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『劇場版 モノノ怪』唐傘/あなたは何を捨てた?そう問いただされる。

『劇場版 モノノ怪 唐傘』を視聴。まず映像がとにかくすごかった。薬売りかっこよすぎ。映像美を楽しむべき映画だろう。しかし映像美と同じくらいテーマになっている「何を捨てた?」が、私にはぶっ刺さった。考えさせられたことを書いておく。

#ネタバレあり

誰かに認められるために、私たちは何かを捨てることがある。こんなことをやっている場合じゃない。そう思って焦り、なにかを切り捨てたことがあるはずだ。私はこれまで何を捨ててきたのか。薬売りにそう問いただされる。そんな気がした。

カメは人柄は良いが仕事ができない。一方、アサは人当たりは良くないが、仕事ができる。まずこの設定で私はかなりヤラレた。身につまされる。カメとアサの人柄の描写と二人の関係性は本当にリアルだ。

仕事ができない。それは私たちにとって致命的な評価だ。私は運動が苦手です、とか、料理が下手です、とかは普通に言えるのに「私は仕事ができないんです」と人に言うことは難しい。言われた方もリアクションに困る。今の世の中では「仕事ができること」が、他人に認められるために重要なのだ。だから、人に認められるためには「仕事のできない人」は切り捨てるほうが良い。「仕事のできない人」を見ているとイライラする。ついつい怒りをぶつけてしまう。怒りをぶつけられて当然だ。そんな勘違いすらしてしまう。それが麦谷の嵌った罠だ。そしてそれは私にとって他人事ではない。

しかし本当は、カメの人柄の良さは私たちにとって重要なものだ。アサはカメが自分にとって大事なものであることをに気づく。乾いてしまわないために、カメを切り捨ててはいけない。それが北川とアサを分けたものだ。北川は仕事のできない知人を切り捨て、すっかり乾いてしまった。そして怪異となってしまう。捨てるべきでないものを捨ててしまう過ちは、強い焦りからくる。もっと認められないといけない。その焦りはリアリティのあるものだ。私たちは身につまされる。

私は承認欲求があまり強くないと思っている。それでも「私は仕事ができない」なんてことは絶対言いたくない。それは認められたいという気持ちがあるからだろう。ダメな人間だと思ってもらっては困るのだ。だから自分の無能を感じたとき、焦りに襲われているはずだ。そして何か重要なものを捨てているのかもしれない。私は本当に乾いていないのだろうか。そんなことを考えさせる話だった。

そして歌山についても考えさせられる。歌山は承認欲求とは違うもので動いている。だから彼女はカッコよかった。でも彼女は北川の悲劇を生み出してしまった。この問題をどう考えるのか。
アサの最後のカッコよさは歌山のそれに似ていた。でもアサはカメの重要さを知っている。仕事ができることは人の価値と直接関係がない。そのことを良く知っているアサなら、次の北川を生み出すことを阻止できるのかもしれない。


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