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自立と依存

最近何かを考える際考える二つのキーワード、それが自立と依存。。自分はきちんと自立出来ているか?依存していないか?これを判断基準に自分の行ないが正しいか考えている。この写真の一匹のテントウムシは確実に僕より自立し、誰にも依存していない。より大きな動物や虫、あるいは人間に殺されてしまう危うさを抱える代わりにこのテントウムシには無限の自由がある。何かを代償にしなければ物事は両立しえない。表と裏、光と闇、お金と時間、スピードと心、、

1980年生まれの自分にとり教育の過程で依存することは当たり前のこととして生きてきた。学校、会社、家庭に友達。勿論依存しているといった考えを積極的には持っていなかったように思う。でも、、

そう、でも、、って今になり思う。依存していたから安心だった。依存していたから動じなかった。依存していたから強がれた。つまりとてつもなく自分は弱く不自由だと。

元々自分は普通の生活には馴染めなかった。普通というのは皆が当たり前にやれることという意味。大学には入ったがサークルには入れなかった。あの雰囲気がダメだった。就職活動もしなかった。面接官の前に座り、たいして本気で考えてもいない考えを装飾し、気に入られよう、ほかの人より賢く見せよう、そういった姿の自分を俯瞰してはただ怯え、そこから逃げた。

だからもうとっくに普通のレールからは外れていたのだ。心が自立したがり又依存するなと訴えていた。でもその自分の心の叫びに気が付けなかった。ただ僕はうまく生きられないんだ、そう思っていた。

その後パン屋へ就職、田舎で生活したく26年間一歩も出たことがなかった東京練馬から長野県へ引っ越した。もう14年、、フレンチのコックをし、毎日過ごした。。でもこの生き方は大枠では東京にいるのとなんら変わらないんだ。それにこの歳になりやっと気が付いた。だって誰かに依存しているから。恐らく田舎へ行きたかった理由は自立したかったからなのだ。自立の度合いを上げたかったのだ。

すべてを一気には変えられない。それは体に習慣として染みつき、またその生活リズムに家族も含まれているから。でも少しづつ変える努力をしよう。少なくとも依存していると認め、自立への一歩を踏み出そう。

漠然と与えられた正しいと言われる考え、システムが本当に正しいのか?自分が求めているのか?見直しをしよう。自分へのご褒美なんて言葉とは無縁の世界へ行こう。生きてることに価値を見出し、そんな自分を好きになれる世界へ行こう。

自立できた小さな出来事をここに残していこう。置いていこう。


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