大人になると言うこと

年をとると、いろんなことが少しずつ変わってくる。例えば、泳ぐ場所だった海は、いつの間にか眺める場所に変わった。年を重ねていくごとに、なんだか誇らしくなったり、虚しくなったり、周りと自分を比べて焦りを感じたりする。お肉より、お魚が美味しく感じたり、たまぁに流れる涙になんだか安心したりする。本当に優しい人に気づけたり、一人でいたい夜があったり、一人じゃいられない夜があったり。あれもこれも、大人になったから、知ることができたのだ。

 中学生の頃、えみちゃん(仮名)という子が好きだった。えみちゃんはクラスの中でも目立つ方ではなかったが、目立つ子たちのそばにいつもいた。背が低く、色白でメガネをかけていた。中学校の恋愛はなんであんなにも、ドキドキしたんだろうとよく思う。大人になるにつれて、恋をした時のドキドキは少しずつ薄れていく。それよりも、居心地の良さに敏感になる。だけど、振られた時や、お別れをした時の悲しみだけは一丁前にあの時と変わらない。喜びに飽きることはあっても、悲しみに飽きることはなく、慣れることもないのである。

 えみちゃんに対しては、これといってアプローチはできなかった。僕は部活のない日の放課後、友達を連れ、えみちゃんの帰り道を尾行したことがある。悪い言い方をすれば、ただのストーカーである(ストーカーにいい意味も悪い意味もない)。たまに、えみちゃんが後ろを振り向くと、僕らは公衆電話や物陰に隠れた。今思えば、多分気付かれていた。むしろ「いっそのこと気付かれてしまえ」とさえ、思っていた。そこから何か始まるかもしれないし、勢い余って、お話できるかもしれない、と。

 しばらく経って、一言もまだ話していないのに、僕はえみちゃんに告白をしようと決めた。えみちゃんの家に向かい、えみちゃんの家のインターホンを押した。その瞬間に「なんで私の家知ってるの?」と聞かれたら、なんて答えればいいのだ。と思い、怖くなって逃げ出した。これが僕が人生で行った、唯一のピンポンダッシュとなった。実は放課後ストーカーしてたんだ、なんて言えるわけがなかった。

 その後、担任の先生にえみちゃんと席を隣にしてほしいと頼み込んだ。先生は「次のテストで70点以上取れたら、いいぞ」と言ってくれた。恋のパワーは素晴らしいもので、見事70点以上とり、次の席替えでえみちゃんの隣になった。四ヶ月ほど、隣だったが、ほとんど一言も会話をしなかった。それどころか、消しゴムを忘れたり、ノートを忘れたりと、僕のアホさ加減が、えみちゃんにばれ続けるだけだった。

 こんなにあれやこれやとあったが、一言で表せば「何事もなく」学校を卒業した。そこから、えみちゃんと連絡を取ることはなかった。13年経ち、中学の同窓会を行うことになった。そこで、えみちゃんと僕は再会をした。えみちゃんは当時と変わらず、というか周りの人たちが太ったり、禿げたりしている中、えみちゃんは変わらなかった。そして、中学の頃より、僕らはずっとずっと社交的になっており、会話は自然に弾んだ。そこから、えみちゃんとはよく連絡を取るようになり、仕事を依頼したり、居酒屋で、互いの恋来相談などをし合う仲となった。

 昔は、席が隣と言うだけで、そこには大きな壁があった。しかし、今となっては、壁もなく、会話は自然に弾む。こんなことになるとは全く想像がつかなかった。人との間に壁がある時、無理に壁を壊そうとすると、壁はより頑丈に高くなってしまう。そんな時は壁が自然に無くなるのを待つのみなのだ。僕は13年もかかってしまったが、過去の悲しみが大人になった今、喜びにつながっている。そうして、人生は伏線回収をしていくものなのかもしれない。

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