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泉に一滴の水が落ちた。 小さな円が広がって、 やがて泉を満たしていった。 それは雲のしわざだった。 泉に雲が恋をして、 雲は一滴の水を垂らしたのだ。 どうかぼくに気づいてほしい。 ぼくは空を漂ってるよ。 小さな一滴が泉に落ちて それは泉を満たしていく。 小さな円が大きく広がり 眠っていた泉が蘇る。 そこから美しい女性が現れ やがて夜が訪れた。 女性は長い髪を揺らしながら なめらかに体を動かした。 指先まで美しいその人は ときどき空を見上げては 漂う小さな雲を
錆びれた街に「地獄」と呼ばれる 工場があった。 その工場はあまりに大きく 曇りの日には頭が雲で隠れた。 いつもどすん、どすんという 鈍い音が響き渡り 煙は勢いよく空へ上った。 その工場の周りには高い塀があり 中の様子を近くで見ることができない。 唯一、塀からはみ出た建物の頭上部分を 遠くから眺めるだけだった。 工場は昼夜動いていたが、 人が出入りするところを 一度も見たことがない。 建物の周りを今にも朽ちそうな 細い階段がぐるりと巡っていたが、 その階段を上る者も
線のように月が細くなる夜だった。 リサが月に座っていると 彼がまたやってきた。 「今日は少しひんやりしてるね。」 リサがうんとうなずくと、 彼はこっちを向いてニコッとする。 「今日はたくさん雪が降ったんだね。 夜がこんなに明るいなんて。」 昼を過ぎたあたりから 雪がたくさん降り始めた。 リサは慌てて窓を開けると 冷たい風を顔に受けた。 大粒の雪が空から降ってきて リサの鼻や額にひんやりと当たる。 「これが雪なのね。 なんて素敵なの!」 リサはしばらく空を見な
たばこを吸っているピエロのところに 一人の男の子が近づいた。 西には太陽が沈みかけ、 ピエロは売れ残りの風船を持っていた。 風がときおり吹いてきて、 そのたびに風船はゆっくり揺れた。 公園にはもうあまり人がいない。 先ほどまで騒いでいた子供たちも みんな家へ帰ったのだろう。 丘にある公園からは街を一望することができ、 沈む太陽もまた、見ることができた。 ピエロは今日もたばこを吸っている。 毎日この時間になると ピエロはたいていここにいた。 男の子はそれを知って
その国はずっと夜だった。 人々は、夜の星とランプのあかりだけを頼りに生活した。 しかし、ランプはずっと灯っているとは限らない。 ランプが切れると、人々はカーテンを開けて空を見上げた。 外に出て、少し散歩をする者もいたし、広場で追いかけっこする子どももいた。 老人は古いバイオリンで寂しい音色を響かせて、恋人たちは手を繋ぎながらお互いの温もりを感じとった。 リアムは、町を見渡せる丘へ出ると、いっぺんに落ちてきそうな夜の星々をしばらく眺めた。 星のあかりに照らされた薄
そこは不気味な世界だった。 生温い風が吹いていて、その中には少しかび臭い匂いが含まれている。 風が通るときの音はまるで誰かの呻き声のようだ。 広い空間が広がっているその足元には、四角く整えられた黒い大理石が敷き詰められている。 崩れかけたブロンズの像を一つ、また一つと過ぎていくと、遠くからピアノの音が聞こえてきた。 ヴィーナスを彷彿とさせる女性がピアノを弾いている。 彼女は白い絹のドレスを一枚まとっているだけだった。 僕が近づいてくるのがわかったのか、隣に座ると
隣の家に住む若い夫婦がいつものように喧嘩をはじめた。 どうやら夫がミルクを買い忘れたらしい。 「だからメモを書いてと言ったじゃない。」 と妻が苛立ちをあらわにしている。 「人間忘れることだってあるじゃないか。」 と夫も負けていない。 毎週のように隣で繰り返される口論はもう恒例行事となった。 自身も、昔は妻と何度喧嘩したことか。 一週間口を利かないこともざらにあった。 怒った時のあの妻の表情。 思い出すとピエールはおかしくて笑った。 妻のエリスと出会ったの
みんみんみんみんみんみぃ〜。 みんみんみみみんみんみぃ〜。 みんみんみんみんみぃ〜。 としろうは7年越しに地上に出てきた。 やはり外の空気はたまらない。 土の中は狭苦しくて仕方がないんだ。 むぃんむぃんむぃんむむむぃんみみぃ〜ん。 としろうは、オリジナリティを求めた。 新人たちはマニュアル通りに鳴いているが、としろうは途中でこぶしを利かせる。 みんみんみみみんみみみぃぃぃ〜ん。 ちょっとやり過ぎてしまったかもしれないと反省したときは、少し姿勢を正してから大
1年5組の田中くんは、みんなに怖がられる存在だった。 家柄が家柄だけに、誰も田中くんに近づこうとはしなかった。 誰も、田中くんと目を合わせない。 田中くんは、話しかけられることもなければ、 いじめられることも当然なかった。 教室の窓際で堂々とタバコを吸っていても、 それをとがめる先生もない。 クラスメイトたちは何も気づかないふりをしながら 田中くんに目をつけられないことを常に気にした。 しかし、当の田中くんは誰かに目をつけようなどという 気持ちはさらさらなかった。
その人は、いつも片手をポケットに入れていた。 姿勢はいいように見えたけど、 視線はいつも下のほうを向いていた。 その人がその道を通ったのは、風が涼しくなる 夕方の時間だ。 ピアノの練習をしていると、私の お気に入りのその小窓からその人のことが見えた。 その人には聴こえないかもしれない。 でも私はその時刻になると、ピアノをいつもより 丁寧に弾いた。 気づいてくれるかもしれないんだから。 嫌いだった練習曲も、そのおかげで 上手に弾けるようになった。 「いつも鍵盤を
天使は、木枯しの森で初めて悪魔を見ました。 枯れ葉が舞う その森には小さな噴水があり、 悪魔はその水を飲んでいたのです。 それぞれの務めは大きく異なりますから、 天使と悪魔が接触することはほとんどありません。 接触が禁じられていたわけではないものの、 住む世界が違う天使と悪魔はお互いの存在を 認め尊重し合いつつも、 交わる必要がなかったのです。 初めて見る悪魔の羽は優雅に大きく、 静かにも圧倒的な存在感を放っていました。 これまで悪魔の存在にあまり意識を向けることが
クラシックバレーの発表会終了後、振り付けを間違えてしまった妹のもとへお兄ちゃんはすぐさま駆けつけました。 そして妹にこう言ったのです。 「お前が一番綺麗だったよ!」と。 * 郵便局で働くフェルナンドは、残業の依頼を進んで引き受けました。 今度の週末は土曜日も日曜日も働く予定です。 すべては美しい恋人ルイーゼのため。 あのダイヤモンドの指輪を購入し、ルイーゼにプロポーズするのです。 ルイーゼはなんと言うだろうか。 ダイヤモンドの指輪を見た時にどんな顔をするだろ
山にのぼったんだよ。 そしたらね、月が大きく出ていたんだ。 あの月は、僕がそこにいることを知っているような風だった。 じーっと僕のことを見ているんだ。 「やっと来たのか。久しぶりじゃないか。」 と言わんばかりにね。 僕はそこで腰を下ろしてみたよ。 大きな月がそこにあるんだ。 そこを通り過ぎるわけにはいかないだろう。 ぼーっとその月を見ていたらね、少しずつ声が聞こえてきたんだ。 あれは多分、月の声だと思うよ。 「僕のことをじっと見ているのは今、君だけだよ」
ロボットのアニエスが好きになったのは、頭がはげたおじさんだった。 頭が綺麗にはげていたから、人混みの中でもおじさんのことを目で追うことができた。 そのおじさんの頭は、きれいにはげていた。 毛は一本もなく、太陽の光が当たるとだれよりも光った。 ときどき人混みに紛れて見失いそうになる瞬間もあったが、その日はお天道様が空高く照っている日だったから、おかげでおじさんの頭はピカッと光って、アニエスはいつでもおじさんの位置を把握することができた。 アニエスは、孤独な博士が生み出