見出し画像

山田さゆりさんの魂のひかり

大人になるまで

夫婦喧嘩の絶えない家で育った。お見合い結婚で農家から嫁いだ母、町で暮らす職人一家で育った父はそもそもの価値観が違っていたのだ。

普段の父は、私のことを「あゆりー」と甘い声で呼び抱き上げ、チクチクお髭の頬で、頬ずりしてくれる優しい人だけれど、酔うと人が変わった。

夫婦喧嘩の起きる日は

夕方あたりから、我が家は曇り空になって

ちょうど夕飯時にお酒の回った父親の雷が落ちる。

ちゃぶ台がひっくり返る。

ときどき、母も怒りの応酬で茶碗を投げつける。

「でていけ!」となり、母がやおら風呂敷を広げて荷造りし、私たち3人の子どもを連れて、家を出ていく。

母が私の手をしっかり握ってくれるから、私に不安はない。

けれど、母を見上げると

口をしっかりと閉じ、下の方の一点を見つめるその顔は、

決して幸せそうには見えなかった。

車の往来の激しい夜の国道を、ひたすら歩いて、父親が酔いつぶれて寝るのを待って帰宅した。

翌朝の父は、機嫌が良い、いつもの父に戻っている。酔っているときの記憶は全くなくなっているので、

私たちも何もなかったことにして一日を始め、

そして、一日の終わりにはみんなで笑いながら食卓を囲む。

そんな家でずっと育った。


信じてもらえないかもしれないけれど、おとなしい女の子だった。校庭のサクラの花びらをひろい集めて、先生にプレゼントするような子供だった。

小学校5年生になるころ、私はいつでも笑っている子供になっていた。

授業中に先生に指されると

「はい」と返事をしてから、ニコッと笑い、答えを返す。

何故か忘れない記憶一つがある。

ある時、先生に言われたのだ。

「お前は、何がおかしくて笑ってるんだ?」

父親の「女の子はいつも笑っていなさい」という言いつけを守っていたのか、

いざこざの多い家だったから、いざこざを回避するために笑うという私なりの処世術だったのか

おかしいことがなくても、いつも笑っている子供になっていた。


高校生の頃は、スカートを長くして、カバンをぺったんこにして、タバコを吸っていた。私の高校は、そんな人しかいなかったな。

性格も今に近い、外向きになっていた。

先生に給料が一番高いところに勤めたい、と言って紹介してもらった会社に勤めた。

「こんな家、出てってやる」とアパートを借りて一人暮らしをしたものの、一日何をして良いかわからず、3ケ月後に泣きながら実家に帰った。会社も半年で辞めてしまった。

人とかかわる仕事はイヤ、ワンちゃんの美容師になる、と決めた。

専門学校に入るお金を稼ぐために、私は一番時給の高い夜のクラブでバイトをすることにした。

男の人の横に座って水割りを作るだけで一晩、一万円もらえた。

何よりの発見は

お酒を飲んでも暴れない人がいること、

むしろ暴れる人はごく少数だったことだった。

半年で学費をため、専門学校で学び、晴れて犬を相手に仕事をすることになった。

ご夫婦で営む、ペット美容室で見習いとして働いた。

仕事相手は、犬だけど、私を雇ったご夫婦の仲がとにかく悪い。

夫婦喧嘩をしている中で、犬の毛をカットしたり、ご主人が奥さんの悪口を言う時の聞き役になったり、その逆もあったりで、

人間関係のわずらわしさが嫌で犬の美容師になったのに、

結局は人間関係に疲れてしまう。

二十歳の時に父親が他界した。そんなこともあって、私は決めた。

これではいかんのだ、人の中に入ろう。

腹をくくって、次は客商売の仕事に就いた。


20代


名古屋の松坂屋、と言えば、

神戸の松坂牛、のような格がある。

江戸時代の呉服店から発し、徳川家の呉服御用達になり現在の百貨店に至る。

私が働いていた当時も、地元の人は贈り物が、他店よりも松坂屋の包装紙でくるまれていることを好んだし、松坂屋で外商の客になることは富裕層であることの象徴だった。

私は松坂屋の販売員になった。最初はフランスの高級ブランドの肌着を売った。名古屋では嫁入り道具の一つにタンスがある。そのタンスに下着やネグリジェ、パジャマをいっぱい詰めて、紅白の幕をかけて嫁ぎ先にトラックで運ぶ風習があった。ブラジャーやパンツだけで2、30万買っていく母と娘。

世の中にはそんなお金の使い方をするお金持ちがいるのだ、と知った。


私は、このデパートでありとあらゆることを教わった。

お金持ちのお金の使い方。

手土産という気遣い。

仲の良い夫婦とは、どんなものなのか。

お客様に気に入ってもらえると、お食事に呼ばれた。温かい、豊かな家庭では、どんなものが食べられているのかを初めて知った。

バナナは、皮をむいて、そのままかじりつくものではないのだ。

皮をむいて、包丁で斜めに切って、ガラスの器に入れて、牛乳をかけて食べるものなのだ。豊かな暮らしをする人たちは、そんなひと手間をかけるものなのだ。


30代

私は、笑顔という商売道具を使い、たくさんの服を売り、34歳でイタリアブランドの婦人服店の店長を任された。

いつしか優秀販売員にもなった。

一度来店して、服を買ってくれたお客様の名前は全て覚えている。

それって当然、というか自然というか、普通。

どのお客様が、どの服を買ったかも覚えているので、

「去年買った、白のパンツと合わせてもお似合いですよ」なんて言うとびっくりされた。お客さん自身は、そんな服がクローゼットにあることを忘れているからだ。

私はお客さんの本音と建前もわかっていた。

迷っているように見せて、店員からの最後の一押しを待っているお客。

二つのうちどちらが良いか迷っているように見せて、どちらも買いたいと思っているお客。

試着したら、似合いすぎて、逆に買えなくなってしまうお客さんもいる。魅力的な女性になることに慣れていないから怖くなってしまうのだ。

私は、お客さんが言ってほしい一言を言うだけだ。

「こっちの方が合ってるわ」とか

「両方とも、お似合いね」

迷う女性は建て前上、自分で決められないから、私が決めてあげたことにする。

そうすると、ちょっとホッとして

「じゃぁ、これ買います」と私に手渡すのだ。


結婚はしないと決めていた。

夫婦喧嘩の絶えない家で育ったから、結婚にあこがれもなく、したいとも思わなかった。

ペットの美容師の専門学校の学費を稼ぐためにクラブで働いていた18歳の私に

「掃き溜めの鶴だね」と言ってくれた男の人がいた。

一回りも上のその人は設計士で、上品にお酒を飲んだ。頭も稼ぎも良く、私は夢中になって恋をした。

最高級のレストランでワインを飲みながらディナーを楽しんだり、

ドライブがてら一緒に建築予定の何もない原っぱに測量に行ったりした。

ただ、楽しい。

この人の前でだけ、私は素の自分になって笑える。

わがままも言えて、女になれる。

このままが、ちょうど良い。


なんてことを考えながら、

休憩中、外のベランダで細長いラークの煙をぷかーとふかした。


この頃の私は、店長として売り上げを伸ばす一方、

自分の命、魂はどこから来て、どこへ行くのかを探求し始めていた。

なぜ自分がこの世に生まれてきたのか?


ほんの数年前、お腹に赤ちゃんが来てくれた。

一人で産もうと思った。

けれど、赤ちゃんはこの世に生まれないことを選んだ。

育たなかったのだ。

病院に行って処置をしてもらったことも関係しているのかもしれない。


スピリチュアル系の本を沢山読むようになり、いろいろなセミナーにも参加した。ライトボディの覚醒や呼吸法、瞑想法を勉強した。

中古のマンションを買い、改めて、自分が自分の人生を一人で生きる、ということについて真剣に考え、向き合い始めたからなのかもしれない。

呼吸法のセミナーで、体から光の粒子を吐き出すイメージで呼吸をした。

頭がボーっとしてきた。

ふと、誰かが私の背中に手を当てた。

温かい手だな、と思ったとたん、涙が溢れた。

涙はとめどなく溢れ続け、私はいつまでも、いつまでも泣き続けた。

私は、自分の魂を感じた。

魂はずっと私そのものだったんだけれど、やっと自分の魂を感じて一つになれたような感覚があった。


バリバリの店長という職を捨てて、単身スリランカに渡り、3ケ月間アーユルヴェーダとヨーガの暮らしを勉強した。

帰国後はオイルマッサージのサロンを開いた。


50代

仕事を終えて、自宅のマンションのドアを開ける前に、

私は一つ息を吸って吐く。

笑顔で、行くぞ。

ガチャッとドアを開け、明るい声で言う。

「みつえさーん、ただいまー!」


絶対に、笑っている、と決めたから私は笑う。


例え、母が自分の汚物で汚れたまま、トイレの前で倒れていても、

冷蔵庫の扉が開いていて、床には割れた卵や、牛乳の中身が広がっていても、

その横で、タッパーを抱えたまま母親が倒れていても


「あらあら、みつえさん、大変だったねー、大丈夫?」

と笑いながら声をかけて、母の体をきれいにして、部屋を整える。


例え玄関のドアを開け、目に飛び込んできたものが、どんなに悲惨であろうと、私は笑顔でいることを決めたのだ。


母は父が他界してからもずっと一人で暮らしていたが少しずつ弱ってきた。私は、そんな母をずっと見てきた。

その頃の私は松坂屋の販売員に戻っていた。オイルマッサージのサロンでは疲れている人を癒した。私がお客さんの疲れを吸い取ったような感覚があり、数年で身の心もボロボロになってしまったのだ。

長年お付き合いした年上の彼は、寿命が来て先に天国へ旅立っていた。

仕事が終わると500ミリのアサヒスーパードライを買って、

実家に立ち寄り、

夕飯の準備をして一緒にビールとご飯を食べて、母がお風呂に入ってお布団に入るまで、見ていた。最後に母の眼に目薬をさして電気を暗くしてから自宅に戻った。兄家族が実家に戻っても、それを続けた。

爪を切ったり、細かくお金の管理をすることが難しくなり、心細さを覚えたのだろう。母は私にすがるようになった。

兄とだいぶもめたが、自分が引き取り、最後まで看取る、と決めた。

酒乱の父と暮らしていた母は苦労が多かった。

「もう、出てけ!っていう人はいないからね」

「一人の女になって、独身同士、一緒に暮らそう」

そう言って、母を自宅のマンションに迎え入れた。

私は、お母さん、ではなくて、みつえさん、と呼ぶことにした。

私を産んだこの女性は、大変な人生を歩んだけれど、最後には「最高の人生だった」と思って死んでほしい。

みつえさんには、これからは死ぬまでずっと笑っていてもらいたい。


そのためには私が笑顔でいなくてはならない。

怒らない、笑う。

絶対、どんなことがあっても、笑う。

私はそう決めた。


トイレやお風呂、廊下に手すりを付けてバリアフリーにした。

デイサービスを利用しながら、みつえさんとの二人暮らしが始まった。

500ミリのアサヒスーパードライは自宅でみつえさんと向き合って飲んだ。

みつえさんは、やさしい声で

「一本にしときゃーね」と声をかけてくれる。


最初の頃は、身の回りのことをなんとか処理できていたが

徐々に体が衰えて、足腰も立たなくなっていった。

帰宅後の家の中の物が散乱していたり、母親が倒れていたりするようになった。

私も若くない。仕事が終わると、どっと疲れる。

帰宅するときに、みつえさんと家の中のことを考えると、どうしても心配して、ため息をつきたくなる。

だから私は何も考えずにすむように、斎藤一人さんの「天国言葉」を駅からマンションまでの間、ずっと唱えることにした。

愛しています、ついてる、うれしい、楽しい、感謝してます、しあわせ、ありがとう、ゆるします。

愛しています、ついてる、うれしい、楽しい、感謝してます、しあわせ、ありがとう、ゆるします。愛しています、ついてる、うれしい、楽しい、感謝してます、しあわせ、ありがとう、ゆるします。愛しています、ついてる、うれしい、楽しい、感謝してます、しあわせ、ありがとう、ゆるします。愛しています、ついてる、うれしい、楽しい、感謝してます・・・・・・

玄関に着いたら、深呼吸をして、笑顔を作って、ドアを開ける。

決めたから、笑顔で、機嫌よくやる。


ある晩、湯船につかった後のみつえさんを、どうしても浴槽から立ち上がらせることができなくなった。

着ている服がびしょびしょになって、裸のみつえさんを抱きかかえるように持ち上げるのに、浴槽から出れない。

そんなときも、歯を食いしばって、笑顔で言った。

「みつえさん、お大師様と薬師如来に来てもらおう」

「お大師様、薬師如来様!」

「あ、来てくれた!玄関まで来たよ。もうすぐ来てくれるよ。あ、お風呂場まで来てくれた!」

「みつえさん、いくよ、せぇのっ!!」

この掛け声でみつえさんはやっと立ち上がることができた。

そんなことも、あったな。


一緒に暮らし始めて3年目には、寝たきりで食事も自分では摂れなくなっていた。

訪問医の先生にはいつ逝ってもおかしくないと言われ、逝く時に人はどうなるのかを詳しく教えてくれた。

ある晩、いつものように

「みつえさん、おやすみ、また明日ね」と声をかけて寝ようとしたら、様子がいつもと違っていた。

足の指を見てみると、青く冷たくなっていた。

訪問医に電話をした。

私はそれからずっとみつえさんを抱きしめた。

抱きしめながら、私はずっと話しかけた。

「みつえさん、私を産んでくれて、ありがとう」

「私を育ててくれて、ありがとう」

「お姉ちゃんを事故で死なせちゃったから、小さい頃、私をずっとおぶってくれたでしょう。ありがとう」

「お父さんとは、大変だったね。でも、みつえさんが選んだ人生はすごいよ」

「もういいよ。みつえさんがすることは、さゆりちゃんが全部やるから。何一つ、心配しないでね。」

「もう少ししたら光が見えるからね。そしたらそこに向かっていきなさいね」


最後、みつえさんは肩を上げて大きく息を吸って、死んだ。


私は、みつえさんは、次に生まれるときに「おぎゃー」と泣くために息を吸ったのかな、と思った。


60代


全部、終わった。


私の人生でやることは全部終わった。


父を看取り、マンションを買い、そこで母と暮らし、母を看取った。

私は、私の人生は山田家の終わりを見届けるためにあったのかもしれない。

墓仕舞いをして、自分を含め、無縁仏となり永代供養してもらう。

あとは、自分で自分の介護をするだけだ。


さて、残った時間、何しよう?


ふと、思うのは


ただ、笑いたい、ということ。


60年、誰かのために笑ってきた。

家族の平和のため、

お客さんのため、

母のため。

笑わなきゃ、と思って笑ってきた。


だから、わたしは、ただ笑いたい。


小さな赤ちゃんに戻って、


ただ笑いたい。


私がしたい笑顔は、薬師如来や観音菩薩の慈愛に満ちた笑顔ではなくて

お地蔵様のような無垢な笑顔。


誰かに合わせて、やりたくないことをやるのも、やめたい。

嫌だ、という。


ちょっとしばらくは、

自分の気持ちを大切に、わがままに生きたい。


満足したら、いつでも強い「さゆりさん」にもどるから。


最後に

私の物語を読む人は、私よりも年が若いでしょう。

伝えたいことは、物事は始まりと終わりの連続ってこと。

嫌なこと、嬉しいこと、幸せなこと、辛いこと、全てに必ず終わりがくるよ。


一つ一つの物事が、始まって終わるまでの間は

明るく元気に楽しく過ごしたいなって、私は思っている。

力を張らずに、自然な笑顔でね。





以上、山田さゆりさんの魂のひかりの物語でした。

さゆりさん、ありがとうございました。


さゆりさんは毎週月曜日の21時にクラブハウスにて「スナックさゆり」を開いています。良かったら、さゆりママに会いに来てくださいね。

スナックさゆりについてはさゆりさんのTwitterをフォローください。


あとがき

ある方(女性です)に「抱きしめたくなる」と言われたことがあります。

シングルマザーで、仕事も家事も子育ても一人でしていて、それだけでもいっぱいいっぱいなのに、私ときたら、魂のひかりの蒐集もしている。

ときとして寝不足になる。

子育てや仕事をするなかで問題や葛藤もある。

一人で我が子を守って、一人で社会に対峙している感覚がある。

「抱きしめたくなる」って言ってもらったときにすごく力が抜けて、安心して、

その感覚がひさしぶりだったから泣きそうになりました。


さゆりさんは、たくさんの人を抱きしめてきたのかもしれない。

強い心の持ち主だから

自らの手で手に入れたものも多かったでしょう。

同時に勢いが良すぎて、吹き飛ばしたもの、はねのけたものも多かったのかもしれない。

さゆりさんの物語を書きながら、

こんな私ですが

さゆりさんを抱きしめたくなりました。


こうやって、みんなで愛を送りあって生きていくのも良いですよね。


全てに愛念を込めて。


山田さゆりさんの魂のひかりが、あなたの心を照らしますように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?