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"チー牛男性"に関するラベリング理論からみたフェミニストの加害性

 フェミニストお気に入りの理論にケイト・マンのミソジニー理論というものがある。当該理論を取り上げたnote記事を私もいくつか書いたが、当該理論には功罪両面が存在する。その罪の面が現代日本において引き起こしている問題の一つが「チー牛問題」である。男女平等を謳いフェミニストを自認するセクシスト共が、自己のミサンドリー行為を社会正義の代行として認識する、三重の意味での恥知らずな行為――邪悪な行為の実行・邪悪な行為の正当化・性差別行為の行為者でありながら男女平等主義者と自認する――の理論的背景となっているものが、ケイト・マンのミソジニー理論、とりわけ
彼女の「道徳財の経済(economy of moral goods)」の理論である。

 さて、ケイト・マンはミソジニー犯罪を犯した男性異常者の思想を分析している。そして、その種の異常者の犯行の動機となった思想において「道徳財の経済」という理屈の存在を指摘した。

 この段階で止めて置けば「なるほど、彼らはそんな奇怪な理屈で自己の犯罪を正当化しているのか」と、ミソジニー犯罪を犯す異常者についての理解が深まるだけである。言ってみれば、異常者の思考や思想を知ることでそういう異常思考に陥らないように注意するという形で役に立つ。言わば、陰謀論や一発逆転思考あるいは選民思想などの危険な思考が如何なるものかを知ることで、そのような異常思考に陥ることの防止や、異常思考を利用したカルトを避けることに役立つのと同様の形で有用という訳である。

 しかし、ケイト・マンのミソジニー理論がおかしいのは、男性異常者の思考・思想である「道徳財の経済」を、男性一般が保有する思考・思想であり、延いては(男尊女卑社会である)現代社会体制のイデオロギーであると敷衍したことにある。

 これは明らかに無茶苦茶な認識である。狂人の思考や思想はあくまでも狂人の思考や思想であって、そこから何らかの教訓や反省材料を獲得し得るとしても、普通の人間の思考や思想あるいは社会一般の主要イデオロギーと同一視する認識が妥当であることはない。狂人の性別を男性に限定することや「普通の人間」の性別として男性だけを想定することで、その滅茶苦茶さ加減が消滅することはあり得ない。「男性を悪者にする理論であれば、どんな非合理的な理論であっても正しい理論となる」ようなマジカルな現象は、フェミニストの頭の中にしか存在しない。

 つまり、ケイト・マンの「道徳財の経済」の理論は、"忌避すべき異常思考の指摘"との位置づけで評価されるべき理論であって、理論の適用範囲をそれ以上に広げることは、理論の提唱者自身が行っていることであっても妥当ではない。

 以上のことを前提において、ラベリング理論およびマートンの「予言の事故成就」概念から見た"チー牛男性"に対するフェミニストの加害性を見ていこう。


■チー牛男性とは

 最近とみに有名になった、ある種の男性を指す蔑称に「チー牛」というものがある。ただ、「チー牛」という蔑称は、いわゆるネットミームであるのでひょっとしたら知らない人もいるかもしれない。そこで少し「チー牛」のネットミームについて簡単に説明しよう。それにあたって、まずなにより「チー牛」のネットミームの大元となった画像を挙げておこう。

 蔑称の由来は画像の男性の注文している「三色チーズ牛丼」である。換喩表現によって画像からイメージされる男性の類型を、三色チーズ牛丼を省略した「チー牛」で呼慣らわすようになったのだ。

 実にタイムリーなことに、雑誌LASISAが「チー牛」に関する記事を掲載し、それがyahoo!ニュースに転載された。

 ただし、上記の記事はかなり部分でWikipediaの「チーズ牛丼(ネットスラング)」の項の記述を引き写している。さらにネットミーム化した経緯などはWikipediaを参照した方がよいように思われる。とはいえ、チー牛とされる男性の人物像の理解度を上げる当該記事の箇所を引用しよう。

「就労移行支援で面白かったのは利用者の若い男が皆同じ顔をしてた事」

結局「チー牛」とは誰なのか? 広まるネットスラング“侮蔑的”な意味に反発もLASISA編集部 2024/2/4 LASISA

「ザ・陰キャって顔」「眼鏡」「黒髪」などの特徴

同上

チー牛とは当初おとなしそうな男性を指す言葉でした。初出となった「なんJ」の書き込みには「覇気のない抜けた顔」「(悪い意味で)童顔」「大人なのに中学生のようで気味悪い」といった形容表現も並び、もともと侮蔑的な意味をはらんでいたとはいえ、他害性・加害性とはむしろ真逆の人物像を指していたと考えるのが一般的です。

同上

 大元の画像と上記の引用からチー牛とされる男性像の本質が掴めただろうか。「女性からみて魅力のない男性の一つの典型」がチー牛男性なのだ。このことを改めて確認しよう。

 画像からは以下のようなことが窺える。

 チー牛とされる男性の外見は女性が性愛面で魅力を感じるような外見ではない。また、チーズ牛丼という安価でカロリーの高いファストフードを常食していることは、そのことだけを判断材料にするならば女性が共に食事をする相手として食の嗜好が魅力的ではない。さらに、髪型・ヘアカラー等から(女性が関心を抱くことの多い)美容やファッションについての関心が希薄であることが窺え、会話における共通の興味関心、あるいは外面に関するTPO等の価値観に齟齬が生じる可能性が高い。

 また、記事の引用からは以下のことが窺える。

 そもそも「ネットミームのチー牛」は、就労移行支援の利用者が画像の男性の如くの人間ばかりだったという自虐的な報告によって誕生している。このとき登場する就労移行支援を利用する男性は、当然ながら大企業等に勤めるハイスペック男性などではあり得ない。つまり、チー牛とされる男性は経済力からみても魅力に欠ける男性なのだ。

 また、チー牛とされる男性は陰キャで覇気が無い男性である。覇気の無い陰キャは「他人を(他人にとって)未知の世界に連れ出す」という行動を大抵の場合に取らない。未知の世界に出会う体験は多くの場合ドキドキワクワクするような体験となるが、そのような刺激的体験を彼らは女性に与えないのだ。

 更に、チー牛とされる男性は「(悪い意味で)童顔」「大人なのに中学生のようで気味悪い」という人達だ。つまり、未熟な人間と捉えられているのがチー牛とされる男性なのだ。大抵の場合、未熟な人間と付き合うことは労多くして益が少ない。もちろん、溌剌とした若さがあれば未熟であっても行動を共にする楽しさがあるが、覇気の無い陰キャの彼らに溌剌とした若さを期待することはできない。また、今後に期待が持てるのであれば現時点で未熟であっても成長を見る楽しさがあるが、彼らは能力・嗜好・容姿のどれをとってもあまりパッとせず将来性は高くない。つまり、彼らの未熟さは女性にとって単にデメリットでしかないのだ。

 以上から理解できるように、チー牛とされる男性は、他害性・加害性はなくとも「女性にとって役立たずな魅力ゼロの存在」なのだ。女性の活動を支援する能力が低い・魅力的な未知の世界に連れ出すこともない・恋愛においてもトキメキを与えてモチベートする容姿もないために女性の役に立たない存在として彼らは認識される。すなわち、典型的な非モテ男性として挙げられる男性の類型がチー牛男性なのである。


■フェミニストのラベリング行為の背景となる「道徳財の経済」の理論

 ケイト・マンの「道徳財の経済」理論の具体的内容についてこれまで触れてこなかったが、これから「フェミニストのラベリング行為」に関して如何に当該理論が関係するか、明確に理解できるように理論内容を紹介していくことにしよう。

 「道徳財の経済」の理論における道徳財とは「愛情・敬意・やさしさ・憐み・配慮・気配り・慰め・安全・安定等」を指している。また道徳財に関して、社会は女性が男性に一方的に与えるものとしてコード化していると同理論では考える。また、ミソジニー犯罪を行う男性異常者の犯行の動機となった思想について、「俺は男だから社会に出たら参加賞として道徳財が女性から貰えるはずだ。それにもかかわらず、俺には参加賞の道徳財が与えられていない。これは女性の義務の懈怠であるのだから罰しなければいけない」といったものであると、同理論で説明する。そして、同理論では社会における体制側イデオロギーとして、当該男性異常者と同じ思想が採用されているのだと主張するのである。

 上記の説明から、フェミニストがラベリング行為を行う理論的背景としてケイト・マンの「道徳財の経済」理論があることが理解できただろうか。つまり、当該理論は以下のことを主張しているのだ。

 現代社会に生きる男性には「理由の如何を問わず、自分に女性が道徳財を提供しないとき、女性の義務の懈怠と見做して、ミソジニー行為で罰しなくてはいけない」というプログラムがインストールされている。

筆者作成

 そして、この主張の男性像から「女性から道徳財を獲得できていないであろう男性は、ミソジニー行為を行う人間である」との認識枠組みが、世界的に評価されているフェミニズム学者からお墨付きを与えられているという意識のもと、フェミニストの内面世界において成立する。


■ラベリング理論およびマートンの「予言の自己成就」概念

 さて、フェミニストの加害性を考えるときの重要な社会学の理論にラベリング理論とマートンの「予言の自己成就」概念がある。二つとも有名な理論・概念なので社会学に触れたことのある読者には説明不要であろうけれども、まずはラベリング理論について事典による解説を紹介しておこう。

【ラベリング論】らべりんぐろん labeling theory
 社会の側が特定の行為を逸脱と判定し、その行為をする者を「逸脱者」とみなすことで、逸脱者が生みだされると考える社会学の理論的視座。社会的反作用論やレイベリング論ともいう。

 犯罪や非行は、時代や地域によって逸脱行為とはみなされないことがある。たとえば、戦時中に戦地で敵兵を殺しても犯罪ではないが、平時であれば殺人は犯罪となる。このように、殺人を逸脱行為と判定し、殺人者を逸脱者とみなす社会において、殺人は犯罪になる。

 ラベリング論はフランスの社会学者のデュルケームやオーストリア系アメリカ人の歴史学者タンネンバウムFrank Tannenbaum(1893―1969)など、多くの研究者が着想していたが、1950年代にアメリカの社会学者のレマートEdwin Lemert(1912―1996)が基礎を築いた。そして、1960年代に社会学者のベッカーHoward Saul Becker(1928―2023)が大きく発展させた。

 ベッカーは「逸脱者」というラベル(烙印(らくいん)、レッテル)を貼(は)る人や団体を道徳事業家moral entrepreneursとよび、ダンス・ミュージシャンやマリファナ使用者の調査を通じて、彼らが社会改良運動家や司法機関などの道徳事業家によって逸脱者にされていく過程を明らかにした。そして、ひとたび逸脱者のラベルが貼られると、逸脱者としての処遇が付きまとうことになり、逸脱行為は増幅されていく。従来の多くの理論が逸脱の「行為」や逸脱者という「人物」に着目していたのに対して、ラベリング論は道徳事業家によって逸脱者ラベルが貼られる「過程」に着目していることから、理論的視座に大きな転換をもたらした。一方で、ラベリング論は社会改良運動や司法の正当性を揺るがせる、個人間の相互行為(かかわり合い)を重要視しすぎている、といった批判もある。
                            [田中智仁]
『徳岡秀雄著『社会病理の分析視角――ラベリング論・再考』(1987・東京大学出版会)』▽『宝月誠著『逸脱論の研究――レイベリング論から社会的相互作用論へ』(1990・恒星社厚生閣)』▽『H・S・ベッカー著、村上直之訳『完訳アウトサイダーズ――ラベリング理論再考』(2011・現代人文社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) (強調引用者)

 また、「予言の自己成就」は、アメリカの社会学者マートンが提唱した概念で、「社会状態についての(誤った)予言・予測を信じて、その認識のもと人々が行動するために、結果的に予言・予測が実現してしまう現象」を指す。

 フェミニストの加害性の構造に関して、この二つの社会学理論を用いて示していくわけだが、まずは抽象化した構造を示そう。

 本来的には関連性の無い二つの特徴を示す集合XとYがあったとする。

X={x1,x2,x3,・・・} , Y={y1,y2,y3,・・・}

 ある人物aに関して、集合Xに属する特徴が複数当てはまるとしたとき、ある人物aは集団Aに属するとする。また、ある人物bに関して、集合Yに属する特徴が複数当てはまるとしたとき、ある人物bは集団Bに属するとする。

 さて、ある道徳事業家moral entrepreneursが社会に対して「AならばB」と提示(※マートンのいう予言)したとしよう。

 もともと集団AとBは、お互い関連性のない特徴によって定義される集団である。したがって「AならばB」との道徳事業家の提示は誤りである。しかし、集団Aに対して道徳事業家から「お前たちは集団Bだ!(AならばB)」とレッテルを貼り付けられると、社会および周囲は集団Aに対して集団Bとしての処遇を与えるようになる。

 本来、集合Yに属する特徴を持たない集団Aであっても、社会から集団Bとしての処遇を受け続ける結果、集団Aは集合Yに属する特徴を保有するようになり、集団Bと重なり合うようになる。

 その結果、道徳事業家の「AならばB」との提示が正しくなる事態――マートンの言う"予言の自己成就"――が生じる。

 「ラベリング理論」「"予言の自己成就"の概念」から説明される上記のような構造を、ケイト・マンの「道徳財の経済」の理論を用いてチー牛男性に押し付けていることこそ、フェミニストの加害性である。


■「ラベリング理論」「"予言の自己成就"の概念」から"チー牛男性"を巡る状況

 チー牛男性に対してミソジニストとレッテルを貼り付けるフェミニストに関して、前節で示したラベリング過程と予言の自己成就の抽象的構造を用いてみていこう。

 さて、"チー牛"と侮蔑される男性集団Aについて、チー牛集団Aに属するメンバーaが持つ本来的な特徴は集合Xに属する特徴であり、それは具体的には「チー牛男性とは」の節で示した特徴である。「容貌がパッとせず、オシャレでもなく、覇気がなく、陰キャで、スポーツ等についても無縁そうで、食事もファストフードで済ます様に健康にも味にも雰囲気にも無頓着で、収入面でも低スペックっぽい、・・・」といった特徴が集合Xの特徴であり、その特徴を持つ男性が、本来の"チー牛"との蔑称で呼ばれる男性である。したがって、チー牛男性の本来的な特徴にミソジニックな特徴は当然のこと他害性・加害性も含まれていない。

 しかし、チー牛男性の特徴集合Xに属する特徴は非モテの人間の特徴でもある。つまり、女性にとって役立たずな魅力ゼロとなる特徴であるために、チー牛男性は「愛情・敬意・やさしさ・配慮・・・」といったケイト・マンが言う所の道徳財の提供を女性から受けにくくなる。

 因みに当たり前の話なのだが、男女共に異性としての魅力のある人間に「愛情・敬意・やさしさ・配慮・・・」といった道徳財を提供するのであって、一方の性別だけが他方の性別に道徳財を提供するなどといったことは、現代の先進諸国社会において見られない。ハンサムな男性、人格者の男性、愉快で楽しい男性、・・・といった男性に女性は道徳財を提供し、また、美しい女性、人格者の女性、愉快で楽しい女性、・・・といった女性に男性は道徳財を提供している。前者の事態だけが存在し、後者の事態は存在しないと考えるのならば、それは現実世界の話を考えているのではなくファンタジーワールドの話を考えているのだから、そんな妄想世界の話は自分の日記にでも記して死んだ後に棺桶に入れて燃やしてもらった方がいい。

 閑話休題、ここでケイト・マンの「道徳財の経済」の理論がしゃしゃり出なければ、単に「チー牛男性って非モテだよね~」との感想を抱いてお終いである。

 しかし、ケイト・マンは「フェミニズムは世界的な正義なのだ!」との風潮に後押しされた状態で、アカデミズムの権威と世界的な評判を背景に、まさしくラベリング理論でいうところの道徳事業家そのままに、次の予言を行うのだ。

 現代社会に生きる男性には「理由の如何を問わず、自分に女性が道徳財を提供しないとき、女性の義務の懈怠と見做して、ミソジニー行為で罰しなくてはいけない」というプログラムがインストールされている。

筆者作成(再掲)

 このケイト・マンの予言によって、異性からみた魅力に乏しいチー牛男性は、女性からの道徳財の提供を受けにくい特徴を持つが故に、ミソジニスト(=集団B)のレッテルを貼り付けられるのである。

 繰り返し注意を促すが、ケイト・マンの「道徳財の経済」理論から導出されるようなプログラムを、現代先進諸国社会で生きる男性は、インストールされているわけではない。

 非モテ男性の多くは「まあ、ハンサムというよりブサイク寄りだし、高収入の高スペックでもない。陽キャで異性を楽しませる話術や話題を持っている訳で無い。生活能力が抜群で快適な日常生活を保障するような人間でもない。異性に高評価の趣味での能力を持っているわけでもない。・・・」といった自己評価のもと、「まあ、女性からモテないのはしょうがない。なぜ自分がモテないのか分からなくもない。もちろんモテたいのはやまやまだし、モテる努力もしなきゃなのだが・・・」とそれなりに自分の立場を多少甘めだろうが理解している。「モテモテハーレムじゃなきゃオカシイ。俺をチヤホヤしない女をミソジニー行為で罰しなければ!」などと考えるのはごく一部の狂人だけだ。誇大妄想に取りつかれた狂人の思考を基準にして標準的な男性の思考を予測されても迷惑なだけである。

 しかしである。「チー牛男性は非モテだから、ミソジニストで女性を加害する邪悪な人間だよね」と女性から冤罪を擦り付けられたとき、冤罪を擦り付けてきた女性を憎悪せずにいられるか、と言う話である。やってもいないことに対して、「お前はやっている」と責め立てられたとき、性別がどうのこうのに関わらず、相手を憎まずにいられるのか。人間の心理として、ジェンダー云々を抜きにして、身に覚えのないことで糾弾されたときヘラヘラと相手に対して何の感情的反応も生じない事態を想定することは、通常の人間の憎悪という心理作用に関する理解として正しいか。

 フェミニストがケイト・マンの「道徳財の経済」の理論を背景に、「チー牛男性=ミソジニスト」とのレッテルを貼り付ける行為――ラべリング行為――それ自体が、チー牛男性をミソジニストにするのである。

 そして、フェミニスト自身のラベリング行為によって予言の自己成就現象を生じさせてチー牛男性をミソジニストに変えておきながら、フェミニストは「やっぱり、チー牛男性はミソジニストなんじゃん」と邪悪さの責任を男性に擦り付けるのである。


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