「看護観」について考えてみた
一時期、私のTwitter界隈で「なんで看護観をレポートに書かなければならないのか?看護観って何?」という話が話題でした。
そもそも「看護観」って何なのでしょうか?
看護観という物を考える前に、他の職業でも同じような「〇〇観」という物があるのか調べてみると、学校教諭の「私の教育観」というwebページを見つけました。
他の職業でもあるんですね。
そもそも看護観とは何か、定義してみた
一番身近な〇〇観と言えば、「人生観」ではないかと思います。
web上で人生観を調べると、こういう定義でした。
「人生観」
人間の生き方や生きることの意味に関する考え。人生の価値・目的・態度などについての考え。
これを看護観にも当てはめてみると、こういうことになります(あくまで仮説です)。
「看護観」
看護師の仕事の仕方や看護師をすることの意味に関する考え。看護の価値・目的・態度などについての考え。
こうすると、少しわかったような、わからないような、そんな感じがしてきました。
人生観を考えるのはどんな時か
「私は何のために生きているのか」と考える時は、どんな時でしょうか?
考えられるパターンは、複数考えられるかと思います。
私が思いつくものを、いくつか列挙してみました。
①誰かに質問されたとき
②壁(困難)にぶち当たった時
③自我が芽生えた時(自分とはなんだろう)
看護観を考えるのはどんな時か
それでは本題に近づきます。人生観を考える時に当てはめて、看護観を考えるのはどんな時なのかを考えてみました。
①誰かに質問されたとき
②壁(困難)にぶち当たった時
③仕事に慣れ、看護師としての自我が芽生えた時
それぞれ、詳しく考えていこうと思います。
あくまで、私の個人的な考えですので、これが絶対と言うことではありません。
①誰かに質問されたとき
「あなたの看護観はなんですか?」と質問されたとき、私たちは初めて「私の看護観ってなんだろう?」と考え始めると思います。
「あなたは何のために生きますか?」ということを、常に考えながら生きていないのと同じで、「あなたは何のために看護をしますか?」と聞かれて、即答できる人はいないと思いますし、「看護観がない看護師はダメだ」とはならないと思います。
ここが今の看護業界では捉え方が人それぞれ過ぎて、特に若い人たちは看護観という考え方に嫌悪を抱いている原因なのではないかと思います。
point:人は誰しも「何のために生きるのか」を考えていないように、「何のために看護をするのか」を常に考えているわけではない
②壁(困難)にぶち当たった時
事故を起こしたり、倫理的な葛藤問題に出会ったり、なかなか独り立ちできないなど、乗り越えられない壁にぶち当たっ時、人は根本的な問題を考え始めます。
生きている意味を見失うような壁にぶち当たれば「何故人は生きているのか」と考えますし、看護師として大きな壁にぶち当たれば「何故私は看護をするのか」と考えるでしょう。
その際に、「お金をもらって生活するために割り切るしかない」と考える人もいれば、「私の正義を貫きたい」と思う人もいるでしょう。
〇〇観はこのように、何かきっかけとなるような、深く考えるきっかけがなければなかなか表現する機会がない物とも言えます。
自分と向き合うきっかけがなければ、〇〇観を言語化するのは難しい、と私は思います。
point:人はきっかけがなければ、根本を見つめなおす機会を得ることはなかなかない。
③仕事に慣れ、看護師としての自我が芽生えた時
新卒から2年目辺りまでは、先輩に言われたことをこなすのに必死で、なかなか「自分の看護で大事にしているのはこれ」といえるような看護実践に結びつかないと思います。
私が10数年看護師として働いてきた経験上、様々な看護師を見てきましたが、だいたい3年目以降になると、「私はここを大事にしているから、こうしました」と自分の看護を語りだす看護師が多い気がします。
私はそのような瞬間を「看護師としての自我が芽生えた時」と表現しています。
看護師としての自我が芽生えた後、他の看護師と意見が食い違う場合もあるでしょう。例えば、患者の意向を優先する、家族の意向を優先する、医師の意向を優先する…。人それぞれ、看護観の違いからか計画に微妙な差が生じていきます(もちろん一番大事なのは患者の意向ですが、現場ではそうもいかない事情もあるでしょう)。
その時、「私が一番大事にしたいのは、なんだろう?」という看護観と向き合うと思います。
子どもが成長過程の中で自我が芽生え、「自分とは、生きるとは、死ぬとは、なんだろう?」と考え始めるように、看護師もある程度自立し、自我が芽生えると、同じように「看護とは、医療とは、倫理とは、なんだろう」と考え始めるのではないかと、私は思っています。
point:子どもに自我が芽生えるように、職業人として自我が芽生えると、〇〇観を考える時が必ず来る
私の結論:看護観は考えるべき時が来たら、自然と考えるようになる
以上のことから、「看護観は時が来れば自然と考えるものである」という結論に至りました。
新卒や看護学生に「あなたの看護観はなんですか?」と問う意味が分からないのは、結局その時が来ていないのに無理やり絞り出そうとするからという理由だと思います。
自我が芽生えていない幼子に、「きみが生きている意味は何?」と聞いたところで、「生きるってなに?」と答えるでしょう。
看護師に「看護とはなにか?を問うて答えられないなら看護師失格だ」と思っている人がいるなら、それは大きな間違いです。
何故なら誰しもが、看護とは何か、看護の範囲はどこまでか、看護の目指すべき最終目標な何か、の絶対解を知らないからです。
それが看護の多様性であるし、医療の多様性でもあります。
人間を相手にしている以上、絶対的に正しいことなどひとつも無いのです。
つまり私が何が言いたいかと言うと、以下につきます。
「あなたの看護観は何?」
「そんな看護観でいいの?」
「あなたには看護観が無いの?」
「看護観なく働いてるなんて、看護師失格だね」
「看護観は大事なのに、なぜそれに気づかないの?」
なんて言ってマウント取っているベテラン看護師たちは、言っている自分に自己満足している人たちだということです。
そんな人たちに物申す。
「あなたの教育観、そんなんでいいの?」
以上、さくらこでした。
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