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古い写真を訪ね歩く9 〜浅川玉枝さんと浅川治之さんを訪問〜

国道299号を十石峠方面へ向かい、川久保の信号を超えて橋を越えたあたりから大日向の地区へ入っていく。大日向は1区〜5区とあり、佐久穂町の中でも広い集落だ。今回は、大日向2区在住の浅川玉枝さん(96)と、玉枝さんの紹介者である浅川治之さん(71)を訪問した。

玉枝さんは、昭和3年生まれの96歳。「私のお母さんは37歳で亡くなった。私が10歳の6月の頃にね。幼かったからお母さんの面影はなく、おじいさんとおばあさんに育てられたよ。一番下の子が生まれて2〜3ヶ月くらいだったと思う。」と語り出した。
玉枝さんは4人姉妹の長女で、母を早くに亡くし父と父方の祖父母に育てられた。大日向で生まれ育ち、30歳の頃に結婚して夫が婿養子に入り、家の跡を継いだ。「私は、義務教育しか出してもらえなかった。妹達3人は高校まで出たよ。」
父は、大日向にある鉱山会社に勤める前までは、卵を朝早くに収穫し、大日向の奥にある古谷こやまで自転車で運び販売していたそうだ。当時の古谷には、林業関係者が住み込みで働いており賑わいをみせていた。

玉枝さんは学校を出た後、家で祖父と1日畑仕事などをして働いていた。次女と三女の妹達は高校へ、JR小海線羽黒下駅まで9〜10kmほど毎日歩いて行き、駅から汽車に乗って通っていた。末の妹は、野沢(佐久市)の下宿から高校へ通っていたそうだ。
 

玉枝さんの祖父母は元気で長生きだったという。小学校の頃、祖父は今でいう教育長のような役割をしていた。祖父が学校行事の際に皆の前で挨拶をすると、他の子ども達に「玉枝のじいちゃんだ」と言われることが嫌だったと、当時を思い出し教えてくれた。

治之さんの家から玉枝さんの家は目と鼻の先、昔からの付き合いだった。
今回の古い写真は、治之さんの家に残っていたもので、玉枝さんは初めて見るものだった。写真の中に、玉枝さんが知っている人を見つけると「あ、この人は〇〇校長先生、この人は〇〇先生だ。」といった具合にすぐに名前が出てきた。
治之さんが見せてくれたたくさんの写真の中には、何枚か治之さんの曽祖父、馬作さんの姿が写っていた。「この人が馬作さんだ。これ、和子ちゃん。」と、玉枝さんが写真を差す。
馬作さんの娘さんで治之さんの叔母にあたる和子さんは、玉枝さんと同級生だった。

「馬作さんもよく覚えている。ここの人(治之さんの家族)には本当によくしてもらってね。」玉枝さんは、父や祖父母も苦労した家だったそうだが、治之さんの曽祖父の時代からよくしてもらったと、写真を見ながら懐かしそうに話した。

写真の中には、大日向2区の若者達が一緒に出かけたという、松原湖の写真もあった。玉枝さんが15歳の時だ。
「当時はたくさん若者や子どもがいて、学校の同級生はうんといたよ。」写真に写る玉枝さんは初々しいが、面影はそのままだった。


松原湖の写真 最前列に座る女性の左から3人目が玉枝さん

大日向に、お店などはあったのですか。と尋ねると、治之さんから、菊池商店と大丸屋の名前が上がった。「農協の近くの菊池商店は酒屋さんだね。大丸屋は、今はないけど5区にあった。大丸屋には、魚とか食料品なんかはみんなあったね。あとは、移動のトラックに商品を乗せて売りに来る人が来ていた。私の小さい時だよ。暮れになると、東町でセールもあって、みんな買い出しに行ったんだと思う。」

大日向地区は、佐久穂町全体を見ても一番東の集落で、峠を超えたら群馬県になるエリアだ。浅川さん達の2区は、現在の町役場がある中心地まで7km程。大きな買い物は町中の東町商店街まで買いに行っていた。

今も建物が残る大日向3区のJA(農協)跡地。その場所は当時「組合」と呼ばれ、人がたくさん働く中心的な場所だった。その頃の写真が残っていた。


組合(昭和24年当時 農業協同組合)の写真

大きなトラックの横に並んで写る人々。玉枝さんはその写真をみるなり、「この人が弘さんだ。」とすぐに差す。(中央のメガネの男性が弘さん)
治之さんの祖父である弘さんは当時組合長をしており、父の邦夫さんも働いていた。「これが岸ちゃんだね。ここで働いていて、いい子だよって結婚したんだ。」
岸ちゃんと呼ばれた人は大日向5区から通っていた、治之さんの母。治之さんの両親は、この写真の3年後、昭和27年に結婚をしたそうだ。(弘さんの前に座る岸子さん)

「これが妹だよ。名前は、みなと。」玉枝さんの2つ下の妹、みなとさんの姿も写っていた。学校を出て家にいた所を、弘さんに紹介され働くことになったそうだ。みなとさんが、19歳の時の写真だという。(前列一番右がみなとさん)
玉枝さんのおかげで、この写真一枚に写る一人一人の物語を垣間見たような気がした。

浅川治之さん(左)・浅川玉枝さん(右)

何枚かの写真をじっくり見ながら、玉枝さんは嬉しそうに「懐かしい。よくこんな昔の写真をとっていたよ〜。」と何度も話す。それを受けて「またゆっくり写真を見に来たらいいよ。」と治之さんも優しい声をかける。さらに「この写真も、誰が写っているかを玉枝さんに教えてもらいながら、パソコンなんかに保存してとっておくといいね。」と一緒にアルバムを眺めた。
そのやりとりを聴きながら、写真に写る人達と同様に、今も変わらず繋がっている地域のあたたかさを感じた。

文:鈴木

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