見出し画像

1月「雛菊の願い」⑥

「姫奈(ひな)、大丈夫? 何か揉めてたみたいだけど…」

 大学生の彼が去った後を見つめたまま立ち尽くしていると、背後から声がかかる。振り向くと、そこにはさっきまで女性と一緒だったはずの彼が、一人で立っていた。本物の大人の女性と一緒に居るのを見るのが嫌で、逃げ出してきたはずなのに、その後彼も私を気にして追いかけることはなかったのに、その彼がどうしてここに居るのかが解らなかった。

「どうしてここに…?」

「さっきは取引先の人と一緒に居て、長く話せなかったけど、姫奈の様子が気になって…元気なかったみたいだし。だから駅で別れた後、こっちに戻ってきたんだ。そしたら遠目だけど、姫奈が誰かと揉めてるみたいに見えて…前にも駅で揉めてた人みたいだったけど…大丈夫なのか?」

 彼が一緒に居た人が仕事先の人で、私の様子を気にして戻ってきてくれたことや、遠目で揉めていると心配してくれたことが、嬉しかった。でもその嬉しさは、いつもみたいに心の全部を占めてはくれなかった。

「…大丈夫、揉めてないよ。おばあちゃんのご近所さんで、茶飲み仲間の人なの。顔見知りで少し話してただけ。心配してきてくれて、嬉しい。ありがとう」

「そう、なら良かった。ほら、制服の時に会うのは珍しいとはいえ…姫奈を傷つけたんじゃないかと思って、気になってたんだ。いつも姫奈が俺のために努力して大人の女性になろうとしてくれてるの、知ってる。そういう姫奈が好きだよ。大人びている姫奈も、俺の隣に立つのに相応しい女性になろうとしてくれる姫奈が、好きだ」

 彼は歩み寄って、そっと私を抱き締めてくれた。抱き締められた腕の中からは、大人のコロンの香りがした。それは自然な匂いの甘い香りではなかったけど、私にとっては嗅ぎ慣れた匂いだった。記憶に新しい香りも傷ついた微笑みも、全部頭の中から消してしまいたくて、いつもの彼の香りに包まれたまま私は目を閉じた。

 駅まで送ってくれると言った彼に、家はここからの方が近いからと言って断ると、明日のデートに誘われた。すぐに家に帰って、デートのためにとびきりオシャレをしようと、ただいまの声もろくに言わないまま2階の自室に飛び込んだ。部屋に入ってすぐの机の上に置いてある、黄色い雛菊の花が視界に入ったが、それを無視してクローゼットから服やバックを取り出していく。今日彼と一緒だった女性の姿を思い出しながら、いつもより気合の入ったコーデの服を選んでいった。

 翌日、彼の隣に立つために、今まででいちばんのオシャレを決め込んだ。いつもより露出が多い服装は鎖骨が見えているし、スカートもいつもよりずっと短めだった。ちゃんと大人の女性に見えるように、格好に合うような化粧をネットで見ながら、時間をかけて作り変えていく。靴もいつもより高いヒールを履いて、約束の時間より少し早めに家を出ようとすると、買い物から帰ってきた母親と玄関で遭遇した。

「姫奈、あなたそんな格好でどこに行くの!? 最近の格好気になっていたけど、今日のは特にダメよ。あなたはまだ高校生なのよ? あなたにそんな格好をさせて相手の人が満足してるんなら、そのお付き合いは考え直しなさい」

「高校生は好きな人のためにオシャレもしちゃいけないの⁉ なんで? お母さんなら解ってくれると思ってたのに、同じ女として好きな人のために、綺麗になりたいって思うのは間違ってるの? 高校生だからとか、そんなの関係ない!! お母さんなんて大キライ!!」

 私は家を飛び出した。慣れない高さのヒールで走るのは大変だったけど、それでも構わず走り続ける途中で、何度かスマホが鳴ったけど、全部無視して駅まで急いだ。駅に着いて彼の姿を探すと、彼はまだ来ていないようだった。約束の時間より随分早く来てしまったのかもしれないと思ってスマホを見ると、母親からの着信がたくさんあった。売り言葉に買い言葉で、勢いに任せて家を出てきたこともあり、全部スルーした。すると手の中でスマホが震え、着信音が鳴り響く。母親からならこのまま無視しようと意地になっていると、それは私が待つ彼からの着信だった。

「姫奈、ごめん! 急な仕事で少し遅れそうなんだ。もう駅で待ってたりする?」

「え、ううん。大丈夫、まだこれから家を出るとこ」

「良かった。仕事が終わってからまた連絡するよ、ごめん」

 彼との短い会話を終えて時計を見ると、ちょうど約束した時間になっていた。ここで待っていても、彼の仕事がいつ終わるのか解らない。でも家には気まずくて帰れないし、帰りたくない。どこで時間を潰そうかと考えていると、タクシーから降りてくる彼の後ろ姿を見つけた。仕事だと言っていた彼がタクシーから降りると、昨日一緒に居た女性が続けて降りてくる。

 仕事だと言っていた。取引先の人だとも言っていた。これは仕事だ…と自分に言い聞かせながら、彼が女性と並んで歩き出すのを見れば、私の足は自然と2人の後をつけていた。ギリギリ目視出来る距離感で、2人をつけていると、大通りではない道を進んでいくにつれて、人通りの少ない細い路地へと入っていく。それでもまだ進んでいくと、道を挟んだ反対側の路地には、夜のお店が目に入った。けれど前の2人は、そういう場所へは目もくれずに歩いていく。慣れない高さのヒールで靴擦れを起こしたのか、少し足が痛んできた。それでも引き離されないようについていくと、路地の先に見える店に2人が入っていった。

 2人には気づかれないように外から店の中を覗くと、そこはどうやら花屋のようだった。彼は女性に話しかけられながら、花を見繕っていく。時折笑みを交わしながらの2人の様子を見ていられなくなって、私は来た道を戻っていく。途中、ずっと耐えてきた涙を拭いながら足早に歩いていると、一台の車が目の前で停まった。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?