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知らない人の家の、断面

 駅へ向かう通りの、その数百メートルの間で3軒、建物が解体されつつある。一軒は自転車屋。もうひとつは二階建てアパート。そして民家。ほとんど同時進行で取り壊しが進んでいるのは偶然なんだろうけれど、歩道が狭いので通行の妨げになっている。

 そして、見てはいけないものを見た気になる。

 特に一軒家には、まだまだ家財道具が残っている。玄関のドアがしっかりと閉まってる横にぽっかり穴が開き、二階まで断面が見えて、どこに洗面所があり、どんな洗面台があり…などなど、見ようと思えば仔細に見える。

 全然知らない人の、全然知らなかった家の中の様子だ。

 以前は、その家の前を通ると、よくデイサービスの車が停まっていた。ヘルパーさんが二人いて、老婦人の姿があった。車椅子だったような気もする。私はあまり人の顔を見ないし覚えないので、残念ながらどんな人だったかはよく見ていない。ただ、そこを通るときには、「今日もデイサービスの車がいる」とか「今日はいないんだな」ということに意識がいった。

 車を見なくなって、そのことを気にも留めなくなったころ、玄関に手書きの張り紙があることに気がついた。この家の住民は亡くなって空き家だから不要な郵便物などを入れないように…というような内容だった。それからまた随分と日が経っての取り壊しだ。

 ピッタリと閉じられたドア。たてられた雨戸。閉められたカーテン。中の様子など全く見えなかった家の中が、今、ぽっかりと外に向かって公開されて、まるで舞台のセットみたいに生活感を顕にしている。それが見る間に崩されて片されていく。仕方のないことだけど、他人のことながら胸が痛む。

 近くのアパートの方の取り壊しは、既に住民が去った後だ。ああ、こんな間取りだったんだなと思うくらいだが、古い襖や畳にはやはり、生活の名残が見える。その点、壊されかけの自転車屋は、ただの空間だ。でも、それは私がその自転車屋に何の思い入れもないからであって、もしも子供の頃から通っていたお店だったら、もっと他の思いを感じただろう。

 いずれにせよ、どこも数日後には空き地になる。

 きれいな更地になって、そのうちにそれが当たり前の風景になると「あれ? ここって前は何があったんだっけ?」な、よくある現象が起こるんだろう。その時のために今、このnoteを書いているのかも。

 更地に何か新しい建築が始まり、出来上がって、さらに日が経てばそれが周りに馴染み、また当たり前の風景になってしまうんだ。

 昨年、夫の実家が取り壊された。壊されるところも見なかったし、その後の更地も、さらに分譲されて家が建っている様子も、話に聞くだけで見てはいない。これからも見たくない。私の記憶の中では、今も夫の実家が建っている。