『信長公記』にみる信長像① 信長立志編
信長研究で最も重要な史料とされているのが、信長の側近であった太田牛一が著した『信長公記(しんちょうこうき)』です。
これなくしては信長については全然わからなかったと言っても過言ではないくらい重要で、史料としての信頼度も高いとされています。
そんな『信長公記』ですが、ありがたいことにKADOKAWAから現代語訳が出版されています!
👆こちらは文庫本ですが、ちょっとパワーアップした単行本版も出ています👇
単行本は値段が倍くらいなのですが、地図や注がたくさん載っており、文庫本に比べて理解しやすく読みやすいです。
今回はそんな現代語訳『信長公記』の首巻にあたる箇所から、信長がどのような人だったのかを取り出してみようと思います😊
青年信長の日常
まずは首巻第7段から。
ここでは信長を斎藤道三の婿とする縁組がととのって、信長が濃姫(帰蝶)と結婚したことが書かれており、続く文に有名な「うつけ」のくだりが登場します。
子ども向けの歴史まんがで、よく若い頃の信長が馬を乗り回していたり川で泳いでいるコマをみましたが、それはこの記述に基づいているのでしょう。
青年信長の服装は、湯帷子(ゆかた)を袖脱ぎ、つまりノースリーブにして着ていて、袴は半ズボンにしていたとのことです。
茶筅髷はこちら👇
文の調子から見るに、当時としてはやはり奇抜な姿だったという印象を受けます。
これもよく歴史まんがで見ていた姿ですね。
この信長の姿を見て、人々は「大馬鹿者」と呼んだと書かれています。
ただし、外見的には評価が低い信長でしたが、この頃から槍の長さを変えたり、弓や鉄砲、兵法の稽古を絶えず行っていたことも記載されています。
強くなるための修練は欠かさなかった様子です。
信長の史料にはフロイスの『日本史』や公家の日記がありますが、こうした青年期の信長を描写した史料はおそらく『信長公記』だけでしょう。
天沢和尚の話
首巻第33段では、天沢(てんたく)という和尚が関東へ下る途中に、甲斐の国(山梨県)で武田信玄に信長の様子を尋ねられたときのことが書かれています。
ここでも馬術や鉄砲などの稽古のことが言われていますが、続いて趣味の話になります。
有名な「敦盛」の話ですね。
意味は「人の一生は五十年。仏教でいう化楽天の時間に換算すれば、夢か幻のように短くはかないものだ」という感じだそう。
「敦盛」の件は第36段の桶狭間の合戦でも見られます。
ちなみに化楽天では、人間界の800年が1日に相当するそう。
信長がどのように舞っていたのかは不明ですが、現代では👇の動画にみられます。
そして信長は小唄も趣味だということでその話に。
意味は「死は必ず訪れる。死後、私を思い出してもらうよすがとして何をしておこうか。きっとそれを頼りに思い出を語ってくれるだろう」という感じだそう。
舞と小唄のどちらも、人間のはかなさや死ということがテーマになっていますね。
なんだか、常日頃、信長は死ということを意識していて、それだけに自分の人生を生ききるという覚悟で生きていたように感じられるエピソードです。
桶狭間の合戦
戦いにおける信長がよく書かれているのが第36段の桶狭間の合戦。
今川義元を破った有名な戦いですね。
信長はこの戦い以前にも勇猛ぶりを見せて、斎藤道三から「恐るべき男だ」と驚かれる話があるのですが、桶狭間の戦いではその勇猛さに加え、将としての冷静さも見られます。
まずは合戦前。
今川軍が迫ってきていることを聞いた後の出来事です。
この時なぜ信長は戦の話を家臣としなかったのでしょうか。
大群で攻めてくる今川方に寝返る家臣も出てくる頃合いでもあったでしょうから、もしかすると、策がもれないようにする一計だったのかもしれません。
そして味方の砦が攻められていると報じられると先に引用した「敦盛」の場面に続きます。
出陣した信長は味方の砦間を移動します。
中島とは織田方の砦の1つで、そこへ進もうとすると今川義元がいる桶狭間山からは少人数であることが丸見えになってしまいます。
推測の域を出ることはできませんが、ここでは自軍が少数であることをわざと見せることによって、義元の油断を誘ったのではないかとも考えられるでしょう。
信長のセリフが長文でしっかり載っている貴重な場面です。
今川軍は多勢ではあるが疲弊している点、さらに土地勘では織田軍が有利である点。
こうした点を踏まえて、敵が掛かってきたら引き、退いたら追うという戦法にでます。
味方の士気もしっかり上げようとしていますね。
桶狭間近くに軍勢を寄せた時、激しい雨が降り出しましたが、これは味方の後方から降りかかり、敵の顔に振り付けるような雨でした。
後々にご紹介しようと思っていますが、信長は大事な合戦の時に運が良いと言われています。
この記述を見るに、信長が義元の軍勢と衝突した時には雨は上がっていたようですので、雨に紛れた奇襲だったという俗説は少し違うようですね。
また、この時今川兵が逃げ崩れたとのことですが、おそらくこの兵たちは義元に連れてこられた農民兵であったと思われます。
屈強な信長軍とは兵の練度が全然違っていたことも、ここで簡単に崩れた理由かと。
農民兵、いわゆる雑兵が崩れる中、今川軍の正規の兵たちが義元を守りますが、信長の戦法が功を奏して、次々に倒れていくさまが書かれています。
天沢和尚の話で武田信玄も言っていましたが、信長はやはり合戦上手ですね。
ここでは信長自身も槍働きをしており、しかも敵をどんどん倒している様子です。
信長が弟の信之と戦った稲生の戦いでは、信之方の武将である林美作守を信長自身が討ち取ったと記述されています。
信長は大将として指揮するだけではなく、武士として戦場で戦うこともしっかりできたようで、実際に勇猛であったことがわかると思います。
結局、今川義元は討ち取られ、信長は馬の先へ義元の首を掲げさせて帰陣。
義元を討ち取った際に義元が常に差していた名刀、左文字の刀を信長は召し上げて、試し切りをして佩刀したことが書かれています。
首巻(入京以前)の信長についてはここまでにしようと思います。
本当は斎藤道三との会見で度肝をぬいた話などもご紹介したかったのですが、文量が多くなってしまいましたので、また次の機会に😊
最後に、この頃の信長の勢力図を見てみましょう。
お読みいただきありがとうございました🌸
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