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【加筆修正】透明化される弱者男性への「男性差別」

 フェミニズムによる詭弁が炸裂した以下の記事がyahoo!ニュースに転載された。言葉遊びで、男性への差別は「差別じゃなく排除」だと言ってのける。その言葉遊び自体もまた男性差別である。

 さて、「現時点において現実に存在する"弱者男性"と呼ばれる男性」と「現時点において弱者男性"と呼ばれる男性と同様の困難状態にある女性」とを比較して社会における扱いにジェンダー差が存在しない場合は、それは"ジェンダーに関する差別問題"ではなく、単なる弱者に対する福祉問題や「強者-弱者」に関する公平の問題に過ぎない。すなわち、差別問題では有り得るがジェンダー差別問題ではなくなる。それゆえ殊更に「弱者男性問題」とアジェンダ設定する必要はない。しかし、現実において社会における扱いにジェンダー差が存在しているからこそ「弱者男性問題」として問題となってるのだ。この問題に関する議論に限った話でもないのだが、現実に生じている問題に関する議論は少なくとも理念においては「観察による結果」に立脚すべきである。

 さて、記事において中心的に展開されるのは、(勝手な)「弱者の定義」を用いた詭弁である。すなわち、「被差別性があるのが弱者。しかし、社会において男性は差別されていない。それ故、男性は弱者にならないので"弱者男性"と呼称されるべき男性は存在しない」とのテーゼである。容易に理解できるように記事のテーゼは「現時点において現実に存在する"弱者男性"と呼ばれる男性」に関する観察結果に基づいているものではない。単にフェミニズムの「男尊女卑社会なんだから男が被差別側になることなんてない」というドグマを振りかざしているだけのセクシズム言説に過ぎない。

 これから、記事において伊藤昌亮氏が用いた詭弁を見ていく。また同時に「弱者男性問題」とは何かについて考察していこう。


■弱者男性への差別問題とはどんな問題なのか

 伊藤氏は「弱者の定義」を用いて詭弁を駆使する。つまり、「差別じゃなく排除」と言葉遊びをすることで、あるいは「実際に排除された人間の救済におけるジェンダー差」を透明化し無視することで、男性は「被差別性を持つことが弱者である」との定義に当てはまらないとするのだ。そして、「弱者男性」との言葉は"弱者概念"の誤用であると伊藤氏は主張する。

 この事から分かるように、伊藤氏が詭弁を駆使する議論において「弱者の定義」は重要な働きをしている。したがって、まず彼が提示した「弱者の定義」を確認しよう。

――そもそも、「弱者男性」とはどのように定義できるでしょうか。

伊藤教授:まず、「弱者男性」について安直に定義するのではなく、この言葉が表すような男性たちが抱えている問題と、その背景、そしてそれに対応する支援策について、社会的な「合意」を成立させるための議論を行うことが大切だと考えます。

今日の社会は、主に2種類の「弱者性」を定めてきました。ひとつめは「経済的弱者」、貧困者や困窮者であり、高齢者や子どもが含まれることもあります。貧困の問題は戦後すぐから議論されており、経済的弱者については「社会保障などの支援策が必要だ」との合意が成立してきました。

次に、1960年代や70年代からは「差別」を受けている人も弱者であると見なされるようになりました。人種的マイノリティや性的マイノリティ、女性などです。日本の場合は部落差別も含まれます。差別の問題についても解決が必要だとの合意が成立し、日本でも1990年代から幅広く人権政策などが実施されるようになりました。

一方で、90年代からは「排除」の問題が注目されるようになりました。排除は、貧困や差別の対象となっている人にも、そうでない人にも起こり得ます。

弱者男性の問題について合意を成立させ、支援策を考えるためには、男性たちに生じている「排除」を考える必要があるのです。

「弱者男性」は「差別」されているのか? 社会から“排除”されてきた「低学歴中年男性」の支援に必要な視点
弁護士JP編集部 2024.5.24 弁護士JPニュース (強調引用者) 

 さて、上記の引用においては、弱者性が二通りの条件で定義されると示されている。その二つの条件を明確にしておこう。

  1. 経済的弱者性

  2. 被差別性

 この提示された条件だけをみると、これからの議論の流れとして「弱者男性とされる人間はいずれかの条件を満たす男性である」との内容になるのかと思わせる。前者の条件は、弱者男性とされる男性に対して当人を外形的に観察すれば判断できることであるから、議論は後者の条件、すなわち弱者男性が受けている差別に関して詳しくみていくのだろうとの予想が立つ。更に、引用において太字で強調した「男性たちに生じている『排除』」を具体的に見ていくことで、弱者男性の被差別性を確認するのだろうとの論者の意図を推測させる。

 しかし、それらの今後の議論の流れに対する予想・推測は全てハズレだ。

 なんと、弱者男性も含めた「弱者を排除するシステム」を論じ、そのシステムにおいて「男性は弱者として差別されない」ので、弱者男性とされる人間は弱者であっても弱者男性というジェンダー差別問題はもたない、という詭弁が展開されるのだ。現に存在している弱者男性を無視して「男性は差別されないのだから、男性ゆえに弱者となる事態は起こらない。それゆえ、"弱者男性"などと呼称される存在は居ない。以上!」という議論である。

 伊藤氏の認識に基づいた社会の構造に基づいて伊藤氏の詭弁を明らかにしよう(註1)。以下は彼の認識による日本社会の構造を図示したものだ。

図ア:(論者の認識を前提とした)弱者男性問題の構造 (筆者作成)

 さて、社会の構造が図アで示される構造にあるとしよう。このとき、マクロ的・総体的・全体的な視点からみるならば、この社会は男性優位な「女性差別的社会」と言っていいだろう。

 しかし、そういった男性優位な女性差別的社会であっても「困難状態にある男性集団(E)」は存在している。そして弱者男性問題についていえば、「困難状態にある集団(E∨F)」に属する人間に対する社会的な支援に関して、集団Eに属する人間と集団Fに属する人間とを比較したとき、その扱われ方や水準が異なる問題であって、マクロ的・総体的・全体的な男性優位とは基本的に関係の無い問題である。

 要するに伊藤氏は、マクロ的・総体的・全体的な視点から女性と男性の優位性を論じて、「(男性全般ではない)弱者男性に対するジェンダー差別」を透明化するのである(註2)。


■「論点先取の虚偽」の使用から窺える議論するつもりの無さ

 伊藤氏は「弱者男性」に関する議論の必要性を以下のように訴えている。

社会的な「合意」を成立させるための議論を行うことが大切だと考えます。

同上 (再掲)

 しかし、それは単なるポーズに過ぎない。伊藤氏にとっての議論は「フェミニズムのドグマをお前らも文句言わず唱和しろ!」という一方的な要求に過ぎない。このことを理解するために、彼が用いている「論点先取の虚偽」と呼ばれる種類の詭弁について確認しておこう。

ろんてんせんしゅ‐の‐きょぎ【論点先取の虚偽】
論理学で、論証においてそれ自身証明を必要とする命題を前提として採用するところから生じる虚偽。循環論証の虚偽、先決問題要求の虚偽、不当仮定の虚偽など

出典 デジタル大辞泉 小学館

 早速、「論点先取の虚偽」という詭弁の観点で以下に引用する箇所を見てみよう。

そもそも男性に生じている問題を「排除」ではなく「差別」の文脈で語ることは間違っています。差別とは、歴史的な構造のなかで、ある特定の属性を持ってきた人たちに対して社会が不利益を負わせてきたことです。この意味での「差別」は女性が受けている一方で、マジョリティ側の男性は受けていません。

「弱者男性」は「差別」されているのか? 社会から“排除”されてきた「低学歴中年男性」の支援に必要な視点弁護士
JP編集部 2024.5.24 弁護士JPニュース

 弱者の定義の中で挙げた被差別性という条件から弱者男性は"弱者"か否かを論証しようとしている議論において、「そもそも男性に生じている問題を『排除』ではなく『差別』の文脈で語ることは間違っています」と前提を置くとき、その前提が置かれた議論は論点先取の虚偽の議論である。そして、自分が論証すべき結論を最初から議論の前提に含ませようとする行為は、「議論を行うことが大切だ」という美辞麗句とは裏腹に、相手と議論する気が全く無い事を示している。つまり、議論の必要性など伊藤氏はこれっぽちも感じていない。彼のいう「合意」とは単に「自分の主張を全面的に認めるかどうか、ハイかYesで答えろ」と相手に要求しているだけの事なのだ。

 伊藤氏にとっての議論は、現実の存在である"弱者男性"がどうであるかを観察する前から結論が決まっているものなのだ。現実を観察する前から「男性に生じる問題は『差別』ではない」と認識するのである。まったく彼に対しては「現実の観測や観察に価値を置かないフランシス・ベーコン以前の学者なんかね?」という印象しか抱けない。

 記事の引用箇所に典型的に表れた伊藤氏のフェミニズムに毒された認識枠組みのクソさ加減が理解できただろうか。

 この伊藤氏とは真逆の姿勢で、実際に当事者である弱者男性を直視することで「弱者男性問題」を取り上げているのが、記事冒頭で紹介されたトイアンナ氏である。


■現実に即した議論と現実を無視した議論

 弱者男性問題は、性別が男性であると弱者であるにも関わらず支援が女性の場合と比較して届きにくいという問題だ。この問題は、記事冒頭で紹介されているトイアンナ氏は、去年の段階でシリーズ記事の中の以下の記事で取り上げている。

 また、上のトイアンナ氏の記事に関して私は以下のnote記事を書いた。

 さて、トイアンナ氏は記事の中で精神障害を持つ男性が取り上げている。つまり、当事者である弱者男性がどのような困難に直面しているのか、現実に存在している男性の状況を直視して論じているのだ。彼女が記事で取り上げた事例で示す弱者男性が直面する困難とは以下のようなものだ。

気分のアップダウンを繰り返す病気である双極性障害を理由に働けなくなり、生活保護に頼った。彼は、もともとお金のない家庭で育ったという。

「母親がメンタルを病んでいる人で、実家はゴミ屋敷でした。父は単身赴任でずっと不在。その後、離婚しました」

 それから、さらに情緒が不安定となった母親に怒鳴られる日々が続いた。みさこさん(引用者註:ハンドルネームは「みさこ」であるがこの人物は男性である)は家庭のストレスを理由に、不登校となっている。初等教育をツギハギにしか受けられなかったために、足し算、引き算が今も苦手だ。その後、立派に大学を出るも、双極性障害を発症してしまう。

「男なんだから母親を助けるのは当然」生活保護で暮らす30歳の首を絞めた“男らしさの呪縛”。幼少期から虐待されていたのに
トイアンナ 2023/11/27 週刊SPA!

“稼ぎ頭は男性”自らを弱者と認められない日本ならではの事情
「僕自身は、男性と女性でそんなに差があると思いたくないんですけど、それでも『男たるもの稼ぐべきだ』って思うこともあるんです」

 人によって強弱はあれど、日本にはまだ「男性は女性よりも稼ぐべきだ」「男たるもの、弱みを見せてはならない」といった風潮がある。生活保護の申請は、この2つと矛盾する。自分は弱者であり、福祉の支援が必要だと認めなければならないからだ。

 そのため、生活保護以下のレベルで暮らしているにもかかわらず、実際に受給できているのは7人に1人だけである。みさこさんも「正直、自分が弱者であるとは認めたくないですね。弱者かぁ……と思ってしまう」と、胸中を語る。

同上

弱みを見せた女性は助けられるが、男はナメられる
 この連載に先駆けて、筆者はみさこさん以外の男性からも話を聞いている。別途、お話を伺ったサライさん(仮名)も男らしさについてこう語る。

 「男性は、つらいことがあっても友達にすら相談しづらいですね。相当関係が進んでいないと、弱みを話しても“何なの、この人”ってなってしまう。その点、女性ならデート相手や男性の友人に弱みを話したら、助けてあげたいと思ってもらえるのでは。でも、男性同士でそれはない。逆に、弱みを見せるとナメられるかもしれないと思ってしまう」

 女性が精神疾患などの弱みを見せた場合、その女性を守りたいと考える、いわゆる「理解ある彼くん」を得られる可能性がある。だが、男性が最初から障害を告白した場合、女性が「あなたを守りたい」といって、男性を保護することはあまり期待できない。

同上

女性支援団体4829、男性支援団体ゼロの衝撃
 福祉に頼ることができたみさこさんですら、支援団体のような「助けてくれるグループ」からの支援は言及しなかった。日本にある認定NPOの内訳を見ると、女性を専門に支援する団体が4829あるが、男性支援団体はゼロ。内閣府が定めるNPOのカテゴリーにすらないので、存在そのものが想定されていないのである。みさこさんは心身に限界を感じ、自己破産の手続きを申請した。そして幸いにも、人生を借金ゼロでやり直せる見通しだ。

同上

 トイアンナ氏が記事で示した弱者男性に関する理解とは対照的なのが、伊藤氏の「弱者男性」についての無理解である。そのことがよく表れているのが、以下の引用箇所だ。

また、障害を持つ男性も「弱者男性」に含めるべきだ、と論じられることもあります。障害を持つ人が「差別」を受けていることは確かですが、「障害者は政策によって支援すべき」という社会的な合意はすでに成立しており、経済や恋愛とは位相が異なる問題です。

「弱者男性」は「差別」されているのか? 社会から“排除”されてきた「低学歴中年男性」の支援に必要な視点
弁護士JP編集部 2024.5.24 弁護士JPニュース

 繰り返すが、弱者男性問題は、弱者であるにも関わらず性別が男性であると女性の場合と比較して支援が届きにくいという問題だ。このことを伊藤氏はまるで理解していない。

 記事における核心的な詭弁は以上である。以降は個別的な論点での詭弁について見ていこう。


■システム移行に伴う問題であっても救済に関して性差があるなら差別であるはず

 日本社会は昭和的な性別役割分業社会から、ジェンダー平等を是とする性別にとらわれない社会へと転換しようとしている。そして、その社会構造の転換による軋轢に注目して、伊藤氏は以下のようなトピックを議論において提出する。

――具体的には、男性たちにはどのような「排除」が生じているのでしょうか。

伊藤教授:ひとつの原因は、産業構造や経済状況の変化により、戦後の日本で前提となってきた「日本型福祉社会」モデルが崩れたことです。

日本型福祉社会は「男は正社員、女は専業主婦」とする性別役割分業を前提にしていました。正社員となった男性は過酷な労働を続けて、その妻となった女性が家庭に入り夫や子・親のケアを行う代わりに、企業が社員の家族ごと経済的に面倒を見るというシステムです。

このシステムが成立している間は、日本は社会保障費を抑えつつ豊かな福祉を実現することができました。しかし、システムが崩れた後は社会保障や公的な福祉制度の不足が浮き彫りになりました。また、財界が派遣労働・非正規労働を拡大したことにより、さまざまな問題が生じたのです。

同上

 上記の引用で取り上げられている日本型福祉社会モデルの議論は、マクロ的・全体的な視点で「かつての日本社会は、如何にして(社会に放り出される)弱者を生み出さないようにしていたか」というモノである。かつての日本では「男は正社員、女は専業主婦」とする「性別役割分業を前提にする家族」に包摂して困難状態に陥りそうな人間を社会的弱者にしなかったのだという予防の視点の福祉システムの議論を伊藤氏はしている。

 ただし、弱者男性問題は弱者男性の発生論よりも「弱者の男性は同様の女性と比較して、救済されていないよね?」という今いる弱者の男性の状態と救済に関する議論こそがメインストリームである。そして、男性全般ではなく「弱者男性の被差別性」を論じるのであれば、弱者男性とはならなかった男性を議論の俎上に載せるのではなく、まさに「弱者男性そのもの」を俎上に載せて議論しなければならない

 もちろん、かつての日本における弱者男性と弱者女性との状態を比較して「かつての日本において、弱者女性よりも弱者男性の方が悲惨であったようなことはない。したがって、かつての日本社会においては弱者男性とされる人間の被差別性は否定される」という議論によって「それはジェンダー差別の問題ではなく、社会全体の福祉水準(あるいはそれを可能にする社会全体のパワー)の問題なのだ!」と結論付けることは可能だ。

 しかし、かつての日本という過去の時点に関する話でも、家族に包摂されなかった社会的弱者がどのように救済されるのかという救済の視点での福祉システムの議論を伊藤氏はしていない。すなわち、そのようなかつての社会における"弱者男性とされる男性"の被差別性についての議論を伊藤氏は一切していないのだ。更に言えば、弱者男性問題は、性別役割分業下にあったかつての日本社会の問題ではなく、ジェンダー平等の価値観を前提とした現代的な日本社会の問題である。

 もっとも、"かつての日本社会"の話は、経緯を知ることで現状把握をより確かなものにするという議論上の必要から提出されたと考えてもよい。つまり、以下のような社会システムの移行に関する認識を読者と共有しようとしているのだとしてもよい。

 かつての日本社会は安上がりな「日本型福祉社会」というシステムを採用していた。しかし、それは性別役割分業の前提の下で成立していたシステムなので、ジェンダー平等の価値観となった現在においては成立不可能なシステムである。したがって、性別役割分業を前提としない新たな福祉システムを構築して運用しなければならない。しかし、現状は問題が3つ立ち上がっている。

1.前システムがリーズナブルであったが故に、新システム運用の必要リソース増大に対応できていない
2.移行期であるので新システムが前システムに追い付いていない事態が生じている
3.移行期であるので新システムへの不適応を起こす人が少なからず居る

伊藤氏が議論において主張する「かつての日本型福祉社会からの移行」が齎す問題 (筆者作成)

 以上の認識を共有しようとしたとしても、伊藤氏の議論には欺瞞が存在する。分かり易く日常的な言い回しでそのことを示そう。

「システム移行でゴタゴタしてますさかい、ワリ食う人も居りますやろ。ワザととは違いますで」

 システム移行に伴うトラブル自体は理解できる話である。確かにそれは起こり得るトラブルだろう。しかし、システム移行に伴うトラブルがたとえ避け得ないものであったとしても、その被害にジェンダー差があるとき、少なくとも事後においてその救済にジェンダー差があるとき、それは原則的にジェンダー差別現象である。すなわち、「避け得ないトラブルで男女で被害に差が出ます。でも、それは避け得ないトラブルであるが故に事後の救済においても男女差が出ても性差別ではありません」と主張するには確固たる論拠が必要だ。

 被害者の男女比率に差異がある事自体はジェンダー差別でないことは十分にあり得ることだ。しかし、同じ問題に関する被害者の救済において性差があるとき、それは基本的にジェンダー差別だ。このことは、別の例で考えれば明白だ。

 例えば、痛風や骨粗鬆症に罹患する人間に関して性差がある。痛風は男性に多く、骨粗鬆症は女性に多い。男女差が生じる原因は、痛風は遺伝の仕組みであり、骨粗鬆症はホルモンの仕組みである。このような理由で男女差が生じているために、患者の男女比自体は性差別ではない。しかし、痛風患者や骨粗鬆症患者の治療に関して、一方の性別の患者を優先して他方の性別の患者を劣後させるとき、それはジェンダー差別となる。

 同様に、システム移行によって一方の性別に被害が集中したとしてもそれ自体はジェンダー差別ではない可能性もある。しかし、システム移行による被害者の救済において、一方の性別が優先され他方の性別が劣後するとき、それは原則的にジェンダー差別である。

 そうであるにも拘らず、伊藤氏は議論において「システム移行で起きた問題だから仕方が無いんだ。だから救済に性差があっても差別じゃない」という論法を繰り返す。

 実際にその論法を用いている様子を見てみよう。

「モテない、職がない、うだつが上がらない」
伊藤教授:92年に活動を開始した社会運動グループの「だめ連」 の参加者は、自分たちのことを「モテない、職がない、うだつが上がらない」と表現しました。この言葉は、90年代以降の日本で男性たちに起こった問題をうまく表現しています。

「モテない」は「恋愛弱者」のことです。「男性は正社員になって家族を養う」ことが当たり前ではなくなり、結婚できない男性が急増しました。

「職がない」は「経済的弱者」のことです。貧困の正式な定義は「等価可処分所得の中央値の半分を下回る」ですが、そこまではいかなくとも中央値は下回る、「プチ貧困」に苦しむ人が増えました。

「うだつが上がらない」は「コミュニケーション弱者」のことです。産業構造が変わったことにより労働においてもコミュニケーション能力が求められるようになり、教育政策でもコミュニケーション能力を重視するようになりましたが、教育が間に合わず変化に対応できない人が多く生じました。

経済やコミュニケーションと恋愛・結婚は結びついているため、これらのいずれも持たない「弱者男性」が、とくに就職氷河期世代に多く登場することになりました。つまり、弱者男性とは、社会の変化の "ワリを食った”存在なのです。

「弱者男性」は「差別」されているのか? 社会から“排除”されてきた「低学歴中年男性」の支援に必要な視点
弁護士JP編集部 2024.5.24 弁護士JPニュース 

 上記の引用を見れば分かるように「システム移行でゴタゴタしてますさかい、ワリ食う人も居りますやろ。ワザととは違いますで」という話しか伊藤氏はしていない。

 繰り返すが、「弱者男性と呼ばれる人間の弱者性を否定するために、その人間の"被差別性"を否定する」のであれば、「システム移行により女性にも被害者が居り、かつ、その女性被害者の扱われ方や救済の水準は男性被害者と同等である」ことを示す必要がある。ただし、この(否定しようとする)被差別性は、弱者男性という性別に紐づけられた弱者に関する被差別性であって、性別に紐づいていないシステム移行に伴う不適応者への被差別性ではない。


■エトスとパトスに訴えかけるレトリックを用いる詭弁

 「『自分達は"弱者男性"だ!』と主張する連中とはこんな奴らだよ」との伊藤氏の嘲りが引用にある弱者男性の様々な側面の列挙である。続く議論において、(叶うことがほぼ有り得ない)復古主義的な「日本型福祉社会への回帰」を男性の主張として取り上げ、彼らが愚かしい人間であることを暗示するからである。

 当たり前の話であるが「愚かしい主張をしている人間の被差別性」と「その愚かしい主張の妥当性」は別物である。妥当性絶無のバカな主張をする被差別性をもった人間は存在する。また、ソイツの救済には拒否的感情しか抱けない場合であってもソイツが救済対象となる場合も存在している(例えば、京アニ放火事件の犯人への治療がその典型である)。したがって、「(弱者)男性が復古主義的主張を行っていること」は論理的には不必要なパーツである。

 しかし、レトリックとしては有効な手法だ。所謂、エトスとパトスに訴えかける手法として実に巧妙である。「相手(=弱者男性)は復古主義的主張をするようなバカな連中なんですよ」と暗示することで、読者が弱者男性側に何となく与していたとき「アンタも復古主義的主張に同調するような頭の固い愚物かね?」と批判されたような気分にさせるレトリックなのだ。

 実際のところ、弱者男性論に関する言説に関して復古主義的論調の言説も無いわけではないが、むしろジェンダー平等主義あるいはマスキュリズムに基づく言説が少なくない。つまり、「ジェンダー平等を推進しようと言っているのに、俺達の状況はジェンダー平等じゃないよね?」との論調が主流である。要するに、「弱者男性の様々な側面の列挙」に続く議論において(弱者)男性側の言説として復古主義的主張を紹介するのは、詭弁論法の一つであるストローマン論法なのだ。


■不適切な比較を用いる詭弁

 引用した「弱者男性の様々な側面の列挙」の伊藤氏の議論における機能を別の側面から考察しよう。

 もしも、引用における「弱者男性の様々な側面の列挙」を、弱者男性の被差別性を論じるために不可欠な議論のパーツにするにするのであれば、続く議論において「システム移行が女性に与えた影響と、被害女性の救済の在り方」が論じられたはずである。しかし、「女性が大変なのは論じるまでもなく当たり前でしょう?」という認識でしか、議論においては取り上げられていない。その様子を以下に示そう。

ただし、非正規労働がもたらす経済的な問題は、女性にとってのほうがより深刻です。結局、日本型福祉社会が崩れた現在でも、結婚していない女性が生きるのは困難な状況があり、シングルマザーなどの「弱者女性」の苦労は「弱者男性」の比ではないでしょう。

「弱者男性」は「差別」されているのか? 社会から“排除”されてきた「低学歴中年男性」の支援に必要な視点
弁護士JP編集部 2024.5.24 弁護士JPニュース (強調引用者) 

 上記の引用において太字で強調した論法が如何にカスであるか分かるだろうか。弱者男性に関しては先の列挙において「モテない」「プチ貧困」「うだつが上がらない」といった形容で示される程度の困難な状況しか示さず、弱者女性についてはシングルマザーといった重めの困難な状況を示させる。この論法は「単品のオムライスとデザート付きパスタセットのカロリー比較」にも譬えることが出来るだろう。男性側は「弱者男性」である一方で、女性側は「シングルマザーの弱者女性」を出してくるのだから、イメージで比較させるのであっても、それは公平な比較になっていない。

 更に狡猾なのが日本におけるシングルマザーの位置づけである。シングルマザーに対応するのがシングルファーザーであるのだが、シングルファーザーとシングルマザーは日本において非対称な存在である。それというのも裁判所が認める親権取得が母親に偏っているからだ。もしも、離婚後の経済状況や家庭環境が父親と母親が同程度であった場合はほぼ確定的に母親に親権が行く。つまり、父親が準備できる環境が母親が準備できる環境よりも余程よくない限り、シングルファーザーになることができないのだ。したがって、自分の状況が困難な状況にあるにも関わらず親権を勝ち取ることができるのはマザー側だけなのだ。したがって、シングルマザーとシングルファーザーを単純にミラーリングしても「シングルファーザーは言うほど大変じゃない」といった話になる。

 ではなぜ、天秤の左右の皿に載せるべきでない「弱者男性の苦労」と「シングルマザーなどの『弱者女性』の苦労」とを乗せて、伊藤氏は比較してみせたのか。それは本文中の以下の箇所で紹介される学術的な研究があるからだろう。

伊藤教授:EUで使われていた指標をもとにゼロ年代の後半に社会学者の阿部彩さん(東京都立大学教授)が作成した「社会的排除指標」による調査では、物質的な貧困のほかに社会関係や社会参加などのさまざまな点を総合すれば、男性のほうが排除度が高く、とくに「低学歴の単身中年男性」が最も排除されやすいプロフィールだったそうです。

「弱者男性」は「差別」されているのか? 社会から“排除”されてきた「低学歴中年男性」の支援に必要な視点
弁護士JP編集部 2024.5.24 弁護士JPニュース (強調引用者) 

 つまり、2000年代に行われた社会学者の阿部彩氏による学術的研究によれば、「低学歴の単身中年男性」である弱者男性が最も困難な状況にあるのだ。

 伊藤氏は、先行研究を(アカデミアの住人らしく)無視するわけにもいかず、ちょろっと触れて印象論で何とか誤魔化そうとしたのだろう。それが、「女性にとってのほうがより深刻です」というフェミニズムお決まりのドグマの提示であり、不適切な比較の提示なのだ。本気でカスである。


■おわりに

 結局のところ、伊藤氏は大学教授という強者男性である。したがって、世の中のフェミニズム礼賛の風潮も手伝ってフェミ騎士でいることが快いのだろう。それゆえ、フェミニズムのドグマに反するような「男性が差別されている」という事実に、頑なに目を向けようとしないのだろう。そして、伊藤氏が指摘するような以下の社会的合意があってなお、男女で支援に繋がることのできることに関して、ジェンダー差が存在していることに気づけないのだろう。

障害を持つ人が「差別」を受けていることは確かですが、「障害者は政策によって支援すべき」という社会的な合意はすでに成立しており

「弱者男性」は「差別」されているのか? 社会から“排除”されてきた「低学歴中年男性」の支援に必要な視点弁護士JP編集部 2024.5.24 弁護士JPニュース (再掲)

 トイアンナ氏が彼女の記事にて指摘したように、上記のような社会的合意があってなお、男女で「支援を受けることの差異」が存在していることが弱者男性の問題なのだ。

 それにもかかわらず、伊藤氏は以下のような言葉遊びで、2024年時点において現実に存在している弱者男性問題を無視している。

社会全体として見れば、70年代型の「差別」問題をきちんと解決したうえで、90年代型の「排除」問題に取り組んでいくべきでしょう。日本では「差別」問題への対応が遅れ、そうこうしているうちに「排除」問題が顕在化してしまったので、二つが混同され、そこに対立が生じていますが、それぞれの領域の「弱者」にどんな支援策が必要なのかを、トータルで考えていくことが必要です。

同上

 弱者男性問題の解決を考えるのであれば、1970年代の差別とやらでもなく1990年代の排除とやらでもなく、2020年代の「弱者男性という現実」を直視して問題に取り組むべきであるだろう


註1 私個人としては、自殺率,労災(過労死・過労自殺を含む)死傷者数・アルコール依存症患者男女比・ホームレス男女比・自治体設置の性別毎の各シェルター数の差・性別毎の問題相談窓口の差・性別毎の支援NPO数の差等のハードデータから窺える男女差から、「一定水準以下の困難状態にある」のは男性の方が寧ろ多いと考えている。ただし、このことは相対的には男性優位であったとしても生じ得ることだ。分散が大きなハイリスクハイリターン集団が男性集団であり、分散が小さなローリスクローリターン集団が女性集団であると私個人は考えている。このときマクロ的視点からローリスクローリターン集団がハイリスクハイリターン集団に劣後することは当然起こり得ることである。因みに、図アと同様の形で図示すれば以下である。

図イ:弱者男性問題の構造 (筆者作成)


註2 男性の問題を透明化する「フェミニズムの枠組み」が持つ暴力性に関しては、以前に以下のnote記事で取り上げた。ただし、「小山(狂)氏の問題意識」という形で取り上げた記事なのでその点は注意されたい。



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