが明確でなければならない。また、非男女差別の条件2についても同様である。

 上記の例外となる、もっとも単純な差別に関する事態の構造については次のように考える。

 例外としてもっとも単純な差別的事態とは、原則的に以下の条件1.2を満たしている場合である。逆に例外としてもっとも単純な非差別的事態とは、原則的に条件1.1を満たす。

条件1.2:
F(x1,y1,・・・)≠F(x2,y1,・・・)かつF(x1,y2,・・・)=F(x2,y2,・・・)
条件1.1:
F(x1,y1,・・・)≠F(x2,y1,・・・)かつF(x1,y2,・・・)≠F(x2,y2,・・・)

 したがって、条件1.2を満たすにも拘らずその事態が差別的事態でないならば、それは例外であり、なにゆえにそれが例外であるのかが明確でなければならない。条件1.1についても同様である。

 外国人差別問題を具体例にとって考える。

居住民:X={日本人,アメリカ人,・・・}
居住国:Y={日本,アメリカ,・・・}

 アメリカ人(日本人)差別となる事態および、差別とならない事態とは以下の条件を満たす。

アメリカ人(日本人)差別となる条件1.2:
f(日本人,日本,・・・)≠f(アメリカ人,日本,・・・)
かつf(日本人,アメリカ,・・・)=f(アメリカ人,アメリカ,・・・)

アメリカ人(日本人)差別ではない条件1.1:
f(日本人,日本,・・・)≠f(アメリカ人,日本,・・・)
かつf(日本人,アメリカ,・・・)≠f(アメリカ人,アメリカ,・・・)

 このとき、条件1.2を満たすにもかかわらず、その事態がアメリカ人(日本人)差別的事態でないならば、それは例外であり、なにゆえそれが例外であるのかが明確でなければならない。また、アメリカ人(日本人)差別ではない条件1.1についても同様である。

・・・・以下同様に考える。


 最近、私はジェンダー差別問題をnoteではよく取り上げているが、それらの問題を考えるとき、「具体的に問題となった事態」を一旦、上記のような抽象的な事態に置き換えて当該問題について考察し、その上で譬え話や逸話で説明を試みているケースが多い。

 フェミニスト界隈において深刻な「お気持ち表明」のような問題は、上記のような抽象思考を経由してジェンダー差別問題を考えれば回避できるのではないかと私には感じられる。



■sasakureさんが提起した問題についての考察

 私の抽象モデルで具体的な場合を取り上げてみましょう。

 例えば、能登地震で「女性にだけ生理用品が配られた」という事態がありました。この事態は抽象モデルで示すと以下のような事態です。

f(男,能登地震の状況,・・・)≠f(女,能登地震の状況,・・・)

 もちろん、この事態に対する私の判断は「これは性差別的事態ではない」です。多くのフェミニストも同様に性差別ではないと判断しました。しかし、一部の男性から「これは性差別ではないのか」との声が有りました。ここで注意が必要なのですが、性差別の基礎的原則からすると一部の男性の声の方が正しいわけです。何といっても、

式1:f(男,・・・)≠f(女,・・・)
式2:f(男,・・・)=f(女,・・・)

という上記の式1または式2で表される事態に対する判断は、まずは性差別の基礎的原則「式1のとき性差別的事態であり、式2のとき差別的事態ではない」に則って判断するものだからです。つまり、基礎的原則によれば能登地震で出来した事態は性差別的事態になります。したがって、式1で表される事態であるにも拘らず「性差別的事態ではない」と判断した場合は、基礎的原則の例外であると判断したことになります。このときの説明責任は「この事態は例外である」と判断した側にあります。

 さて、能登地震の状況は以下のように抽象モデルでは示されます。

y1=(能登地震の状況) , y1∊Y

式1':F(男,y1,・・・)≠F(女,y1,・・・)

 ここで考えるべきなのは「能登地震の状況」が属している集合Yの性質です。そして、男女がキチンと納得し得る形で集合Yが定義できないならば、男女が異なる対応であった能登地震の状況を「性差別の基礎的原則から外れる例外である」と認めさせることはできないでしょう。

 このとき相手を説得するために行うことは、能登地震の状況とは逆の「男性側の方がフォローが手厚い事態となることが性差別に当たらない状況」を探すことです。

 仮にそのような状況をy2としましょう。そして、そのy2もまた集合Yに属しているとします。つまり、

y2=(男性側の方がフォローが手厚い或る状況) , y2∊Y

式1”:F(男,y2,・・・)≠F(女,y2,・・・)

といった形で表される事態が性差別的事態とならない、y2という具体的状況がキチンと想定できることです。

 すなわち、「能登地震の状況」も「男性側の方がフォローが手厚い或る状況」もその要素として含む集合Yをキチンと定義し得るかということなのです。

 この集合Yがシッカリと定義されて認識することが出来てはじめて、両性にとって「ああ、自分達が大変な場合はキチンとフォローしてもらえる公平な形での例外原則なんだ」と納得がいくわけです。

 しかし、大抵のフェミニストは「男女差が存在するフォローが性差別とならない例外原則」についての抽象的構造の理解の必要性すら認識していません。大半のフェミニストは「女性がフォローを受けるべき状況」しか想像しません。「男性がフォローを受けるべき状況など存在しない!」とすら考えるフェミニストが殆どです。それゆえ、フェミニスト達は適切な定義を集合Yに与えることが出来ず、納得のいかない男性達にマトモな論陣を張ることができないのです。



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