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「悟りたい」というのは“エゴの声“なのか〜!

この動画を見て、「なるほど〜!」と思いました。

「悟りたい」という形での願望があったわけではありませんが、「この世の真実を知りたい」「生まれてきた訳を知りたい」「地球で生きている意味を知りたい」「本当の自分の声を聞きたい」「自分の中心と繋がりたい」という、そんな思いはありました。そんな思いをもってヨガや瞑想に取り組んできたのだと思います。

そんな思いは、「悟りたい」という思いと通じているような感じがします。そして、この動画の中で「それはエゴの声です」と言われているのを聞いた時に、「そうか!」と、なんだかちょっと、力が抜けたような感じがしました。

もちろん、エゴの声を採用して、エゴがしたいなあと思っていることを楽しむこともまた生きている楽しみの一つではあるでしょうけれど、「本当の自分の声を聞きたい」という願いは、「本当の自分」にはないわけで。だって、「本当の自分」は、その自分の思いを聞かずとも知っているわけで、「本当の自分の声を聞きたい」という思いは、「本当の自分」からは出てくるはずもなく、だとしたら、「本当の自分の声が聞きたい」というのは、間違いなくエゴが望んでいることです。で、エゴは本当の自分の声を聞いてどうしたいのかというと、「本当の自分が望んでいる生き方をしたい」と思っているわけです。でも、「本当の自分の声が聞きたい」と思って生きているとき、それは、エゴの立ち位置で生きているわけで、「本当の自分の望んでいる生き方をする」というのは、別にエゴが本当の自分の声を聞いてから、そうやって生きようと頑張らなくても、「本当の自分」の立ち位置で生きさえすれば、そのまま、本当の自分の望む通りの生き方になる…

と、そういうことなのかな、と思いました。(ややこしい…(^◇^;))

だから、要するに、あまり難しく考えすぎず、リラックスして、心が心地よい状態でいられるように、“自然な状態の心“が示すように生きていれば、それがすなわち、「本当の自分が望んでいる」生き方なのかな、と思いました♪( ´▽`)

中村天風さんの言葉を借りると、それは「霊性心」で生きることになるのかな、と思ったりします。天風さんによると、「肉体」も「心」も「命が生きる道具」で、「心」にもいくつか種類があるんです。先ほど私が書いた「自然な状態の心」というのは、天風さんのおっしゃる「心」の中では、「本能心」や「理性心」ではなく、「霊性心」のことになると思います。

話は脱線しましたが、この動画の中でKyokoさんが、「今、ないと思っているから求めている。“本当はある“ということに気づけば探求は終わる」と言われていますが、なるほど。「本当の自分」は探さなくても、求めなくても、ここにあるわけですよね。確実に。だって、それがなければ生きていないですもんね。だったら、今確実にある「本当の自分」で生きればいい、というだけなんですよね。

なんか、「あれ?私は一体、何をどうしたかったんだっけ?私が勝手に複雑にしていただけだったのかな?!」なんて気分になってきました♪

エゴも私の可愛い一部ではありますが、その声を中心に据えて生きているとしたら、それはちょっと、違うのかな、という気がしてきました♪(「本当の自分の声を聞きたい!」という願望はエゴの声で、それに従って探求を続けているとしたら、それは、エゴの声を中心に生きている、ということですもんね?!)それこそ、天風さんのおっしゃる、「心に主導権を握らせるのは、見ず知らずの女中が家にきて、その女中の言いなりになっているのと同じだ」という、そんな状態じゃないですか!

なるほど〜!

もう、そんな回りくどいことをせずに、いきなり「本当の自分」の立ち位置から人生を生きればいいですねヽ(^o^)

なんだ〜!そっかあ〜♪

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