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もしPart3があっても、私が手に取ることはないだろう。

※この記事には「The Last of us Part2」のネタバレを含みます

肉を抉り、脂を侵す刃の音、血が滲む水辺、吐瀉物か、血液か、何かしらの液体が古びた床に叩きつけられる音。耳鳴りを誘う銃声、この情報の濁流を、地獄と呼ばず何と呼ぶ。

ゲームに対して求めるものは人それぞれあるだろう。私の場合は「人生の糧」だ。
「やってよかった」と思える体験を、ゲームに求めている。

苦痛に顔を歪めながら首を絞め落とすエリ―を見たくはなかったし、考える暇も与えない暴力の連鎖にどっぷり浸かってまでゲームをしたくない。
私はそこそこシューターに触れてきたので、エリ―は簡単に敵の頭を撃ち抜いてしまう。ゲームが上手いことを呪うことになるとは、夢にも思わなかった。

笑ってしまう程、登場人物が死ぬ。
この連鎖の中に、平穏はなく、今話している仲間も、次のカットシーンでは頭を撃たれて死ぬかもしれない。
散々撃ち抜いて来た頭の一つ一つに、物語があったことを思わせる。
物語を進めるたびに、また悪いことが起きるのではないかという恐怖感は、物語を見届けるまで付き纏って離れなかった。
一瞬でも目を話したら、吊るされて死んでいるのではないか、次のカットシーンでディーナが撃たれるのではないか、もしやエリ―自身にも...と、悪い想像が溢れて止まらない。この影みたいなものが、ずっと、クリアしても尚、心を覆っている。
唯一安心できるのは過去だけだ。

皆そうだろうが、ジョエルが死んだ時点で、私はコントローラーを置いた。
エリ―と同じように、ジョエルの苦痛に耐える声が耳を離れず、床に押さえつけられながら見た彼の最後は、今でも瞼の裏に浮かぶ。

再びコントローラを持ったのは、半ば義務感のような、エリ―の物語を見届けなくてはならないという、前作の物語で感じた父性のようなものが湧いたからだ。
それはとても苦しく、このゲーム体験が私に何かプラスになるとか、そういうものではなかった。前作の旅を経験し、2のプロローグをプレイした上で、この物語を見届けないという選択肢はないだろう。

プレイを続けていくと、ジェシーの死を境に、プレイアブルはジェシーを殺す数日前のアビーに切り替わる。
ジョエルを殺したという憎しみが、ドス黒く暗い感情となって静かに湧いてくる感覚を、アビーを操作しながら抑えていく。
しかしアビーもまた、暴力の渦に巻き込まれている。
「もうやめてくれ」「もういいだろう」「もうたくさんだ」、
何度このような言葉を呟いたかわからない。
アビーにも仲間がいて、感情がある。それをプレイヤーに感じさせる。これがこのゲームの憎いところだ。悪趣味とも言える。
暗い感情が、徐々に複雑なものへと変わっていく。

そしてもう一度辿り着くジェシーの死。
同じシーンを二度見ることになるわけだが、一度目とは全く違う心境であることは言うまでもない。
その時に思ったのは、「もうやめてくれ」。これに尽きる。
明確な殺意を持った憎しみの渦は、私の心を徐々に蝕んでいった。
アビーのプレイアブルでエリ―を攻撃するシーンでは、トリガーにかける指が震え、エリ―を攻撃する以外で、この物語を進めることを探った。無論許されはしない。
暴力から逃れることができない。
このゲームは悲しき悪魔だ。
暴力でしか解決できないエリ―の形相は、まさに病気だった。

しかし、このゲームで弱々しくも確かな希望としてあるのが、最終局面で、エリ―がアビーを殺さない選択をすることだ。

ジョエルと、生前に話した「でも、許したいとは思ってる。」
このセリフだけが唯一の希望となり、エリ―に「殺さない」という選択肢を与えた。
だが、この選択をするまでに、多くの大きすぎる犠牲があったことから、目を背けられず、心に覚える痼は、未だ残り続ける。

もしPart3があっても、私が手に取ることはないだろう。暖かい過去の記憶さえ、冷たい雨と黒い血に、流されてしまったからだ。


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