切り花が苦手だった。
切り花をお迎えするために、多少の罪悪感といつも戦っていた。
美しい姿をずっと見ていたくて、枯れるまで、いや枯れていても花瓶に刺したまま部屋に置いておくのが常だった。
『切り花は自身の枯れた姿を見られたくないだろうか。』
『株元に残って、花としての生を全うしたかっただろうか。』
『この子はうちに来て良かったと思ってくれているだろうか。』
買ったばかりの時はSNSに載せたり、香りを嗅いでみたりとウキウキした気持ちで接しているのに、日が経つにつれて罪悪感が高揚感を上回ってくる。
切り花が苦手だった。
そんな私がベランダ菜園に手をつけたので、訪花昆虫たちを呼び込むためというのを口実に、ガーベラとパンジーとカレンデュラの株をお迎えした。
この子達をお世話するうちに知ったのですが、基本的に萎れてきた花は茎から切ってしまいます。
当然ながら、花は枯れた後に種をつけます。この種を作るエネルギーで株自体が痛んでしまうのだ。
花たちは我々女性と同じ役割をこなしているのですね。
もちろん普通に考えれば当たり前なのですが、切り花はその子だけ独自に意識を持っているイメージで接していた私にとって、ちょっとした発見でした。
本当は母なる大きな意識の中から役目を立派に果たした残照だったのです。
切り花は、切り花になることで立派に仕事を果たしているのです。
私たちにできるのは、この凛とした残照を、心ゆくまで楽しむことではないでしょうか。
切り花が苦手でした。彼女らの生き様を知るまでは。
今日も私の部屋には、残照を楽しむ祭壇が活きています。
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