躁鬱研究所『双極性障害と診断された日』
これから、神田橋語録を読み解いていく連載を始めます。
ここ最近読んだ【躁鬱大学:坂口恭平著】に影響されているし、はっきりいうとパクリです。
ただ坂口恭平さんとは立場やスキルが違うので、これを書くことは双極性障害に悩む人の役に立つと思います。
あ、そうだ。坂口恭平さんの言葉を借りて、私たち双極性障害の人のことを”躁鬱人”と呼ぶことにします。
治らない病気なら、それは病気じゃなくてただの性質なのだから。
ほらね。神田橋先生もそう言っているでしょ?
躁鬱人という言葉はなんの違和感もなく私の中に染み込んだので、この表現が私たちを表すために正しい表現なのだと思う。このなんとなく良いかもってのが大事らしい。
なので、私たちはいかにその直感に従って生きていくかが課題になるわけですね。会社に勤めていると、なんとなく嫌だからやりたくありません。なんてのは通用しないので、いかに通用させられるように動くかを考えなけれなならない。
だってね、この躁鬱人の特徴をその他の人たちに聞かせると、誰だってそんな気持ちを抱えながら生きてるんだよ!なめんな!なんて言われてしまいそうじゃないですか?感覚のまま生きることが私には必要なんです!と言われても、ただの我儘に聞こえてしまいますね。
だから私は会社勤めを諦めたんです。それで、全く仕事がなくなったことをいろんな友達にいうと、1人の子が仕事を手伝って欲しい!と言ってきたんです。
私は今月からこの仕事を始めましたが、完全に自分のタイミングでできる上に2時間という制限もあるので、働きすぎず良いリズムで仕事ができています。
そんなのたまたまでしょ?と言われるかもしれませんが、こうやってできないことはできないと認めることが自分の生き方に新しい風を吹き込むきっかけになると思うのです。
ここで、私が双極性障害と診断が下った時のことに時間を戻してみます。
私は病院に行く数日前に、夫とかなり大きな喧嘩をしました。今思うとひどい躁状態で、車の運転中だったのですが、まともにブレーキも踏めず事故一歩手前でした。
幸い車から飛び出してわけも分からず1人になることを選択したので、夫と娘を事故に巻き込まずに済みました。
昔の私なら確実に前か後ろの車に突っ込んでいたことでしょう。
その頃の私はというと、3ヶ月前に始めた派遣の事務の仕事をしていました。
派遣の事務といっても、就業先はベンチャー企業で、思いついたことはなんでも試してみてくれと採用担当の人に言われていました。
私はその言葉を鵜呑みにして、アイディアのシャワーを直属の上司(Aさん)に話しては撃沈することを繰り返していました。
Aさんは、その当時の同僚の言葉を借りるなら『事なかれ主義の隠蔽体質』だったのです。
イノベーションや改革とは無縁で、コツコツと作業をこなす縁の下の力持ちの彼と、アイディアやとにかく行動主義の私とでは相性が悪すぎました。
ある日の朝礼で、同じ部署の違う作業管轄している人(Bさん)から私の意見とマッチする意見が出たので私は賛成しました。
「良いですね!やりましょう!!」くらいの勢いだったと思います。
ですがAさんはダンマリで、良くない雰囲気を察知した私はまた後ほど協議して返事する旨を伝えて朝礼は終わりました。
そしてそこからAさんの怒涛の詰めが始まりました。内容は【上長を通さず仕事の話をし、あまつさえその仕事を勝手に請負うなんて!】というものでした。
もちろん、私は派遣社員なので請負うことに関しては当然の叱責でした。
でも共謀なんてしていません。私も初めてさっき聞きました!といっても全く聞き入れてもらえません。
どんな仕事もまずはAさんにお伺いを立てて、手順を含む作業内容を協議してから朝礼で話すべきだ、と譲らない態度でした。もちろん私は平謝り。
しかし、共謀してないことだけは主張していました。
この言葉の通り、私は平謝りするだけでなく「まだ言いたいことはありませんか?」などAさんの不満を深掘りし、この一件でわだかまりは残さないぞと丁寧に対応しました。
しかしそれは全く功を奏さず、Aさんは目に見えるほど鬱っぽい雰囲気になっていきました。
『これは私のせいだ』と自覚があった私もどんどんうつ状態へ引っ張られていき、プライベートでも落ち込んで泣いたり、うまく体が動かせず寝てばかりの日々が続きました。
同期にこのことを話すと、
「AさんはBさんに良く仕事で詰められていて、AさんにとってBさんは脅威以外の何者でもないんだよ。だから今回はトラウマを踏み抜いただけで、朔楽ちゃんは悪くないよ」
と教えてくれましたが、その“トラウマを踏み抜いた”のが自分であることには変わりありません。
趣味の話をしてくれるくらいには仲の良かったAさんは、鬱々としていて他部署の人から「またどんよりしてる!」と言われてしまうほど落ち込んでしまいました。
私はというと、躁状態の時はそんな人こそ明るく笑わせられるくらいのコミュニケーションスキルがあるのですが、うつ状態の時はそうはいきません。
そしてある日、Aさんが人事に「朔楽さんが今月末で辞めたがっている」と伝えるという凶行に及んだのでした。
ここで夫との喧嘩に戻ります。車から飛び出した私は死にたくて死にたくて仕方なくて、どうやって死のうか、死んだら娘はどうなるんだろうかとぐるぐる考えていました。
この時に感情を逃すために書いたノートから一部抜粋します。
しかし、結婚してから度々「死は選ばないで」と懇々と聞かされている私は、この感情から解放される手段に“死”は選べませんでした。
そこで私は切符を買って隣の駅の漫画喫茶に向かいました。その時点で2時間以上歩き回りながら泣いていました。
なんせ無計画に降りてしまったものだから、家まではかなり歩かねばならなかったのです。
鬱状態に漫画喫茶は効きました。完全個室の中でまずカツカレーとポテトを食べました。変ですね。全くお腹空いてなかったのに、メニューを覗いて迷わず食べることを決めました。
カレーとポテトを食べ終えると少し心が落ち着いていたので、再び日記に向き合うことにしました。
夫の名誉のために言いますが、今は全く嫌いだと思っていませんし、夫婦仲は良好な方だと思います。
躁状態の時の自分の言葉を借りるなら、「この世にこんなに仲良しでラブラブな夫婦っているのかな?!私たちって世界一幸せな夫婦かも!!!」と思っています。
どうですか?これが双極性障害です。恐ろしいでしょ?
でも、私は今までうつ状態の自分に夫を嫌いだということを許していませんでした。というか、嫌いという言葉自体を許していなかったと思います。
嫌い、と発した途端すごく体が楽になった気がしました。うつ状態の私が許された瞬間です。その時に初めて『この状態をなんとかしないと夫が壊れてしまう』と思いました。
精神科にかかろうと決意した瞬間です。
私は今まで、精神科医というのを全く信用していませんでした。薬は飲みたくなかったからあんまり真面目に飲まなかったし、自分の症状だって本当に困った一部しか話していませんでしたし、何より飲んだ薬に対して「なんとなく効いている気がします」としか言っていませんでした。
でもそれを一切合切やめて、薬を飲んでも変化がないのも、自分の置かれた環境についてもとにかく全てを正直に話そうと決めました。
そこから事態は非常にスムーズに進みました。派遣の仕事はそのまま辞めて、病院では「典型的な双極性障害Ⅰ型だ」と診断されました。
その病院では生まれてから今までのことを1時間近くかけて聞いてくれて、「万能感があってなんでもできそうな気がする」ことや「訛りのように体が重くなって動けなくなる」こと、他にもたくさんの症状について言い当てられました。
初めて私は「この人は分かってくれている!」と感じた瞬間です。
前にもどこかで書きましたが、私はこれまでに7カ所ほどの精神科にかかっています。
そのどれも鬱状態が明けたらすぐに薬を飲むのをやめて、通院自体を辞めていました。
しかし、その日に紹介された薬の種類の中にひとつ前の病院で処方された薬がありました。
私はひとつ前の病院からすでに双極性障害だと診断されていた可能性があったのです。
私はひどく驚きました。私のことなんて何にも分かってないと思っていたお医者さんは、私の話の断片だけで双極性障害の可能性があることを視野に入れていたのです。
この一件以来、私は自分に関することであやふやな表現をしないようにしました。例えば、体調大丈夫?と聞かれたら、「今は心が騒ついているけど体は元気だよ。でもすぐ疲れちゃいそうだから落ち着いた場所に移動したい」など、明確に今の状態と希望を話し増す。
大抵の人は人に親切にしたいと思っているし、周りの人はいい人ばかりだから私の希望を汲んでくれます。
この時に抵抗を示す人や馬鹿にする人とは距離を置きましょう。辛くなります。
こうやって少しずつ環境をカスタマイズして今があります。といってもまだ1ヶ月足らずの出来事で、お金の問題も解決していません。私にはまだもう少し仕事が必要だと思っています。
でも私に必要なものが必ずやってくると信じています。自分の波に流されるように生きていけば、そのままで生きていける足がかりになる出来事が起こるはずです。
さて、今日はこの辺りにしておきます。また次の記事で神田橋語録を読み進めていきます。
何かコメントがあればぜひお願いします。そのコメントでまた記事が生まれるかもしれませんから。
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