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折れる折れない

 去年のゴールデンウイークはどう過ごしていたんだろうと手帳を見返したら、見事に白紙だった。なんとなく大掃除をしていたような気がするけれど、なんとなくだ。娘が自分のLINEを見返しつつ、部屋の掃除をしたとか大学時代の部活仲間とZOOM飲みをしたとか初めて肉じゃがを作ったとか教えてくれて、ああ、そういえばそんなことがあったなーと思い出しはしたが、私自身のことではない。

 それで、スマホの中にある写真を見てみた。すると、ベランダで咲く花の写真とともに、折り紙で折ったバラの写真が何枚か出てきた。おお、そうだそうだ、せっせとバラを折っていたんじゃないか。福山ローズに川崎ローズ佐藤ローズ…(なんだか踊り子さんの名前みたいだ)。

 実は何年か前にも折ったことはあったのだが、すっかり忘れてしまったので、YouTubeを参考にしてもう一度折ってみたのだ。普通サイズの折り紙に何本もの折り筋をつけ、仕上げには爪楊枝を使って……という細かい作業だ。何枚も途中でクシャッと潰したけれど、繰り返す内に、自然と工程は覚えた。出来上がりの上手い下手はともかく、すいすいと折れるようになった。そして、止めた。

 できるようになるまでが楽しいのだ。(飽きっぽいとも言う)

 さて、今でも空で折れるかって? ……無理です。
 続けないものはキレイに忘れるシステムだ。ただ、一度は理解したので、折り方を見ればまた、去年のように折れるだろう。

 でもそれは、「できる」と言っていいんだろうか。「できるの? じゃあ、折って」と言われて折り方を見直すって、どうなんだろう。紙さえあればいつでもススイと折れて電車の中で泣いていた赤ん坊も泣き止むくらいの芸当ができなければ意味がないだろう。

 たとえば、レシピを見ながら一度だけ作った料理とか。美味しくできたとして、それは「作れる」って言っていいんだろうか。

 娘の肉じゃがと私の肉じゃがが同じ「できる(作れる)」ではないように、「できる」と言えることって、ずっと「続けてやっていること(=忘れないし、どんどん上手くなること)」なのかもしれないなぁ。

 さて、今年のゴールデンウイークは何をしよう。「できる」になるかどうかはともかく「やったことがある」は増やしたいものだ。