今日も人魚は歩かない

 少し前から人魚が見えるようになった。
 仕事からの帰り道、夕方の海のそばを自転車で走るたびにそれは見える。潮風にさらされたざらざらのコンクリートの向こうにある、濁った灰色の海の中。上半身裸で、夕日を浴びて赤く光る銀の鱗を持った女の人魚が泳いでいるのだ。髪の毛は海水で色が抜けたみたいなぼやけた茶色で、海面からひょこっと顔を出してわたしを見つめた顔は人間の子供みたいだった。
 面白半分に、そんな人魚にお菓子を投げつけたらなついてしまった。
 わたしはその人魚にプリッツという名前をつけた。プリッツが一番好きらしいから、プリッツ。
 今日の仕事終わり、堤防からそのお菓子の名前を叫べば、鱗をゆったりとたなびかせてそれはやって来る。
「瑠衣香!」
 とわたしの名前を叫んだプリッツが海面から顔を覗かせた。満面の笑みだ。こんなに全力で笑顔の人間を見るのは今日初めてだったので、わたしも思わず、笑ってしまった。
「プリッツ持ってきたよ」
 そういえばプリッツは幼い顔立ちでにかっと笑って、
「ありがとう瑠衣香、大好き!」
 と言って堤防へと上がってきた。
 プリッツをプリッツへと渡すとき、わたしの袖口からふっと魚臭い匂いがした。今日も一日中、死んだ魚の慣れ果てに触れていたせいだと思う。
「プリッツは、魚を食べるわたしたちのことが嫌いじゃないの?」
 ふと気になって尋ねると、とプリッツは「まさか」と笑い飛ばしながら、プリッツをカリッと齧って見せた。防波堤の上に広がる魚の鱗が、燃えたみたいに光っていた。
「あたしだって半分は人間だもの。ただちょっと食生活が違うだけよ」
「食生活」
「そう。日本人は海苔を食べるけど、他の人たちは食べない。それと同じ」
 プリッツは、だから瑠衣香も気にするんじゃないと言って、海水で濡れた腕でわたしの頭を撫でてくれた。
 どうしてこの人魚はこんなにも性格がよいのだろう、と不思議に思う。こんなに純粋で優しい人間なんか見たこともない、とすら思う。
 その愛らしい顔をじっと見つめていると、
「瑠衣香、もしかして元気ない?」
 と、プリッツが少し悲しそうな顔をした。わたしは少し迷ってから、頷いた。
「わたしには、幼馴染がいて。喜絵っていうんだけど」
「うん」
「学校の先生になったんだって。夢を、叶えたの。でもびっくりするくらい嬉しくない。さっさと挫折すればいいのにって思う」
 まっすぐに言葉を紡ぐ。どろどろと汚れた、自分の内側。
 プリッツは、慰めの言葉は口にしなかった。分かるとも分からないとも言わなかった。ただ黙って、わたしを撫で続けた。
 わたしはしばらくプリッツに撫でられたあと、日が暮れる前にまた来ると告げて海を離れた。プリッツは何度も何度もわたしへと手を振って、また来てね! と叫んでいた。

 人魚なんておかしなものがとりついたのは、この町が魚ばっかり殺しているせいじゃないかと思う。
 小さくて貧しい港町のこの町に住んでいる男のうち二人に一人は漁師で、そいつらが取って来た魚を女たちがせっせと工場で加工する。鮭とばとか、鯖のオイル漬けの缶詰とかだ。ほとんどのひとが、そうやって魚を殺して稼いだお金で生きている。
 わたしだって例外じゃない。わたしが働いているのは、チータラの製造ラインだ。
 毎日毎日、板状のチータラを機械に通して切り刻んだり、細切りになったそれをトレイの上に並べたり、梱包したりを繰り返している。見つめ続けたチータラの事はもはや食べ物とは思えない。八時間以上立ちっぱなしだから、足は感覚がないぼうっきれになる。鳴り続ける機械の音とよく怒鳴る女たちのせいで、わたしの耳は少しだけ悪くなった。

 生理が遅れている事に気がついたのは、工場で働きはじめてちょうど五年目の春の事だった。
 四十五分しかない昼休みの終わり際。尿をかけられた妊娠検査薬は、十秒とたたずにくっきり青いラインを示した。
 古びた和式トイレの中で、わたしは「あ、」と小さく声を漏らした。床のタイルは薄汚れていて、トイレ全体からは少し生臭い匂いがする。
 うすうすそうかもしれない、とは思っていた。
 でもいざ目の前に妊娠を突き付けられると、頭の中が混乱した。どうしよう。どうしよう。妊娠していたらいいなと思っていたから、嬉しいといえば嬉しいのかもしれない。でも、怖い。身体の中で魚の子みたいな胎児がむくむく成長していると考えると。
 わたしは尿のかかった手で、覚悟を決めるように一瞬だけそれを握りしめた。
 ここで呆然とする時間はない。休憩時間はあと七分だけれど、終了五分前には製造ラインにつかないといけないので、時間はあと二分しかない。
 わたしはトイレットペーパーで手を拭いた。べったりと張り付いてくる感触が気持ち悪い。妊娠検査薬を、工場着の内側に着ているパーカーのポケットに突っ込んだ。食べ物を作り出す工場に尿をかけたものを持ち込むのは、汚いことのような気がする。でも、まあ、いいか、とすぐに振り切ってしまう。どうせ誰にもばれはしないし、できあがったチータラを食べるのはわたしじゃない。

 ゆるくパーマをかけている髪の毛をひっつめて、ダサい作業着を着こむ。
 この服を着るたびに、志津に言われたことを思い出す。志津は工場の事務職についた、そんなに美人じゃない友達だ。それなのに、工場で働き始めた初日に彼女は、「瑠衣香みたいな美人でも、ダサい服着たらダサいんだ」と、笑ったのだった。志津の着ている少しはましな事務服を見て、わたしは確かに敗北感を覚えた。事務職に就くにはわたしは資格が足りなかったから。
 作業着を身に着けた自分を鏡で見ると、確かに価値が低いわたしがそこにいる。かわいくあること、選ばれること、そういう女としての意義や意味みたいなものが。だからいつも少しだけ猫背になってしまう。
 でも、そんな敗北感とも今日とおさらばだ。そう思いながら軽く下腹を撫でながら、ベルトコンベアの横に立った。
 今日の仕事は、チータラを四十五g測り取るところだ。
 持ち場について、四十五gのチータラをひたすらベルトコンベアに流し続ける。少し離れたところで、留学生の女がバイトに向かって何かを喚いているのが聞こえる。セイケツ、セイケツ、アンタデキテナイ! キタナイ! あんたの唾の方が汚いんだから黙れ。
 しばらく響き渡る喚き声に耐えていると、
「はいみんな静かに!」
 とこれまた大声で叫んだライン長がやってきた。ライン長は、濱崎さんという三十代半ばの男だ。トイレットペーパーよりも軽薄な男。マスク越しでも、今日もニマニマと軽薄に笑っているのが分かる。
彼は留学生の女に、
「今日の化粧すっごいね。誰かと思った。あ、悪い意味ね」
 とわざとらしい軽さで言った。留学生の女は言葉をなくし、工場の女たちが、笑う女と引く女にきっぱりと分かれた。
 わたしは引く側だ。そういう冗談を言えば言うほど女と仲良くなれると思っているところが、正直痛い。おじさんにもなって、悪ぶっている自分がカッコいいと思っているところも。
 ただ、それでも濱崎さんは工場を回す女たちにある程度人気がある。ライン長で、給料がよくて、独身で、ちょっとだけ顔がよくて、急に怒鳴ったりしないから。この人気があるという事は、実際にそいつがいいやつかどうかよりも、ずっとずっと重要だったりする。
 だって誰だって、羨ましがられるようなセックスをして生きていきたい。女同士で順位をつけあうことが娯楽のこの町で、恋愛というカードはあまりにも強い。
 ひと月前、わたしをホテルに連れ込もうとする濱崎さんの手を振りほどけなかったのは、そういう理由からだ。

 母親と二人暮らしのアパートへと帰る。海の近くにある古びたアパートは、潮風のせいで洗濯物を干せないし、あちこちボロボロに錆びている。
 テレビをだらだらと見ながら廃棄品の鯖缶を食べていた母親は、わたしの顔を見るなり、
「帰ってくるのが遅い」
 と顔を顰めた。
わたしは時計を見る。まだ七時前だ。二十二歳の女の帰宅時間として遅いとは思えない。
「変な男でも作ったんじゃないでしょうね」
 その心配か。わたしは思わず、ため息を吐く。
「そんなんじゃないよ」
「嫌な男に捕まると人生狂わされるんだから、ちゃんとした人にしておきなさいよ」
「…………」
 わたしは冷蔵庫から麦茶を出して、無言でコップについだ。
 その「嫌な男に捕まって」「人生が狂った」結果がいまあんたの目の前にいる娘だろう、という言葉が出かかったが、さすがにそれを口にするほど馬鹿じゃない。
 母はずっと、街に一つだけあるスナックで働いており、幼い頃はよくそのバックヤードに放り込まれていた。酒とたばこの匂いが深く深く染みついた、わたしと喜絵の幼稚園がわりの場所だ。
 わたしと喜絵は、何度もそれぞれの母親に尋ねた。何故わたしたちには父親がいないのか。何故お母さんたちは昼間ではなく夜に働いているのか。
 その度に仕事終わりでべろべろに酔っ払ったわたしの母親は、あんたはなんて馬鹿なの! とわたしの頭をぺしぺし叩いた。
「そんなこと、子供のあんたに言ったって分かるわけないでしょうが!」
 笑顔で叩かれることもあったし、舌打ちをしながら叩かれることもあった。どちらにせよ叩かれるのが痛いことには変わりがなく、いつかわたしの頭がべこりとへこんでしまうのではないかとひやひやしていた。
 わたしがそんなことを思っている傍で、喜絵はいつも、叩かれずに抱きしめられていた。喜絵のお母さんはごめんねと言って泣いたり、ただ喜絵の頭をそっと撫でたりしていた。
 それを見て、わたしはいつも、もやもやとした感情を抱えていた。
 お母さんはいつも家で、「あんたは馬鹿だけど、喜絵よりマシだね。顔がいいし、ちょっとは空気が読めるし」と言ってわたしを褒める。それなのに、喜絵が抱きしめられて、喜絵よりマシなわたしが叩かれるのはおかしいと、子供ながらに思っていた。
 今なら――どうしてわたしと喜絵の母親がスナックで働いていたのか、よく分かる。
 魚の加工工場で貰える給与だけでは、子供一人養うことさえ難しい。だから、母親は夜職をするしかなかったのだ。わたしが高校に入ってアルバイトを始めるまで、スナックで働き続けた母親には、一応感謝をしている。おかげでわたしの子供時代は、貧困というほどではなかったから。美味しいご飯も可愛い洋服も、ふんだんにはないけれど、ある程度与えられた。
 母はスナックをやめてから、ようやくこの街の魚工場でパートとして働き始めた。しかし十数年間夜職に馴染んだ身体はなかなか昼職に馴染まないらしく、しょっちゅう寝坊をして叱られたり、シフトを減らされたりしている。そういう事情もあって、今では正社員のわたしの方が少しだけ給与が多い。そんなわたしを見て、彼女は「いい身分だね」とぐちぐち言う。でも、それにももうだいぶ慣れた。
「瑠衣香」
 お湯を注いだカップラーメンを持って自室に行こうとするわたしを、母親が呼び止める。
「はやく誰かにもらわれなさいよ。あんた、顔だけは悪くないんだから、結婚さえすればみじめじゃなく生きていけるわ」
 わたしは何も言わずに、自室へと引っ込んだ。

 母の言う事は正しい。魚工場のラインを回す女たちの給料は少ないので、ずっと一人だと何の楽しみも知らないまま死んでいくことになるだろう。
 でも結婚すれば話は違う。工場の管理職はわたしたちより少しマシな量のお金を貰っているので、子供を持って、老後の心配をしなくていいような生活が送れるようになる。
 だから、みんな「貰われ」たがる。でも工場の男は女よりも数が少ないので、女の中でも、それなりに見目が良くて、でもあんまり派手ではなくて、口答えしないおしとやかな女の子から順番に貰われていくことになる。この町の中では、そういう女の子が好かれるのだ。
 着替えようとして、パーカーのポケットに妊娠検査薬が入ったままだったことに気が付いた。ポケットから取り出す。青い陽性の印は少し薄くなっていた。
 トイレの匂いが移ったのか、それとも検査薬自体の匂いなのか。ふっと生臭い匂いが漂って、顔を顰める。
 わたしを抱いたときの濱崎さんを思い出す。
 濱崎さんは、わたしを嫁にするには向かない女だと言った。元から美人な子は、家庭に入るの向いてないっていうじゃん? と彼は笑った。でも瑠衣香ちゃんみたいなかわいい子と一回してみたかったんだよね。そう、勝ち誇ったように笑われた。当たり前みたいに中出しして、立ち仕事の子は精液が流れ出るから妊娠なんかしないよ、とも言った。太ももに垂れてくる精液はどろどろしていて、工場みたいな生臭い匂いがした。
 濱崎さんがどこまでまともかは分からないけれど、既成事実があるのだから、逃げ切れやしないだろう。あの人だって所詮、この町から逃げられやしない、その程度の人なのだ。
 わたしはこの小さな町の中で、もう「勝った」のだ。誰にも馬鹿にされはしない。後ろ指をさされる事だってない。結婚できない女を笑って、生きていくことができる。
 そう思えば、その少し生臭い匂いの妊娠検査薬を誇らしく掲げたくなった。

 喜絵から連絡が来たのは、ちょうどつわりが始まったころだった。
 三連休に帰省をするのでご飯でもどう、という連絡に、吐き気を堪えながらいいよ、と返信する。
 それを打ち込みながら、どうせわたし以外に会う相手はいないんだろうな、と思った。笑ってしまう。
 喜絵とは、スナックのバックヤードから高校三年生まで、ずっとずっと一緒にいた。この狭い町の中でずっと、クラスが離れることすらほとんどなかった。腐れ縁、というやつかもしれない。
 そうして一緒にいた十八年間の中で、喜絵がわたし以外の友達といるのを見たことがない。喜絵はいつだって集団から浮いていたし、嫌われていた。わたしだって幼馴染でさえなければこんなやつの相手なんかしなかった、と思う。喜絵はいつだって空気が読めなくて、絶妙に腹立たしいことばかり言うのだ。自分がそんな風に「足りない」自覚がないものだから、救いようがない。
 あれは、確か中学校の卒業式。みんなが卒業証書を受け取りながら、一言一言、適当な挨拶をしていった。ほとんどの人が、ありがとうございました、と適当にお茶を濁す中で、喜絵は堂々と胸を張って言ったのだ。
「将来は学校の先生になります」
 喜絵がそう言った瞬間、かすかな失笑がクラスの中を漂った。わたし、アイドルになります。そんなことを言った痛いやつを見るのと同じ目で、みんなが貴絵を見ていた。
 この町の女の行く末なんか、ほとんど決まっている。
 男だったら、三分の一くらいが町の外に行って、三分の一が漁師になって、三分の一が工場の総合職になって、ライン長とか課長とかに出世していく。
 それに対して、女にある選択肢は、工場のラインを回す製造職になるという一択しかほぼない。女でも町の外に行くやつがいない訳じゃないけど、少なくとも喜絵がそんな「特別」な人間じゃないことは、誰から見ても明らかだった。でもそういう、自分の特別じゃなさに全然気が付かないところが、喜絵の痛いところなのだ。空気が読めない、ただの馬鹿。
 やがて、わたしの番が回ってきた。わたしはさっきの胸を張った喜絵の真似をして言った。
「学校のせんせえになりまーす」
 そうすれば、クラスは軽やかな笑いに包まれた。瑠衣香、かっこいいー。瑠衣香せんせーって彼氏いるんですかー? と囃し立てられる声が広がる中で、喜絵は一人不思議そうな顔をしている。
 どうして喜絵には分からないのだろう。わたしに許されて、喜絵には許されない冗談があるという事に。

 先生になりたい、という喜絵の言葉をもう一度耳にしたのは、高校生になってからだった。
 高校の昼休み、階段で二人で弁当を食べていたときだ。まだそんなことを思っていただなんて。わたしは唖然として、苛立ちさえ覚えた。
「先生になるって、なんか資格取らないといけないんじゃないの?」
 そんなことも知らないだなんて、馬鹿すぎる。そう思って教えてやったのに、喜絵は何でもないことのように、うん、と頷いて見せた。喜絵の野暮ったい黒髪ストレートが、その肩の上で重たく揺れた。
「四年生の大学で、教員免許を取れるんだって」
「大学? 喜絵が?」
 わたしはちょっと笑った。わたしと喜絵が通っていた女子高から進学するやつなんて、年に数人しかいなかった。短大とか専門学校じゃなくて四年生の大学、という話であれば、ゼロの年もあるかもしれない。
 そんな高校の中でも、喜絵は別に賢い訳じゃなかった。わたしだって真ん中よりも下くらいだけど、そのわたしよりもさらに喜絵は馬鹿だった。
「行けるわけないじゃん」
 きっぱりとそう言う。喜絵、泣くかな、と思ったけれど、意外にも彼女は泣かずにきっぱりと首を振って見せた。
「無理でも、もう決めたから。今から猛勉強する」
「大学なんて、お金もかかるし」
「奨学金もあるし、お母さんが応援してくれるって言うから」
 わたしは、ちょっと、いや、かなりイラっとした。あぁ、またこれだ、と思った。
 わたしのお母さんは「あんたのためにお母さん一生懸命働いたんだから、あんたも一刻も早く働きなさいよ」とわたしに言う。小さい頃は、お花屋さんになりたいとか、歌を歌う人になりたいとか、言ってみたことがあったけれど、その度にわたしは「そういの、いい加減痛いからやめておきなさいよ」と言われ続けてきた。「身の程ってものがあるの」とも。
 いつも、いつもこうなのだ。わたしと喜絵の間には、何か明確な愛情の差みたいなものがある。
 それは母親からの愛情の差でもあるし、神様に押し付けられた不公平でもある。わたしよりも馬鹿な喜絵が、わたしが夢にも思わないことを夢見ることを許されている、そういうすごく理不尽で、納得できない差だ。
 わたしは軽く舌打ちをしてから、「あのさぁ」と笑顔を作ってみせた。
「そういう夢見がちなの、いい加減痛いよ。あんた馬鹿なんだから」
 母がわたしに言い続けた事を言葉にする。喜絵はうっすら笑って、「そうかもね」と言った。喜絵があんまり傷つかないことに、わたしはなお一層苛立ったのだった。

 三連休の初日。三連休だからと言って、残念な事にチータラを食べる人間が減る訳ではないので、わたしは普通に仕事だった。六時くらいになる、と喜絵にLINEを入れる。
 チータラの袋詰め、工場内清掃、着替えを終えると五時四十五分になっていた。タイムカードを押しながら、おそらく十分ほど遅刻するだろうと思う。喜絵の事だからきっと気にもしないだろう。
 濱崎さんにいつ妊娠の事を話そうか、少しでも逃げられないように中絶可能期間が過ぎてからにしよう、と思いながら自転車を走らせ、喜絵との待ち合わせ場所であるガストにたどり着いた。
 そして、ガストの前に立っている小ぎれいな女を見て――ぎょっとする。
 そこにいたのは、喜絵だった。
 深い緑色のワンピースを着ていて、さらさらの髪の毛で、きっちりと化粧をした喜絵は、一瞬立派な先生のように見えたのだ。
「瑠衣ちゃん、久しぶり」
 わたしは自転車を降りると、久しぶり、と彼女に倣って笑った。
「そういう色の服は着ない方がいいらしいよ」
「え?」
「暗い色の服なんか着てると、男に選ばれない」
 こんなに町の常識なのに知らないの、と尋ねると喜絵は曖昧に笑った。いやそこは傷つく顔をしろよ、あんた相変わらず空気読めないな! と苛立ちながらも、わたしは笑顔で、女にとって結婚がいかに重要で、どういう女が選ばれるのかを丁寧に説明してあげた。

 運ばれてきたハンバーグを、喜絵が切り分けて口に運んでいく。その手つきの綺麗さになんだか落ち着かない気持ちでいると、
「あれ、瑠衣ちゃん」
 と、喜絵が小さく首を傾げた。
「お酒は飲まないの」
「ああ……」
 わたしはペペロンチーノをフォークで巻きながら、いらない、と首を振った。
「そんなに好きじゃない」
「中学生の時からビール飲んでたじゃない」
 わたしは軽く舌打ちをした。まだ言うつもりはなかったんだけど、仕方がない。言ってしまおう。
「妊娠してるから」
 喜絵が、え、と小さな声を漏らした。驚いたようなその反応に気をよくしたわたしは、軽く下腹を叩いて続ける。
「ライン長の子だから、大事にしないとね。結婚してもらうんだ。喜絵、式には明るい服で来てよね。TPOってやつ」
「ライン長?」
「工場の、えらい人」
 相変わらず喜絵はとんでもない馬鹿らしい。丁寧に言い直したわたしの言葉に、喜絵は首を傾げて見せた。
「付き合ってるの。好きなの?」
 わたしは呆れて、「あんたさあ」と喜絵を睨みつけた。
「子供じゃないんだから、付き合うとか好きとかそういう問題じゃないでしょ。どれだけの立場の人か、結婚できるか、そういう問題でしょ。分かる?」
 尋ねると、即座に「分からないよ」と返されて、わたしは面食らった。
「好きじゃない人と結婚しようとしている瑠衣ちゃんの事は、よく分からない」
 きっぱりとそう言われて、わたしは顔を顰め、「は?」と返した。
 いつもなら――これまでなら、喜絵はすぐに謝ってきた。
 しかし喜絵は、謝らなかった。不可解なものを噛み締めるような顔で、わたしから少し目線を外して、ハンバーグを咀嚼している。
 その姿を見た瞬間、ふと不安に襲われた。
 この女は、いったい誰だろう。
 少なくとも私が知る喜絵という女は、空気が読めなくて、どんくさくて、馬鹿で、自信がなくて、いつも泣いてばかりいた。そして少し苛立った様子を見せればすぐに謝った。だから操ることが簡単だった。そんな弱い幼馴染と、目の前にいる女の姿が、うまく繋がらなかった。
 わたしは首を振ってその不安を打ち切った。しかめ面でハンバーグを食べている喜絵に、笑顔で話題を振ってやる。
「喜絵の方は、仕事はどうなの? 先生やってんでしょ?」
 そう尋ねると、喜絵が一つ息をついて、こくりと頷いた。
「何とかね。拘束時間長いし、たまにしんどいけど」
「だから無理だって言ったのに」
「でも、やりがいはあるよ」
 やりがい。久々に聞いた言葉だ。わたしは笑った。
「喜絵がちゃんと先生なんてできてんの? 融通きかないし、空気読めないし」
「…………」
 喜絵はちょっと黙った後、にこり、と薄く笑う。
「そういう自分が、昔は本当に嫌いだった」
「え?」
「融通きかなくて、空気読めない自分が。でも先生になってすごく生きやすくなったよ。ある程度融通きかない堅物の方が、先生ってやりやすくってさ」
「……何それ」
「それに、ずっと憧れた仕事につけたんだから、多少の苦労は楽しいと思えるよ」
 何それ、とわたしはもう一度呟いた。下らない、と思った。
 やりがいとか、生きやすくなったとか、苦労が楽しいとか。まるで「町の外の人」がいいそうなことだと思った。そうやっていかにも自分の立場を分かっていないことを口にするあたり喜絵は喜絵のままだけれど、何が腹立つって、そういう言葉を今の喜絵が口にすると「それらしく」聞こえる事だ。
「……喜絵さぁ」
 わたしは心底呆れています、という声を作って言う。
「そうやって仕事大好きですって顔してると、男に選ばれないよ」
 そう忠告すると、喜絵が、「瑠衣ちゃん、またそれ」と静かな声で言う。
「選ばれない、選ばれないって攻撃されたって、悪いけど今のわたしは別に痛くない。結婚せずに、一人で仕事と趣味で生きるのもいいかなって思うもの」
「そんなの……」
 お金がない悲惨な人生だ、と言おうとして、気がつく。
 そうだ、喜絵はもう、魚工場で働く女と違って、教師として充分な給料を貰っているのだ。
 そのことに気がついた瞬間、堪えようのない吐き気みたいなものが込みあがってきた。
 そんなのおかしい。
 好きな仕事をして、いいお給料を貰って。結婚しなくても悲惨な人生じゃなくて、選ばれるとか選ばれないとかを気にしなくていいだなんて。ずるい。酷い。どうして喜絵が。
「……喜絵のくせに、随分と口答えするようになったね」
 そう言うと、喜絵が「瑠衣ちゃんは相変わらずだね」と間髪入れずに言う。
「わたしのやることなすこと貶して、馬鹿にして。そうやってわたしのことおもちゃにして」
「おもちゃ、って。何それ。友達だから軽口叩いてるだけじゃない」
「……そうね。何言われたって、友達だから笑うしかなかった。わたしには瑠衣ちゃんとお母さんしかいなかったから」
 でも、と喜絵が言葉を切る。カチャリ、と音を立ててフォークが皿の上に置かれた。
「もうわたし、そんな瑠衣ちゃんがいなくてもちゃんと生きていけるくらいには、強くなったのよ。わたしのことを馬鹿にしなくて、対等に付き合ってくれる友達がたくさんできたから。もう瑠衣ちゃんのおもちゃじゃない」
「は、馬鹿、そんな訳ないじゃん」
「だから、今日は、お別れを言いに来たの」
 わたしは立ち上がった。あまりにも腹立たしい言葉を、これ以上聞いていたくなかった。
 水の入ったコップを喜絵に投げる。喜絵はよけなかった。喜絵の額にゴンと音を立ててぶつかったコップの中身はその胸元にぶちまけられ、そのお上品な服を濡らした。
「あんた、やっぱり痛いのよ。ちょっと立派になったからって調子に乗って、勘違いして」
 先生ってやつがどれだけえらいのか、わたしは知らない。
 でもどれだけえらかろうがお金を持っていようが、昔からの友達を切り捨てるだなんて、人間として間違っている。
 わたしが正してやらないと――
 そう思って口を開いた瞬間、ぎょっとする。
「よく分かった。瑠衣ちゃんは変わらないんだって」
 コップの水ではない雫が、確かにその頬を伝っている。喜絵が、その目から涙を零して、泣いているのだ。
 どうして自分でひどいことを言っておきながら、自分で泣くのかさっぱり分からない。でも、確かにその目から涙を零していた。
「変わってしまったのはわたしの方かもしれない。でもどのみちもう一緒にはいられない。わたしはもう自分の足で歩いていけるから」
 そう言った喜絵はそっと床からコップを拾い上げる。
「じゃあ、もう、本当に。これでさよなら」
 喜絵が立ち上がる。すみません、お会計お願いします。そう言った喜絵がぱっと会計を済ませて、振り返りもせずに店を出て行く。わたしはしばらく、喜絵の食べかけのハンバーグを前に立ち尽くしていた。

 ガストから自転車を引いて歩く。苛立って、思わずガードレールを蹴りつける。
 潮の風の匂いをかぎながら歩いていると、ふと、この世界がくそったれだと気がついた日の事を思い出した。
 中学一年生の時。わたしは初めて、男の子に好きだと言われた。一つ上の先輩からだった。思わず舞い上がり、クラスの友人たちに報告した。
 けれど、友人たちの反応は期待したものとは違っていた。
「瑠衣香に隙があるからじゃないの」
「やれるって思われてるんだ」
「ほんと迷惑だよねー、そういうのって」
 数々の言葉を使って、わたしに起こったことが、決して歓迎するようなことではなく、また珍しいことでもないと、友人たちは訴えてきた。そんな風に言われると、自分が貰った大切な宝石を貶されたかのようで、気分がよくなかった。
 それだけならまだしも、
「瑠衣香のお母さんが水商売なんかやってるからだよ。瑠衣香、かわいそう」
 なんて言われると、心の底からむかむかした。
 そんな中で、唯一違う反応をしたのは、喜絵だった。学校からの帰り道、彼女は
「えっ」
 と驚いた声を上げ、立ち止まった。道のど真ん中で突然立ち尽くした喜絵の言った言葉を、わたしは今でも鮮明に覚えている。
「瑠衣ちゃん、すごい」
 そう言って喜絵は目をきらきらさせた。そんなにまっすぐな瞳はここしばらく見ていない、というくらいに。
「瑠衣ちゃんは美人で、優しいもん。だからだよ。すごい。誰かに好きって言ってもらえるって、すごい」
 そんな風に紡ぎだされる言葉があまりにも純粋すぎるせいで、わたしは思わず気の抜けた笑いを零してしまった。それでも喜絵がすごいすごいと言い続けると、おなかの底から少しずつ、嬉しい感情が込みあがってくるのが分かった。
 喜絵は、このくそったれの世界の中で光みたいなものだった。
 瑠衣ちゃんすごいと言ってくれた日も、高校の先生を目指すと言った日も。誰かを馬鹿にすること、誰かの足を引っ張ること、誰かの価値を貶めること、そうまでして男に選ばれること、そんなことでありふれた世界の中で、喜絵だけがいつもただまっすぐに光っていた。
 それは、今日だって変わらない。
 自分の足で歩いて行けると言った喜絵は光っていた。
 ただ、違うのは。
 わたしはもう、喜絵がくれる光なんか見たくなくなってしまったのだ。

 気が付けば、日の暮れた海に一人立っていた。
 プリッツのあの無邪気な笑顔が見たいと思ったけれど、今はプリッツを持っていない。鞄を漁れば、いつから入っているかよく分からない砕けたカントリーマームが入っていた。
 こんなもので来てくれるだろうか。いや、来いよ。来ないと死んでやる。
「プリッツ!」
 叫べば、月明かりの中で、確かに淡い赤色の光が見えた。ほっとしながら、カントリーマームの袋を開ける。
「瑠衣香!」
 砕けたカントリーマームの欠片を放ると、プリッツがその口をぱかっと開けて受け止めた。何のためらいもなくそれを咀嚼したプリッツが、
「ありがとう、瑠衣香。大好き!」
 と言って、海からあがった。その明るさに毒気を抜かれて、呆然とその顔を見つめていると、プリッツの顔が曇る。
「瑠衣香、どうしたの」
「ああ……いや」
 プリッツの横に腰を下ろしながら、わたしは軽く首を振った。
 友達にひどいことを言われた。縁を切られた。どんな言葉を用いて語ったとしても、今日の出来事はこのプリッツに話すに値しない出来事のような気がした。黙っていると、
「瑠衣香」
 プリッツが、濡れた腕でわたしを抱きしめてくる。
「元気を出して。きっと大丈夫。全部うまくいくから」
「……ありがとう」
 わたしは深い海の匂いがするプリッツの匂いを大きく吸い込んだ。
「プリッツはどうしてそんなに優しいの」
 プリッツは目を細めて、わたしの髪を撫でた。
「優しくない人魚はいないよ」
「……そうなの」
「だって、あたしたちは人間から栄養を貰わないと生きていけないんだもの」
 プリッツが笑顔を崩さないまま言う。
 言われた事の意味がよく分からなくて、「え?」と聞き返す。プリッツは何でもないような口調で、笑顔で続けた。
「人間に選ばれなかった人魚は死んでしまうから、だからいい人魚以外いないの」
 わたしは息を飲んだ。死んでしまう。人に好かれるか好かれないか、そんなくだらないことで、生きていけるかどうかが決まるなんて。
「そんなの……ひどい」
「ひどくないよ。ただ、人間が恵まれているだけ」
「恵まれてなんか……」
 ない、と言おうとしてその言葉を飲み込んだ。
 愛想をふれないと、見た目が綺麗じゃないと、男に好かれないとまともな暮らしが手に入らない。そう言った意味では、人魚と工場の女たちは似ている。
でも、わたしたちは男に選ばれなくったって死ぬわけじゃない。
「でも……それでも、わたしはわたしがかわいそうじゃないなんて思えない」
 そう言葉にすると、プリッツがかすかに首を傾げた。わたしはそっと涙をこらえながら、苦しみを少しでも身体の外に出すために言葉を紡ぐ。
「この酷い町を捨てられる友達が、いるのに。喜絵は自分の足で歩けると言ったのに」
「……瑠衣香だって、自分の足で歩けるよ」
 プリッツが笑う。あまりに無邪気に、あまりにまっすぐに。
「人間なんだから。立派な仕事につかなくても、誰かに選ばれなくても、きっときちんと歩いていけるんだと思う」
「そんな、簡単に」
「できるよ。大丈夫」
 プリッツはそう言ってわたしの頭を撫でると、
「これで、さようなら」
 と言って、海にどぽんと飛び込んだ。わたしは息を飲む。最後の言葉は、喜絵が言った言葉と同じだったから。

 夕日の沈んだ海辺にうずくまっていると、股がぐっしょりと濡れている事に気が付いた。赤黒い血液がズボンを伝い、靴下までも染めている。下腹がずくずくと痛い。
 ああ、流れたんだ、と、本能的に分かった。お腹の中にいた、わたしの勝利の証が、確かに今消え失せている。
 悲しくはなかった。虚しくもなかった。
 歩いて行ける。喜絵と、プリッツに言われた言葉を思い出す。
 プリッツが消えた海を見ながら、喜絵に謝らないといけない、と思った。
 わたしは喜絵に見捨てられたくない。喜絵のように生きられるんだったら、生きてみたい。誰かに選ばれる、選ばれない。そんなことにとらわれなくていい世界があるんなら、わたしだってそっちで生きてみたい。
 喜絵、ごめん。あなたが羨ましかった。LINEにそう打ち込んで送信する。わたしは人魚がいなくなった海の傍に立ち尽くしてただひたすら待った。返事は来なかった。

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