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クレバス、あるいは五つのソネット

宿酔いの朝には
喉の渇きと
ふらつく体
それから
レモンのひと齧り。
ふたたび
まどろみかけるうちに
世界がゆがんで
反転したり
傾いたり
知っていることを
忘れてしまったり
知らないことを
知った気になったり

〈半ば混濁しかけて〉
冷たい息吹のような風
君の唇を乾かした
冬の、砂漠みたいな風。
まぶたの中に
投げ込まれた砂塵に
目の前が霞んでしまって
おぼつかない足取りで
帰路につく夜明け前
凍ったアスファルト沿いの
霜げた草を踏んづけた。
アイスピックの音がこだまする、
ボウモアはボトル半分。
やや記憶違い。

君は僕を知っている
僕も君を知っている
それは昨夜
月下の街に
歩きながら話したから。
陽光のぎらつく
窓の外にそれは
置き去りにされたから
反転する世界の中で
思い出すことは難しい。
記憶の中から
鮮明なものだけを
抜き出そうとしたけれど
一つを除いて歪んでいた

〈混濁した時系列〉
むかしシェルパが
クレバスを指して言った
あそこには
百万人が死んでいる
そうだったかもしれないし
そうじゃなかったかもしれない
このクレバスを抜け出すのは
不可能だ
ここに頂上へ向かう道と
戻る道がある
どちらも落ちる確率は同じだから
頂上へ向えば二倍になる
何が正しかったのか。

歪みない鏡の周りを
歪みきった世界が囲うから
歪みない鏡のうちには
歪みきった像が映る
昨夜の様々な出来事たちが
本当でなかったそぶりで
僕の脳裏を回っていて
僕の確信を揺すぶった
クレバスに感じた
怖れにも似た吐き気は
今や峠を越して
歪みかかった確信は
正しい鏡面を取り戻す
ふたたびレモンのひと齧り。

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