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「無敵の人」のミソジニーに対するフェミニストの謬見2

 前回記事において、ケイト・マンの「道徳財の経済 (economy of moral goods)」の理論と「"無敵の人"の男性による対女性暴力というミソジニー」を説明する解釈の関係について、論じ忘れていたので続編記事を書くことにした。

 さて、前回記事における私のスタンス共通のスタンスとして、ケイト・マンの「道徳財の経済 (economy of moral goods)」の理論への疑念、すくなくとも不遇な立場の人間に対する当該理論の適用は間違っているとのスタンスを取っている。つまり、以下の類の認識は間違いであると私は考えている。 

 "無敵の人"の男性は、社会から女性が男性に与える道徳財としてコード化されている「愛情・敬意・やさしさ・憐み・配慮・気配り・慰め・安全・安定等」といったものを周囲の女性が彼に与えないために、その事態を女性の義務の懈怠と見做して、当該男性の主観においては「義務の懈怠に対する懲罰」として、対女性暴力=ミソジニー行為を行う

"無敵の人"の男性のミソジニー行為に対する、ケイト・マンの「道徳財の経済の理論」からの説明
(筆者作成)

 言い換えると、上記のような「殊更に男女で異なるかのようなメカニズム」を想定することに反対なのだ。

 上記において登場する、「愛情・敬意・やさしさ・憐み・配慮・気配り・慰め・安全・安定等」に対して、それらを道徳財と呼称すること自体は別に構わないが、「我々の社会において、上記の道徳財は女性から男性への一方通行で流れる構造にある」という認識が間違っていると言えるのだ。いったい女性に対する「愛情・敬意・やさしさ・憐み・配慮・気配り・慰め・安全・安定等」を提供する義務から男性が免れている社会とは、どこの社会の話をしているんだということである。

 もちろん、歴史上のある時点において、男性が女性に対して上記の道徳財を提供しなくともよい社会は存在したであろう。そんな近現代以前の価値観を持つ社会についての分析において、その近現代以前の社会における"無敵の人"の男性のミソジニー問題において上記の考察をすることは、至極当然だ。だが、"無敵の人"の男性のミソジニー問題を取り上げるとき、フェミニスト達は、近現代以前の価値観の社会の考証をしているわけではなく、現代の日本やアメリカやヨーロッパの問題として当該問題を取り上げている。それにもかかわらず、現代の社会の性質として時空の異なる社会構造の性質を密輸して考察し、男性を非難するのは不誠実極まる行為だ。

 現代の日本を含めた先進諸国において、当該道徳財に関して女性だけが男性に提供する義務がある一方で男性は女性に提供する義務から免れているという片務的関係は存在してはいない。程度はともかくとして当該道徳財の提供は男女の双務的義務として存在していると考えるのでなけば実情に即してはいない。それゆえ、当該道徳財において男女が片務的関係にあるとするケイト・マンの「道徳財の経済 (economy of moral goods)」の理論の妥当性は大いに疑わしいと言わざるを得ない。

 また、弱者問題について、「道徳財の経済 (economy of moral goods)」の理論が適用できるとの認識でいるのは、実際の弱者を巡る状況の解像度が十分でないからだろう。

 不遇な立場の人間が「愛情,敬意,・・・,安全等」を得られていないとき、(逆恨み的に)周囲に悪意を撒き散らす事態のどこに性別の違いがあるというのだろうか。不幸に見舞われたときに自己正当化を図り、また周囲に八つ当たりをするという人間存在の性質の違いに性差なんぞない。性差別社会構造における社会的性差とは、それらの自己正当化や八つ当たりに対する社会の許容度の性差なのだ。

 また、「男性優遇と女性優遇のモザイク状の性差別構造」を多くのフェミニストは認めず、男性優遇なら画一的に全ての面において男性優遇であるような社会構造の想定をおく。だが、現実の社会の構造はそんなノッペリした単純な構造をしていない。

 例えば、仮に現代日本社会において、原則的に「男性の意見の方が女性の意見よりも社会において通り易い」という性差別的な状況があったとしよう。しかし、そうであっても「Help me!」という社会に助けを求める意見の通り易さについても、男性優先の原則が成り立っているかと言えば、到底そのようなことはない。

 いくら男性が労災で死亡していても社会は騒がないが、いざ女性が労災で死ぬと社会は騒ぐ。また、女性の2倍もの男性自殺者が居ても大して問題にしていなかったにも関わらず、コロナのパンデミック期において女性自殺者がちょろっと増えると社会は大騒ぎする。実に象徴的なのが困窮女性支援法界隈の人間が煽り立てている風潮だ。先だって刑事事件も発生したが、ホストクラブで散財して困窮すれば女性であれば「救済しなければ!」と議員が国会で取り上げる程なのに、これまでキャバクラで散財した男性がいて刑事事件が発生しても議員が男性を救済すべきと騒いだことなど寡聞にして知らない。それらが同時期に起きても男性側は全く問題視されない。

 当然、これらの問題は男性論者は指摘している。それにもかかわらず、メディアが取り上げ、社会の声とされるのは女性に生じた問題が殆どであり、それを論じる女性論者の意見なのだ。このことからも、原則的に「男性の意見の方が女性の意見よりも通り易い」といっても例外はいくらでもある。つまり、たとえ男性が優遇されているとしても、画一的に男性優遇なのではなく、モザイク状に男性優遇と女性優遇がまじりあっているのだ。

 フェミニストは、こういった事情を無視して、男性優遇が優勢のモザイクの中の例外である女性優遇の状況下でも「男性優遇の構造なのだ!」と主張するのだ。

 このクソみたいなフェミニストの言動が顕著にみられるテーマが、弱者男性問題であり、また、本稿で取り上げた「"無敵の人"の男性のミソジニー問題」を巡る言論状況なのである。


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