母と遺伝子
母親ってどうしてこんなにもおしゃべりなのだろうか。
おしゃべりじゃない母親もいると思うけど、うちの母親は口から生まれた化け物だといってもいい。今、まさにそんな母親と電話越しで揉めている最中である。
私の母は数分の間に猛烈な量の単語を吐き出して話す。話は面白いわけでもなく、大筋から外れてぴょんぴょん小話が飛び回る。そこから最果てのない旅路に出かけてしまうので、いつのまにか置いてけぼりを食らっている。私の知らない固有名詞や人物が、母なりの略語に変えられたりもする。だから話としては全く完成されておらず、そもそも相手に伝える気がないことがわかる。
しかしポーズとしては人に対して話しかけているのだ。どれどれ、意識と耳を研ぎ澄ましてみよう。そうすると聞こえてくる、母の言葉がきっと………だめだ何を言っているのかサッパリわからん。支離滅裂だ。結末は待てど暮らせど迎えないし、元々話したかったことよりも「今現在話している自分のこの状況とこの時間」が何よりも大切なのだとわかる。いやはや身勝手な状態である。
だけど淀みなく動く感情と熱量に、私は圧倒されてしまう。電話口でも、母の身振り手振りの大きさのせいか、当たり散らかすように口から発せられる言葉たちは室内の壁に当たって跳ね返り、あらたな温度をその場にやどしていくような感じだ。(私は母と電話しているときは大体スピーカーにしている。耳も手も疲れるからだ)ともすれば母の体は言葉に巻き込まれて爆発してしまいそうな具合なので、こちらはお口ミッフィーのまま母の終焉を待機するしかない。
同時に、こんな風に生きれたらどれほど良かっただろうとも思う。
人と会話しているときに私は無言を恐れてしまう。話題を提供しなければならない使命感と気まずさを感じる瞬間がある。気候以外で何の話が盛り上がるのかを常に考える。普段の会話の中でもありがちなことだけど、こちらが話し出すと相手は勝手に期待してしまう節があると思う。話の目的や結果、さらにはオチまで求められている強迫観念にさえ襲われる。
しかし母の口から大それたものが出たことは正直一度もない。ちまちまと語り出そうとする慎重な私からすると、ドンガラガッシャーンと唐突に壁を突き破った上に殴るように話す母は、やはり恐れを知らない怪物だ。
ちょっと憧れる。
いや、だいぶ憧れる。
母の存在は厄介なものと認識しながらも、その厄介さから発散される明るさに、同時に安堵もしているのだ。
母は常に動き回り常に口も動く。
「私、会社の中でハツカネズミちゃんみたいねって言われるの♡」と語尾を可愛らしく持ち上げて言うので、私は、ヘッと鼻で笑う。母がハツカネズミなら私はハダカデバネズミだ。あの子たちには役割があって、女王様を守るための布団役とか兵隊役などかなり細かく分担が生じている。そしてその役割に徹するのだ。だとすれば私は聞き役という役割で終えてしまうだろう。ハダカデバネズミの特徴と似て私は土の中で悶々としているタイプだから、地上の明るさや覇気に溢れてる光景には目が眩む。
母は仲がいい人も多い。友人も知人も近所付き合いもそれなりに広い。もちろん対人関係でトラブルがゼロとはいいきれないけど、母を良く思い慕っている人もいる。
母がいればなんとなく間が持つというのは、その存在が慕われたり安堵される理由として大きいのかもしれない。鑑賞するわけでもないのにテレビを流しているのと同じで、母の話は一種のBGMと化しているのだ(それにしても喧しいけど)。
母のようになりたいとも思わなければ母のように振る舞いたいと考えたこともないが、この「ちょっと憧れる、いやだいぶ憧れる」のは、母という圧倒的な熱量の塊にたいしてだ。
母の周りを囲う空気が陽炎めいて見えるほど、発している熱量は高い。話を聞いていると次第に頭がくらくらしてくるし、その身勝手すぎる展開に腹が立つこともあるが、勝手に話してくれている分、私はとても気楽だ。
Siriみたいなもんだ。
言葉を大切にせず、薄利多売のスタンスで一言一言を放出するから、こちらも気兼ねなく言葉を放てる。何を言ってるのかよくわからないけれど、妙な返しに笑ってしまうこともある。そんな気楽さを与えられる人というのはなかなかに限定されるのではないか。つまり「うざい」の一言で振り払えない魅力があるとすればここだ。
何よりその話が例えどんなにつまらないとしても、相手が聞いてくれるに違いないと盲信している部分に、とりわけ感心してしまう。私の話は、誰かの時間を犠牲にさせてまで聞かせる価値を持たないと思っているので、なかなか話し出せないのかもしれない。たまに無言を恐れてその間を繋ぐために死ぬほど語り出す人がいるけど、母はそういう類でもない。「聞いてくれる」という前提と、「受け入れてもらえる」という確信があり、そして不思議なことに、それらと同時に「別に聞いたって聞かなくったっていいわよ」という半ばヤケクソな思いも垣間見えるのだ。
例えば話す際の闘値が高く、説得力や人を丸め込む言葉を並び立てるのがうまい人は周りに沢山いる。その人が話したことで、話を聞いていた自分が何かを獲得したように思えたり、有意義に過ごせたようで心が満たされるわけだ。
対して母は素人なのだから、つまらなくてあたりまえだ。壊れた機械みたいに喋り続けるさまは、それでも客観的にみると一つのエンタメめいていて、10万語くらい話した中で一台詞くらいは面白いことも確かに言う。数打てば当たる方式で言葉を発していっているのだから、当然といえば当然だけど。だが、私のように話したいことが特にあるわけではない人間にとっては、言葉をとめどなく発せられる時点で一目置いてしまうのだ。
そんな暴走機関車の母と私の共通する部分は、言葉がストレートってところくらいだろう。私の普段発する言葉はストレートに汚いし、母は「見たもの聞いたもの今日触れたもの」をとにかくストレートに言う。ストレート対ストレートの対決は地獄だ。それでよく喧嘩をしているのだが、またこの喧嘩も互いに別の方向に向かって殴り合っているので、次第に離れていき、振り返るとだいぶ遠いところに母がいて、「あれ?」となりがちである。それで母に呼ばれて駆け寄ると、お互い何で怒っていたのか忘れてしまっている。仕切り直し。別の話を持ち出してはまた違うことで喧嘩するアホ親子だ。
とはいえ、暴走機関車であるが故に母にも何かしらの欠落や生きづらさはあると思っている。その生きづらさは、共感はできないけれど、真の部分では自分と同じような孤独を感じているのではないかとも思っている。今では断絶されてしまった臍の緒で嘗てつながっていた母のことを、決して憎みきることができない忌々しい血の繋がりもあるけど、それを抜きにしたとしても母を憎んだり蔑んだりすることはできない。
寧ろ、可愛いと思うことさえある。
例えば知らない言葉があるとキョトンとしてカタコトで復唱し「意味を教えて〜」と言ってくる母は子供みたいで無邪気だし、笑う時も盛大に笑う、それは気持ちがいいほどに。太っているけど背丈は小さい母が、常に怒ったり笑ったりで忙しくしているところも、球体が坂道をコロコロと転がってくるみたいで可愛いと思えば可愛い。
とある日の、実家に帰った時の夕飯時。「美味しそうだね〜」と食卓に並べられた豪勢な料理を見ながら私が言うと、母が「実はね」と含みのある口調で話し始めた。
「マルエツに行ったらキャベツの状態がナンチャラカンチャラだったんだけどヤオコーに行ったらお惣菜がナンチャラカンチャラのナンチャラカンチャラだったの、で、別のところにしようかなって考えたんだけど前にそのことを会社の〇〇に言ったらどこもそんなもんよってナンチャラカンチャラでナンチャラカンチャラって言われたわけ、まあそれが普通なのかもよくわからないんだけど結局ナンチャラでカンチャラにしたほうがいいのかな〜?と思ったりしてまたマルエツに戻ったの、それでナンチャカラカンチャラを買ったんだけどね、」
やっぱりナゲーよ!
この発言を要約すると「買い出しに行ったよ」だ。それなのによくもまあこんなにも話せるよなあ、と呆れて愚痴をこぼすと「あんたもよくそんなに書けるわよね」と言われた。思わず黙る。
「そんなに文章を書くなんて、変なの!」
そう言われると、唸ってしまう。確かに今回も文字の量をカウントすると5,000字くらいだろうか。実はnoteを始めてから知ったけど、書いた文字数がちゃんと表示される。私は毎回5,000字から9000字くらいの量を人に押し付けている。気づいたらそうなっている。だからそう、語りすぎの母の系譜は脈々と受け継がれているのだ。
とある日。朝一番にかかってきた母からの電話。どうやらこのnoteを読んだのだと言う。
「あんたの文章長いけど何これ、Twitterなの?Twitterが長くなったの?ねえイッヌ様は元気?ハハ、なんか息が聞こえてる気がする〜〜イッヌ様〜♡フフフフ〜〜ハアァア〜〜♡可愛いねえ〜〜♡♡♡なんか今吠えたよねえ〜〜?♡」
『Twitterじゃないよ』
「え?」
『お母さんが読んでるのはTwitterではないです』
「Twitterが長くなったんじゃないの?あれTwitterじゃないの?じゃあなんなの?」
『noteだよ』
「Twitterはどうなったの?ツイッタ……ノート?ノートって何?」
『noteだよ』
「ふうん、あんたの文章、長いから今途中まで読んでるんだけどこれがノートなの?ふうんそうなんだ、へえ〜長いんだねノートって。私、普段読み物しないからわかんないけど、これが読み物をする人たちの普通なんだろうけどね。長いのよねこれ。あんた書くのが好きよね、ほんとに好きよね〜。なんで好きなのかしらね〜?好きなことがあってよかったわね〜!」
『それで、要件何?』
と私が遮ると、「要件?」と母は固まる。そのときだけ一瞬無言がおとずれたけど「忘れちゃったぁ」とため息をつかれた。
『じゃあなんで電話するの?忘れる前にLINEしてよ』
「うん、そうだね」
『なんなの?』
「なんなんだろうね?」
『……』
「あ、そういえばこの間会社に行ったら…」
母が話していた内容は何一つ覚えていない。
でもこの状況をこんなに長々と綴っている私も、母からしてみたら超絶意味不明なのだろう。
そうよ、母よ。
あなたが渡してくれたその言葉の泉を、湧き出す感情を、私は文字を綴りながらしかと受け継いでいくわよ。あなたの怒涛の言葉たちを口ではない形で私は発していくわよ。そうしたらきっと私はいつか母に言葉の数で追いついて、母のあの熱量を冷めさせるだけの怒涛の文字数攻撃を浴びせてやるだろう。やってやる、絶対にやってやる。
でも今度は母の言葉が少なくなって、身体も小さくなっていくんだろう。母の言葉に追いつく時、それは母に老いを感じてしまうときだ。それだけは越えられない。歳をとった、と感じる瞬間に私が母を超えるのだとすれば、それは考えるだけであまりにも悲しい。
そうなると、やはり話したいことはここで話すしかない。ノートは最大何文字まで書けるのかは不明だ。でも、結構な量がいけるんだろう。四万字いく日がくるかもしれない。その時は原稿用紙百枚で、読む人もだいぶ辟易しているだろう。そんなことにはならないようにしよう。
でもまあ無料だし、そんな「長い長い」と不満ばっかり言わないでさ。読みたい時にフラッと読んでくれればいいのよ、と思ってる。私も書きたい時にしれっと書いてるし。読める日もあれば読めない日もあるのが当たり前、だと思う。どんなに人から讃えられた名作でも、全文がミミズにしか見えなかったり、文字が文字の塊になって頭に入ってこなかったり、もしやこれは象形文字か何か?って頭を捻る日が私にはある。絵本を読むのすらキツい日がある。インプットそのものが受け付けられない身体と心になる日もある。
誰かに届けたいと思って書いているけど、別に誰に届かなくてもいい。
これは母と似ている。「誰かが読んでくれる」という前提と「誰かは受け入れてくれる」という確信があり、「別に読んでも読んでくれなくてもいいよ」というヤケクソな状態でもあるのだ。
書くというのはそれだけ傲慢な行為だと知っている。一方的に喋り続ける人と似て、一方的に文字というツールで人を殴りつけている。もちろん読んでくれたらとても嬉しい。でも、母から学んだこととして、「別に読んでも読んでくれなくてもいいよ」は強い心の軸となってる。
「note、随分と長いけど書くの無理しないでね」といつも言ってくれる優しきみなさん。ありがとう。
でも、最近はそういう心持ちで書いているのだ。