洋楽の黎明期と滝廉太郎
この記事では、日本における西洋音楽の導入の過程と、作曲家の滝廉太郎・幸田延(こうだのぶ)について解説しています。
洋楽の導入
1867年に江戸幕府が崩壊すると、
明治政府による新しい国づくりが始まった、というのは歴史の教科書でおなじみですね。
この明治時代の文明開化とともに、日本の西洋音楽の歴史は始まりました。
(そのころ、西洋音楽は洋楽と呼ばれていました。)
当時はドイツ帝国が栄えていたため、軍事、法律、政治体制、医学、哲学、そして音楽も、
あらゆる分野で、ドイツを手本としたシステム作りが行われていました。
(ただ音楽の分野では、アメリカの賛美歌、フランスの軍楽などもモデルになっていました。
フランスの軍楽とのつながりは、日本の吹奏楽文化の発展と関係しています。)
西洋音楽を取り入れた教育システム
1879年、日本初の音楽教育機関として、
音楽取調掛が創立されました。
音楽取調掛は、1887年、
東京音楽学校と名前を改めました。
(東京音楽学校は、現在の東京藝術大学の前身です。)
そして1881年には、小学校で唱歌による教育がはじまりました。
当時の唱歌は、次のような特徴をもっています。
①西洋音楽の作曲法を基本とした楽曲。
②伴奏(当初はなくてアカペラ)と歌の形式。
③歌詞には口語(しゃべり言葉)に近いものが使われ、自然や歴史、故郷が題材にされました。
(余談)
開校当初の東京音楽学校の入学試験は、『小学唱歌』を生き生きと歌えば合格できたのだそうです😅
滝廉太郎 (1879~1903)
【プロフィール】
明治時代を代表する作曲家の1人です。
大分県の出身で、父は大久保利通の秘書も務めた役人であり、幼い頃から転勤少年でした。
1896年、16歳で東京音楽学校に入学しました。入学後にピアノや作曲の勉強を始めました。
1901年にドイツ留学を果たすも、結核にかかってしまい2ヶ月で帰国。
ふるさとの大分で療養するも、回復には及ばず、1903年23歳で没しました。
滝廉太郎の代表曲
♪花 (1900)
…芸術歌曲とみなせる作品です。初期ロマン派の、シューベルトやメンデルスゾーンの清々しさを感じさせる曲です。
(また、日本歌曲における『花』とはほぼ『桜』のことを指します。)
♪荒城の月 (1901)
…日本風の「ヨナ抜き音階」ではなく、西洋音楽の旋法を用いた最初期の例です。
滝廉太郎の器楽作品は、早世だったこともあり、2作品しか残されていません。どちらもピアノ曲です。
(残りの作品はすべて歌曲です。)
①♪メヌエット (1900)
…日本人が初めて作曲したピアノ独奏曲です。
複合三部形式で書かれ、かわいらしく儚い印象の曲です。
②♪憾(うらみ)
…死去の4ヶ月前に書いた作品で、結核に冒され、将来を諦めざるをえなかった悔しさが感じられる曲です。
幸田延 (滝廉太郎の師匠)
【プロフィール】
文豪、幸田露伴の妹です。
滝廉太郎にピアノを教えた東京音楽学校の教授で、
山田耕筰(日本人初の交響曲を作曲)、
久野久(日本人初のピアニスト)、
三浦環(日本人初のオペラ歌手)なども育てました。
自身もピアニスト、ヴァイオリニスト、作曲家として活躍しました。
♪ヴァイオリン・ソナタ (未完) (1895)
…留学中の習作で、日本人が初めて書いた西洋音楽作品とされています。
映画では檀ふみさんが演じており、
シューマンの謝肉祭を弾いているシーンが記憶に残っています😍
今回の記事で滝廉太郎についてあらためて調べている時、
亡くなったのが23歳というのに静かに衝撃を受けました…
1日1日を大切に生きないといけないと思いました🙂
最後まで読んでくださり、ありがとうございます!
さくら舞🌸
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