クレバス、あるいは五つのソネット
宿酔いの朝には
喉の渇きと
ふらつく体
それから
レモンのひと齧り。
ふたたび
まどろみかけるうちに
世界がゆがんで
反転したり
傾いたり
知っていることを
忘れてしまったり
知らないことを
知った気になったり
*
〈半ば混濁しかけて〉
冷たい息吹のような風
君の唇を乾かした
冬の、砂漠みたいな風。
まぶたの中に
投げ込まれた砂塵に
目の前が霞んでしまって
おぼつかない足取りで
帰路につく夜明け前
凍ったアスファルト沿いの
霜げた草を踏んづけた。
アイスピックの音がこだまする、
ボウモアはボトル半分。
やや記憶違い。
*
君は僕を知っている
僕も君を知っている
それは昨夜
月下の街に
歩きながら話したから。
陽光のぎらつく
窓の外にそれは
置き去りにされたから
反転する世界の中で
思い出すことは難しい。
記憶の中から
鮮明なものだけを
抜き出そうとしたけれど
一つを除いて歪んでいた
*
〈混濁した時系列〉
むかしシェルパが
クレバスを指して言った
あそこには
百万人が死んでいる
そうだったかもしれないし
そうじゃなかったかもしれない
このクレバスを抜け出すのは
不可能だ
ここに頂上へ向かう道と
戻る道がある
どちらも落ちる確率は同じだから
頂上へ向えば二倍になる
何が正しかったのか。
*
歪みない鏡の周りを
歪みきった世界が囲うから
歪みない鏡のうちには
歪みきった像が映る
昨夜の様々な出来事たちが
本当でなかったそぶりで
僕の脳裏を回っていて
僕の確信を揺すぶった
クレバスに感じた
怖れにも似た吐き気は
今や峠を越して
歪みかかった確信は
正しい鏡面を取り戻す
ふたたびレモンのひと齧り。
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