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ショートショート | あの人

その人は、いつも片手をポケットに入れていた。

姿勢はいいように見えたけど、
視線はいつも下のほうを向いていた。

その人がその道を通ったのは、風が涼しくなる
夕方の時間だ。

ピアノの練習をしていると、私の
お気に入りのその小窓からその人のことが見えた。

その人には聴こえないかもしれない。

でも私はその時刻になると、ピアノをいつもより
丁寧に弾いた。

気づいてくれるかもしれないんだから。

嫌いだった練習曲も、そのおかげで
上手に弾けるようになった。

「いつも鍵盤をきれいにしておくのよ」と
母に耳が痛くなるほど言われてきたから、
私はピアノを弾く前も、そして弾いた後も
ピアノの鍵盤をきれいに布で拭くようになった。

拭くときもきれいな音が出るように意識すると、
本当にきれいな音が出るようだった。

だから拭くのもぜんぜん嫌いじゃない。

まず布をきれいに折り曲げて、きれいな四角を作るの。

そしてそれを上品に持ったら、
やさしさを込めながら丁寧に拭く。

最初は低音の方からはじめ、
だんだんと高音へと進んでいく。

そうすると音が次第に希望のある方へと
向かっていくような気がするのだ。

高い音が鳴った時、ときどき私は感動した。

偶然に重なり合った高音が、
心にさらっと響くんだから。

私以上にきれいに、そしてエレガントに鍵盤を
拭ける人は他にいないだろうと私は真剣に思っていた。

見れば、今日の鍵盤もとてもきれいだ。

艶々していて、まるで新品のようだった。

それを見た私はいつも満足した気持ちになって、
少し鼻を鳴らしながら笑ったのだ。

あの人が来る。

だから私は急いで次に弾く曲を頭の中で巡らせた。

集中してピアノを弾いたけど、私の意識は小窓にあった。

目は鍵盤を向いているのに、どうして
あの人が通るときにはそれがあの人だと分かったのだろう。

ときに、小窓にまだあの人の姿が見えないうちから
「来る」ということがわかった。

すると私はちょっとドキドキして、
「どうか間違えないで」と祈った。

何度か大事なタイミングで間違えてしまうことがあるんだから。

そうすると世界観が台無しになってしまう。

私の指は緊張した。

間違えないように、間違えないように。

そうして、全神経を張り巡らせながら、
でもやっぱりちょっと小窓を意識しながら丁寧に弾いた。

今日は間違えないで弾くことができた。

きれいな音色に満足だ。

あの人が通り過ぎて少し時間が経った後、
私はときどき弾くのをやめて、窓から顔を出した。

夕日の方へ向かって歩いていくその人を見ながら
「まさか私がこんなふうに意識をしているなんて
その人はちっとも知らないだろう」と思った。

その人はいつも何かを考えていた。

後ろ姿からもそれがわかったのだ。

私が寄宿学校へ行くようになったのは、
13歳になったころだ。

スイスにある有名な学校で、世界中から
優秀な子供たちが集まってくる。

初めは両親が私のことを捨てるんだわと
疑ったりもしたけど、どうやらそうではなかった。

その学校は広大な敷地の中にあって、
伝統的な建物が並んでいる。

図書館も大きく、いつでも自由に弾けるピアノがあることも
わかって、私はその学校へ行くのが楽しみになった。

かばんにお洋服やヘアブラシや歯ブラシや
パパからもらったテディベア(その名もテディ)を
詰めると、いよいよ明日家を出るという実感が湧いてきた。

夕方が近づいてきたとき、私はふと思ったのだ。

あの人はどうしてしまうんだろう。

一度も話したこともないあの人のことが気になった。

あの人は自分のことを知らないのに、でも
あの人のことが心配だった。

明日は朝早く家を出ることになっていたから、
あの人のことを見るのは今日で最後ということだ。

なんだか焦る気持ちになった。

どうしよう。

家の中を見渡した。

家中に父が収集した様々な絵画が飾られてある。

でもまさかそれらの絵をあげるわけにはいかない。

今度は自分のジュエリーボックスを見た。

母からもらったネックレスや指輪が並んでいた。

大切な私のアクセサリーたち。

でもそれを彼にあげたってどうにもならないだろう。

あっという間にその人が通る時間になってしまった。

私はどうすることもなく玄関を開けた。

夕方の風は涼しくて、太陽の光は暖かかった。

郵便配達のおじさんが配達している。

帽子を持ち上げて挨拶してくれたから、
私もニコッと挨拶をした。

おじさんのおかげで少し勇気が出てきたけど
やっぱり緊張が優ってしまう。

もう来るのではないかと思うと、
その場から逃げ出したくなった。

その時、あの人はいつもの方角から
今日もポケットに手を入れながら歩いてきた。

相変わらず、視線は下を向いているようだった。

私は左を見たり右を見たりと落ち着かなかった。

今でもどうしたらいいのかわからなかった。

あの人が近づいてくる。

誰にもバレないように、髪を少し手で整えた。

胸に手をおいて小さく深呼吸をした後、
私は玄関前の階段をゆっくり降りて、
庭の扉に向かった。

外に出て、庭の扉を閉めたとき、
その人がちょうど隣を通り過ぎるときだった。

一度も話したことがないのに、
なんだか私には親しみがある。

だから小さな声だけど、「こんにちは」と言えたのだ。

その人は少しだけ驚いたように顔を上げたあと、
すぐに「こんにちは」と言ってくれた。

傾いた黄金の太陽の光が彼の目を光らせていた。

目尻にシワを寄せながら笑った表情は今でも覚えている。

とても優しくて、懐かしい顔。

私は誰かを待っているふりをしながら、
その場にしばらくいた。

そして、彼の後ろ姿を見ていたのだ。

どこに住んでいて、毎日何をしているのだろう。

家には、彼を迎えてくれる誰かがいるのだろうか。

彼には幸せになってほしい。

その時、心からそう思った。

一度も話したこともないのに、彼は
私の子供時代の大切な思い出の中にいる。

あの人は今どこにいて、何をしているのだろう。

どうか幸せであって。

久しぶりに思い出して、今日も心の中で呟いた。


















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