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エンタメの力:エデュテイメントの可能性と課題

※注:この記事は2021年12月18日に別のSNSに書いたものです。投稿日程は2023年となっておりますが、約2年前の話としてお読みください。

最近はずっと、SNSし、ゲームして、漫画やライトノベル読んで、アマプラ見ている。

どれも自分にとってしんどい時の気晴らしでもあり、時間潰しであり、そして救いでもある。

作家であり、また『テロマエ・ロマエ』なども描いた漫画家でもあるヤマザキマリ氏が昨年ぐらいに、コロナ前は世界中を飛び回っていたがそれができなくなって、ひたすらに映画を見ていると語っていた。そうして、自分が移動することで得ていた刺激を、そこから得ているのだ、と。

それを聞いて、生きる力が強い人はやっぱり違うなあ、と羨ましく思った。自分なんてフィールドワークや海外学会行けなくなって、もうおしまいだ〜、で文字通りおしまい。有り余るエネルギーを異なるベクトルに向けよう、そこから人生や社会を学ぼう、なんて気力は起きなかった。それどころか恐ろしいほどに感じたストレスで、消耗し切ってしまって、とにかく日々をやり過ごし、生きるので精一杯になった。

ほんとうにしんどい時は本も読めない。内容が頭に入ってこないというのもあるし、そもそも開くのが億劫。興味が湧かなくなる。長時間拘束される映画もダメ。集中力が続かない。「寝とけ!」と言われそうだが、充分寝た後だったりする。「なにもしない」時間が必要なのだけれど、本当に何もしないとそれはそれで手持ち無沙汰で、余計なことも考えてしまって、さらなるつらみの沼に入り込んでいく。

そういう自分のしんどさをなんとかやり過ごすために、手に取れるものが非常にライトな「物語」のコンテンツになる。それがゲームであり漫画でありアニメとなる。そこに没頭しているあいだはいろいろ忘れることができる。また穏やかな気持ちにもなれる。

「エンタメの力」というのは、確かにあって、それはひとつには勉強を楽しくする、という効果があると思う。エデュテイメント、シリアスゲーム、といった言葉がある。どちらも学びとエンタテイメントを融合させる取り組みを説明するものだ。エデュテイメントはエデュケーション(教育)とエンタテイメントの合成語で、主には学習映像(〜を学ぶ動画、みたいな)を指すことが多いようだ。またシリアスゲームはそのまんまで、真剣なゲーム、という感じで、ゲームを使った学習である。デジタルゲームだけでなく、ボードゲームなどもある(※1)。

※1 なおボードゲームはマルチ商法への勧誘にも使われているので、その点は注意した方がいいです。有名なところでは「金持ち父さん・貧乏父さんゲーム」というのがあるらしい。起業系ボードゲームは信頼できるところでしかやらない方がいいですね。あと最近はSDGsゲームとかもよく見かけますが、セミナー料金がバカ高いのもあって、ちょっと眉唾ですね。(ゲーム自体に問題はないのですが、よく悪用される、ということです)

ただ、そうした取り組みや作品は、どうしても「教材」としての要素ありきで、エンタメ要素はとってつけたものになりがちだ。自分としてはそれが許せなかったりする。「楽しく学ぶ」ことは重要で、それは自分も大学で実践して行っている。

しかし多くの場合、「学ぶ」に重点が置かれるためか、「楽しく」については真剣に考えてないでしょそれ、という事例が散見、いや、けっこう見られる。それ、自分でやってみて「めっっっっちゃ楽しい!」と思って作った?と問い詰めたくなる。よくあるのは、安易にカルタやすごろくにしちゃうのとか。

これは、エンタメの中に作為的に別の要素を盛り込ませることの難しさを表しているとも思う。学習という異質な素材が紛れ込むことで、エンタメとしての純度を落としてしまうのだ。ヤマザキマリ氏が映画を見まくって、何をどうやって学んでいるのかを考えてみたらよい。それはエンタメの「本気」から読み取っているのであって、教育要素があるから学んでいるわけではないだろう。

じゃあ、かる〜いコンテンツをだらだら消費している自分はなんなのか。エンタメから何か学んでいるかと言われると、そんなに学んではいない気がする。というか学ぼうと思ってないし、むしろ学びたくないから選んでいる。正直、研究と学生院生指導のために山ほど論文と学術書読んで、これ以上あたま使うものを読みたくない…という気分になっている時に選ぶのがエンタメなので。

「そんなもの(二次元)はアンタを助けてくれたりしないって」

沙嶋カタナ 著『君がどこでも恋は恋』第1巻

これは、『君がどこでも恋は恋』(沙嶋カタナ)1巻で、ロボットアニメの「推し」が死んだショックを押し殺しながら、仕事に打ち込んで倒れた主人公のみつきに対し、看病に来た母親が言うセリフだ。そしてそれに対し、みつきは次のように語る。

「今のわたしを見てよ!痩せたね キレイになったねって言ってもらえる。私もそう思う。仕事もがんばってる。前は正直、惰性だった。全部、全部、全部、これのおかげなの!!」

沙嶋カタナ 著『君がどこでも恋は恋』第1巻

「たしかに"これ"は寝込んでも看病してくれない。おかゆも作ってくれないし、ポカリも買ってきてくれない。骨折しても支えて歩いてくれない。どれだけ好きになっても生活費くれないし、家賃入れてくれないよ!!でも、日常に元気をくれる!!そうして変わった今の私のほうが、私は好き!!」

同上

このシーンは、このマンガの中で異彩を放っている。自己表現が苦手で母親からも抑圧されていたみつきが、それを開放しているというだけではない。表現自体、まるで違う物語の1シーンのようになっているのだ。

それはみつきが熱に浮かされているためでもある(このシーンはみつきがまた倒れ、それに対し母親が「まだ熱があるようね」と言って終わる)が、作者はここで、みつきが二次元と自分が生きる世界ーーそしてそれはマンガ世界でもあるという二重のメタファーもあるのだがーーを架橋している存在であり、まさに多次元で生きていることを表現したかったのではないだろうか。

もちろん、みつきは普段、二次元と三次元の区別がついていないわけではない(その後もオタク友達と冷静にそのときの状況を振り返る)。だからこのシーンは、彼女の「推し活」の本気度が表されていた表現、と言えるだろう。

それでは、みつきはエンタメから何かを「学んだ」と言えるだろうか。彼女はただ、二次元の登場人物を好きになっただけである(だけ、と言うには熱烈すぎるが)。何か具体的な教訓を学んだとは、なかなか言い難い。しかしそこから有り余る「恩恵」を得たことを、上記のように彼女自身が口にしている。

彼女が変わったのは彼女自身の努力だ。元気をもらったのは彼女が勝手にそう思っているだけだ。エンタメ作品はそんなことを意図してない。しかしそれでも作品は彼女にとって唯一無二の輝きを放ったものだった。

アニメだけでない。ゲームにだって救われることがある(もちろんマンガでも)。そうした「ライト・コンテンツ」がもつ力を実感しているのは、誰よりも私自身である。

『死にたがりの君に贈る物語』(綾崎 隼)は、最近、書評家によって批判されて話題になったけんご氏が、TikTokで紹介したことで火がついたミステリー小説である。これもコンテンツが持つ力を表現した作品といえる。

一応ミステリーなのでネタバレになるから、あらすじをほとんど話せないのが残念ですが…簡単に紹介しておきますと、冒頭、あるライトノベル作家が死に、それを追っかけ自殺しようとした少女が登場するところから物語ははじまるのですが、物語が持つ力、そしてそれを生み出すことについて、可能性と希望を力強く伝えるお話になっています。

大好きなライトノベルの次の巻が出るまでは生きていよう。とりあえず今日はあのマンガ雑誌が出る曜日だから仕事頑張ろう。そうやって日々、やり過ごしている人は、結構いるのではないかと思う。

それらはあくまで大衆文化であって、大量消費社会のなかで日々産まれゆく泡沫的な、文化的価値など無いに等しい商業的営みに対する受動的な消費に過ぎないのかもしれない。しかしそれは、文化などと高尚な身構えを取りたくはないという対抗的なカルチャーとも言えるかもしれない。

そしてそれは、ただただ、情報社会のなかでの刹那な娯楽の流通という流れの中をたゆたっていたい、という怠惰な自己の肯定でもある。しかしそこで生まれゆく、日々の「生き延びた」感はある種の生の支えと言えるのだろうし(「全部、これのおかげなの!!」)、あるいは匿名であってもネットで繋がった他者との交流は、かけがえのない喜びを生むこともある。

エンタメなんてたかがエンタメ。しかしそれで救われることもあるのだ。ひるがえって、エデュテイメントやシリアスゲームに人を救う力はあるか。「楽しい教育」を実践したいと考える自分にも、その冷たい刃は突き刺さって来ている。

楽しくなければ読んでもらえず意味がない、と思って、昨年度『コミュニティの幸福論』を書いた。エンタメの力を信じたい。そのためには「楽しい」ことを追求しなければだめだ。勉強になるから、なんて言い訳は、絶対にしたくはない。

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