『信長公記』にみる信長像⑤ 安土編
包囲網を破り、武田に勝利したことで、いよいよ天下が近くなって来ました。
本拠地を岐阜から安土に移した信長は政務が中心になっていき、京への往来を頻繁にするようになります。
今回はそんな姿が書かれている巻十〜巻十二の内容になります。
前回はこちら👇
松永久秀謀反
信長に従属する武将に松永久秀という者がいました。
久秀はかつて畿内の中心的人物でしたが、足利義昭を擁して信長が上洛してきた際に降伏し、以降は信長に従っていました。
ただし心底したがっていたわけではなく、久秀は元亀年間に信長を裏切り謀反しています。
しかし信長は元亀争乱を突破し、久秀は降伏。
この時なんと信長は謀反した久秀を赦しています。
信長は、かつて自分に敵対した弟信行に加勢した柴田勝家らも赦したりと、考えられないほど寛大な時があります。
久秀の場合は、畿内の中心的人物であったことから、信長の畿内統治にまだまだ役に立つと思われたのかもしれません。
その久秀がまたも謀反を企てます。
信長はまたも謀反した久秀に対しても、まずは話をきこうとしていますね。
しかし久秀はこれを蹴って敵対の構えを崩しません。
信長は仕方なく久秀討伐の軍勢を差し向けました。
信長の嫡男信忠を大将とした織田軍は、信貴城を攻略。
松永久秀は自ら天守に火を放ち焼死したと書かれています。
秀吉を叱って褒める
信長に重用された家臣として有名な羽柴秀吉は、この頃には立派な部将になっていました。
北国に勢力を伸ばす織田家は、柴田勝家を大将として出陣し、そこに秀吉も参陣していました。
しかしそこで問題発生。
信長は家臣に畏敬されていることを考えると、この秀吉の撤退には不思議さを感じます。
信長の命令に反して勝手に行動する家臣など、『信長公記』では秀吉くらいです。
もちろん激怒されたとのことですが、このようなエピソードがあると、逆に信長と秀吉には特別な信頼感があったように思えますね。
そんな秀吉ですが、2ヶ月後には大活躍をします。
日本の旧国名ではわかりにくいと思いますので、当時の国名の日本地図を載せておきます。
播磨は現在の兵庫県南西部といったところですね。
秀吉は播磨からさらに但馬にも攻め入っており、短期間で成果をあげていきます。
助けてくれるように嘆願したにもかかわらず、城兵は磔にて皆殺しになりました。
実はこうしたことは会戦の当初にはよくあることで、残酷さを見せつけることによって相手の戦意をそぐ意図があります。
とにかく秀吉は、但馬・播磨両国の平定に成功したのでした。
「乙御前」の釜とは茶道具のことで、信長は家臣への褒美にしばしばこうした茶器を与えていました。
勝手な撤退を一度は怒ったものの、信長はこの秀吉の活躍には満足だったようですね。
毛利との決戦を望む信長
秀吉が播磨を平定した後、最前線の城である上月城に敵方の毛利軍が攻め寄せ、これを包囲してしまいました。
これに対して秀吉は上月城救援に出陣するも、谷に隔てられて良い策がありません。
自らが出陣して一気にかたをつけたい信長に対して、家臣たちが思いとどまらせようとしています。
この進言を聞き入れたのか、信長は家臣たちを先に出陣させ、自分は後から出陣しようとします。
しかしその2日前に豪雨が降り、各地で洪水が起こってしまいました。
信長は出陣の日限を違えないと書かれていますね。
家臣もそれをよく承知しているようで、織田軍の統率力の高さが納得できるエピソードです。
ただし今回は、信長は安土の洪水の様子を視察するために帰国し、出陣は取りやめになったようです。
その後、播磨から京都へ戻った秀吉に対して、上月城の救援は捗らず見通しが立たない以上、ひとまず陣を引き払うように命じています。
毛利との決戦にはいたりませんでした。
荒木村重、謀反
荒木村重は、もともとは他家の家臣でしたが、足利義昭が信長に敵対した時に信長の味方になり、摂津の国の支配を任された者でした。
織田方として様々な戦に参陣し、武功を挙げています。
摂津一国の支配という重用さであったにもかかわらず村重は謀反を起こしたので、信長は驚いた様子です。
以前、松永久秀が謀反した時と似たような感じになっています。
信長はまずは話を聞こうとし、家臣に説得させ、それでも何ともならない場合に討伐の兵を挙げます。
そして謀反した相手には容赦しません。
摂津国内の民は僧俗・男女の別なく撫で斬りにされ、堂塔や仏像が焼き払われたと書かれています。
後に村重は城を脱出して逃れたものの、人質として置かれた妻子や親族は成敗されます。
その様子は巻十二第24段に長文で書かれており、かなり悲惨な感じです。
自分に刃向かう者がこれ以上出ないように、信長は鬼になったことが『信長公記』からうかがえます。
鷹狩りをする信長
信長は鷹狩りを好むようで、特に安土に移ってからはよく行っているようです。
特に巻十二第1段では、1月から4月の上旬までに7回も鷹狩りについて記載されています。
徳川家康が鷹狩りの目的のひとつに体を鍛えることをあげているのは有名ですが、信長もそうだったのかもしれません。
殊に信長は昔から体が強かった様子が伺えますね。
鷹狩りついでにもうひとつ。
「あばれ」というのも気晴らしのひとつだったようですね。
こちらは馴染みがありませんが、結構詳しく内容が書かれていて、徒歩組が乗馬組を躱したり引き廻して遊ぶということでしょう。
安土城天主の様子
信長は天正四年に安土に移っていますが、天主が完成したのは天正七年。
ちなみに天主(閣)というのは一般的に「城」ときいた時にイメージできる建造物のこと。
『信長公記』には、この天主の様子が詳細に記載されています。
このような調子で1階から7階までの様子が書かれていますが、本当に当時としては豪華だったのだなと感じさせるものがあります。
この天主を含め、総じて安土城の特徴は軍事的機能よりも政治的機能を重視したもののようで、中には天皇を迎えるための間が準備されていたとか。
信長は安土城に最高レベルの建造物を築くことによって自らの威信を示し、天下人・織田信長を日本に知らしめる効果を狙ったように感じます。
これも、無駄な戦を避け、諸大名を従わせるための策のひとつだとも言えるでしょう。
今回はここまで、次回は巻十三〜巻十五巻の内容から記事にいたします😊
『信長公記』は巻十五を最終巻としているので、このシリーズは次で最終回となります。
最後に、この頃の信長の勢力図を見てみましょう。
秀吉や光秀の活躍で西の方に勢力が拡大されてきましたね。
この後さらに勢力を拡大していき、天正十年に織田家は最盛期を迎えることになります。
お読みいただきありがとうございました🌸
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