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『信長公記』にみる信長像⑥ 本能寺編

日本最大の勢力となった織田家。

しかし信長はさらに躍進します。

今回は天下人の最盛期と結末を描く巻十三〜巻十五の内容になります。

前回はこちら👇

巻十三(天正8年)に入ると、本願寺が降伏、関東の雄である北条家が織田家に従う態度をとり、主な敵は武田・上杉・毛利に絞られます。

この頃、信長自身は戦に出ることはあまりなく、羽柴秀吉や明智光秀、柴田勝家といった諸将に攻略を委任しています。

そのため信長のちょっとしたエピソードが見られます。

売僧無辺を処刑

巻十三の第4段の話。

無辺という旅僧が近江の宿坊に住み着き、不思議な霊験を示すと評判になっていました。

これを聞いた信長は、その人物を見たいと言い出します。

信長は安土山に出頭した無辺を引見し、質問をします。

「客僧の生国はどこか」と尋ねた。「無辺でございます」と答えた。また「唐人か天竺人か」と尋ねると、「ただの修行者でございます」と答えた。信長は、「人間の生まれるところは三国だけだというのに、それ以外だと言うのは不思議なことだ。さては妖怪かも知れぬ。ならば火に炙ってみよう。火の用意をせよ」と命じた。この言葉に無辺は詰まり、「出羽の羽黒山の者でございます」と答えた。

『地図と読む 現代語訳 信長公記』p.329-330

無辺とは無限の世界のこと、唐人とは中国人、天竺人はインド人、三国は日本・中国・インドのことです。

この問答から察するかぎり、信長は最初から怪しんでいたようですね。

それはともかく、不思議な霊験を示すそうだと信長も聞いていたので、「さあ、験を見せてもらおう」と催促したが、一向にその様子も現れなかった。信長は、「大体、不思議な霊力のある人間というのは、顔から目の色まで普通とは違うし、人物全体もいかにも尊げに見えるものだ。お前は山中に住む下賤の者にも劣る奴だ。女子供をだまし、国の宝を無駄遣いさせるとは、不届き千万」と言って、「もう良いから、無辺に恥をかかせてやれ」と命じた。

同 p.330

ようするに無辺は売僧(まいす)だったということが発覚したので、その後無辺は捕らえられ処刑されてしまいます。

家臣を追放

本願寺が実質的に降伏、和睦が成立し顕如らが大阪から立ち退いた後、信長は織田家の筆頭家老であり対本願寺の将に任命していた佐久間信盛を懲戒します。

信長は信盛を懲戒する文書を自筆で書き上げましたが、その中からいくつか抜粋します。

一、佐久間信盛・信栄父子、五年間、天王寺に在城したが、その間、格別の功績もなかった。これは世間で不審に思われても仕方がない。信長も同感であり、弁護する余地もない。(中略)
一、丹波は明智光秀が平定し、天下に面目をほどこした。羽柴秀吉は数カ国で比類ない功績を上げた。また池田恒興は小禄ながら短期間で花熊を攻略し、これも天下の称賛を得た。佐久間父子はこれを聞いて発奮し、ひとかどの戦果を上げるべきだったのだ。(中略)
一、先年、朝倉義景が敗走のおり、戦機の見通しが悪いと叱ったところ、恐縮もせず、揚げ句に自慢をいって、その場の雰囲気をぶちこわした。あの時、信長は立場がなかった。あれほどの広言をしておきながら、長々と当地に滞陣しており、卑怯な行為は前代未聞である。

同 p.344-346

このようにこき下ろしている文が19ヶ条続きます。

光秀や秀吉を挙げて彼らの功績と比較し、前にあった出来事を思い出してそれについて非難しています。

朝倉義景の件については、以前の記事に👇

この文書の末尾は次のようになっています。

一、この上は、どこかの敵を制圧して今までの恥をそそぎ、その後に復職するか、または討ち死にするかである。
一、父子とも髪を剃って高野山に引退し、年を重ねれば、あるいは赦免されることもあろうか。
右のとおり、天王寺在城数年の間にさしたる功績もなかった者の未練な子細が、このたび保田の一件で了解できた。そもそも天下を支配する信長に口答えする者はあの時が初めてだったのであるから、かくなる上は、右末尾の二カ条を実行せよ。承諾しなければ、二度と赦免されることはないものと思え。

同 p.347-348

結局、信盛・信栄父子は高野山へ追放となります。

信盛はそのまま紀伊国で死去しますが、信栄はその直後に織田信忠の家臣として帰参を許されています。

織田家の筆頭家老であり畿内方面軍軍団長というかなり上位の立場にあった家臣であっても追放するという信長のこの方針によって、ほぼ天下を手中に治めた織田家内の緩みも引き締まったのではないでしょうか。

それにしても、織田家臣たちが信長を崇敬する様は注目すべきです。

信長が平定された伊賀を視察に来た際には次のように書かれています。

信長の休息・宿泊する御殿を滝川一益が立派に建て、織田信忠の御殿も、そのほかの諸勢がて落ちなく造っておいた。珍しい食物を調えて食事を出し、充分な心づかいで接待した。織田信雄・堀秀政・丹羽長秀も、休息所や宿泊所を競って立派に造った。御殿の造作といい、食事の用意といい、大変なもので、道中の休憩所にも酒肴を出す用意をした。信長の果報は大変なもので、諸将が信長を崇敬し、その威光に恐懼する有様は、筆にも言葉にも述べ尽くせないほどであった。

同 p.377

フロイスの『日本史』にも、家臣が信長を崇敬していることが書かれていますから、この記述もそこまでオーバーではないのでしょう。

そう考えると、やはり以前に信長の命令を反故にして勝手に陣を払った秀吉はかなり特殊なケースだったのだと思います👇

ちなみにその秀吉ですが、この頃は因幡の鳥取城を陥落させ感状を贈られています。

信長は、「このたび、因幡の国鳥取の堅固な城と大敵に対し、一身の覚悟をもって戦い、一国を平定したことは、武勇の誉れ前代未聞である」との感状を書き、秀吉に賜った。秀吉はこれを頂戴し、面目の至りであった。信長も満足し、十二月二十二日、褒美として茶の湯道具十二種の名物を賜った。

同 p.382-383

実力のあることはもちろんですが、信長は特に秀吉を気に入っていたように感じさせる記述です。

信長の気力

四月十日、信長はお小姓衆五、六人を従えて、竹生島に参詣した。長浜の羽柴秀吉の城までは馬に乗り、そこから湖上五里を舟で参詣した。安土から水陸あわせて片道十五里、往復三十里の行程を、その日のうちに帰還した。まったく、このようなことは聞いたこともない。しかし、信長の気力は並みの人とは違い、達者なことには皆感嘆したのであった。

同 p.363-364

当時の信長は48歳になりますが、活力に溢れていたようですね。

もともと信長は身体が強い様子が以前にも報告されていました。

この頃も毎日のように鷹狩りを行っていた記述がありますから、やはり溌剌としていたのでしょう。

ところがここで事件が起こります。

遠路であるから今夜は長浜に宿泊するだろうと、誰もが考えていた。信長が帰城してみると、女房たちは、あるいは二の丸まで出かけている者もおり、あるいは桑実寺へ薬師参りに行っている者もいた。城中の者は仰天して困惑し、慌てうろたえた。信長は、遊び怠けていた者を縛り上げ、桑実寺へは使いをやって、女房たちを出頭させるよう命じた。寺の長老は「お慈悲をもって女房衆をお助けください」と詫び言を言ったので、女房たちと一緒に、その長老も成敗した。

同 p.364

女房とは、女性の使用人のことです。

信長はその日のうちに帰ってくるとは思っていなかった彼女たちは、勝手に出かけたりしてしまったため、成敗されてしまったようです。

一揆勢の殲滅のときもそうでしたが、女性にも容赦はなかったことがうかがえます。

ちなみに、このとき信長が参詣した竹生島へは今でも行くことができ、琵琶湖の観光スポットとしても人気です👆

武田家を滅ぼし、凱旋

天正十年二月、武田家に属する木曾義昌が調略により味方に転じたのをきっかけに、甲州征伐が開始されます。

その頃の勢力図はこのような感じ👇

https://sengokumap.net/history/1582-1/

長篠の戦い以降衰退した武田家ですが、まだ何とか甲斐・信濃・駿河・上野の4カ国を保っていました。

迫ってくる織田軍に対し武田勝頼は抗戦の構えを見せますが、求心力が下がっていた勝頼に従う土豪は多くなく寝返りが続出。

こうした中で織田軍は信忠を中心に快進撃、勝頼は本拠地を捨て山中に逃げ込みますが包囲されます。

勝頼ほか一同、逃れることはできないと悟り、誠に美しい歴々の婦人、子供たちを一人ずつ引き寄せて、あたかも花を折るように、四十余人を刺し殺した。その後、残った者たちは、散り散りになって打って出て、討ち死にした。

同 p.402

勝頼とその子信勝はここで切腹し、武田家は滅亡。

甲州征伐はわずか一月半で決着します。

弱体化していたとはいえ4カ国を支配する名門武田を短期間で滅ぼしたことで、今の織田家が最強であることを諸国に知らしめることになりました。

戦後処理を済ませて、信長は次のように言い出します。

信長は「諏訪から富士山の麓を見物し、駿河・遠江を廻って帰京する。兵たちは当地から帰し、諸将だけが信長の供をせよ」と指示を出した。

同 p.409

観光して帰ると言っているわけですね。

信長本人が信濃や甲斐・駿河に入るのはおそらく初めてのことなので、この機会に巡っておこうと思ったのでしょう。

信長は、甲斐、駿河、遠江、三河、尾張、美濃の順に通って安土に帰城。

道中で富士山をみたり、乗馬をしたり、浅間神社やその他の名所に寄ったりして、楽しんでいる様子が書かれています。

ところで、この度駿河を進呈された徳川家康は、自分の領国を通るだけあって道中かなり気を配っていた様子。

徳川家康は信長の行路に万全の配慮をして、兵が担いだ鉄砲に竹木が当たらぬよう切り払い、街道を拡張し、石を除き、水を撒いた。道の左右には、びっしりと隙間なく警固の兵を配置した。信長の行く先々、宿泊地ごとに、陣屋を堅固に建て、二重三重に柵を造り、さらに将兵たちの小屋を千軒以上も陣屋の周囲に建て、朝夕の食事の用意を家臣たちにぬかりなく申し付けておいた。信長は、家康の心づかいを殊勝なことと感心したのであった。

同 p.415-416

道路を整備し、河川に橋を架け、休憩所を造り、食事の材料には諸国の珍しい品を買い集め接待したとされ、信長と家康の仲の良さ(もしくは家康が信長を崇敬する様)が目立ちます。

家康の万端にわたる配慮と並々ならぬ苦労は、誠に大変なことであった。だからこそ、道中どの地においても、将兵の誰もが家康の努力に感謝したのであって、その功績は言葉には尽くせない。信長が感激し喜んだことは、いうまでもない。

同 p.419

安土に帰城した信長は、今度は家康をもてなすことになります。

五月十五日、家康は番場を出発し、安土に到着した。信長は「宿舎は大宝坊がよかろう」と言い、接待のことは明智光秀に命じた。光秀は、京都・堺で珍しい食料を調達し、たいへんに気を張って接待した。十五日から十七日まで三日間に及んだ。

同 p.422

有名な家康接待の話ですが、やはり明智光秀が担当したようです。

俗説にこのときの光秀の接待に対して信長は不満足で叱責したという話がありますが、『信長公記』には書かれていません。

三日間に及んだ饗応の後も、信長と家康は膳を並べて一緒に食事し、信長も家康に敬意を示していたと言われています。

本能寺の変

武田家を滅ぼしてその領土を拡大した織田家は、最盛期を迎えました👇

https://sengokumap.net/history/1582-2/

ここまでくるともう織田家と十分に戦える大名はおらず、天下を取ったと言っても過言ではありません。

上杉には進行中で年内には決着がつくでしょうし、毛利は秀吉が有名な備中高松城の水攻めをしており時間の問題、長宗我部には織田信孝が出陣の準備をしており兵力差から考えてこちらも時間の問題、九州も同様でしょう。

北条家をはじめとするその他の大名は信長に恭順の意を示しています。

そんな誰もが織田家の天下を疑わなかったこの頃、ついにあの事件が起こります。

五月二十九日、信長は上洛した。(中略)「ただちに中国へ出陣せねばならぬので、戦陣の用意をして待機、命令ありしだい出陣せよ」という命令であったから、このたびはお小姓衆以外は随行しなかった。

同 p.426-427

信長はお小姓衆二、三十人を召し連れて上洛したそうです。

上洛の理由は書かれておらず、不明

そしてここに、思いがけない事態が勃発した。
六月一日夜になって、丹波の亀山で明智光秀は信長への反逆を企て、明智秀満、明智次右衛門・藤田伝五・斎藤利三らと相談して、信長を討ち果たし天下の主となる計画を練り上げた。

同 p.427

羽柴秀吉の援軍として中国へ向かうよう命令されていた光秀は、中国筋へ向かわず進行方向を京都に変えます。

夜のうちに進軍した光秀は、日をまたぎ、信長の宿所である本能寺を包囲し、兵は四方から乱入しました。

信長もお小姓衆も、その場かぎりの喧嘩を下々の者たちがしているのだと思ったのだが、全くそうではなかった。明智勢は鬨の声を上げ、御殿へ鉄砲を撃ち込んできた。信長が「さては謀反だな、誰のしわざか」と問いただすと、森長定が「明智の軍勢と見受けます」と答えた。信長は「やむをえぬ」と一言。

同 p.428

森長定は森蘭丸のことで、「やむをえぬ」の一言は有名は「是非に及ばず」です。

信長は、初めは弓をとり、二つ三つと取り替えて弓矢で防戦したが、どの弓も時がたつと弦が切れた。その後は槍で戦ったが、肘に槍傷を受けて退いた。それまで傍らに女房衆が付き添っていたが、「女たちはもうよい、急いで脱出せよ」と言って退去させた。

同 p.429

さすが信長、自ら弓と槍で明智兵と戦闘しています。

現在本能寺は別の場所に移され、跡を示す石碑だけがあります。

『信長公記』の著者である太田牛一は、変の際には本能寺にいませんでした。

それにも関わらず信長が発した言葉や様子を詳細に書くことができたのは、このとき本能寺から逃げのびた女房衆に取材したからだそうです。

すでに御殿は火をかけられ、近くまで燃えてきた。信長は、敵に最期の姿を見せてはならぬと思ったのか、御殿の奥深くへ入り、内側から納戸の戸を閉めて、無念にも切腹した。

同 p.429

信長の最期は切腹だと書かれています。

ただし、介錯人がいたのかさえ書かれていなくて、本当にそうだったのかは判然としません。

『信長公記』の記述からすれば、小姓衆は目下明智勢と交戦中、女房衆を逃した後に御殿の奥に入ってからは信長1人だった可能性もあり、実際には誰も切腹する様子を見ていないような気もします。

この時には女房衆は退去していて、最期の姿は取材のしようがなかったので仕方ないですね。


以上で、6回にわたり続けてきた「『信長公記』にみる信長像」は終わります。

信長については、何度か言及したフロイス『日本史』にも結構詳しく書いてあるので、またの機会にそちらも記事にしてみようと思います。


お読みいただきありがとうございました🌸

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