「聴衆の仕事」
以下の文は、「歌を捨てよ 分断を歌おう」(2021年1月17日,北千住BUoY)で配布されたプログラムに掲載された文章である。
コンサートにおいて、受け手が担っている仕事は、なんだろうか。入場料を払うこと、身体を拘束されること、沈黙を提供すること。果たしてそれだけだろうか。コンサートが単なる興行ではなく芸術だとしたら、受け手にも芸術上の仕事があるはずである。
作り手の仕事は、さまざまな無駄を排除して音楽の「本質」を追求することだ。演奏家は身体の力みなどによって汚い音や悪い音程が出ないよう幼い頃から練習を重ね、指揮者は演奏家から文句を言われないように無駄な身体の動きやリハーサルでの無駄な時間をできるだけ削り、作曲家は無駄な音符や声部を減らし、批評家は自らの個人的な思いを排除し、そして彼らは音楽の「本質」を見極めていく。
しかし、受け手にとって、音楽家が追求した「本質」は必ずしも必要とされない。
幼い頃、両親が運転する車の中で流れていた音楽。高校生のとき好きだった人が聴いていた音楽。音楽体験は、パーソナルな記憶と分かちがたく結びつく。初めて聴く音楽でも、自らの記憶や体験と関係し、得がたい経験を味わうことはあるだろう。身近で不幸があったり、世界で大きな悲しい事件があったりして感傷的になっているとき、音楽は胸に深く突き刺さる。
聴き手の連想ゲームだけではない。音楽に付随する「非本質」に感動することだってある。初めてクラシック音楽を生で聴いたひとは、オーケストラのチューニングに感銘を受けるかもしれない。わたしの知人で聾者の方は、音楽家たちが顔を見合わせながらアンサンブルする様子が見たくて(音は聴こえないけれど)よく演奏会に足を運ぶと言っていた。もちろん演奏家にとっては、チューニングも、表情を使ってアンサンブルをすることも、音楽の「本質」ではない。
これだけではない。西洋音楽の歴史を辿ると、「非本質」だったものが「本質」へと変遷していくさまが見える。
クラシック音楽の源泉は、中世ヨーロッパの教会で歌われた聖歌に見出すことができるだろう。当時の教会音楽においてその本質は歌詞、すなわち「言葉」にあり、音の並びや演奏は「言葉」を説明するためのツールであった。単旋律(ひとつの旋律)から成っていて、音の動きもとても平坦であったことから、それがよく分かる。わたしはグレゴリオ聖歌をはじめとしたこの時代の歌が好きでよく聴くが、すべてが似た曲に聴こえる。すなわち、音の並びだけ聴いてもそれぞれの楽曲の違いがほとんど分からないのだ。その差異は、言葉にこそある。
時代がくだり、作曲に関するさまざまな技法が生まれてからも、宗教音楽においてその本質は長らく言葉にあった。しかし「作曲家」と呼ばれる職業が登場し、それまで歌の伴奏などを務めていた楽器たちが独立した器楽曲が生まれると、それまで音楽にとって「非本質」に過ぎなかった、どのような音の並びであるかということ――すなわち「楽曲」へと音楽の「本質」が移る。作曲家たちは、弦楽四重奏やオーケストラ、あるいは交響曲や歌劇といったフォーマットを使い、それぞれの楽曲を創作した。
しばらくは、「楽曲」が音楽における絶対的な本質だった。少なくとも作曲家たちはそう思っていたようだ。リヒャルト・ワーグナー(1813-1883)はコンサートを社交の場に使っていた人々を批判し、ヨハネス・ブラームス(1833-1897)は《ドン・ジョヴァンニ》の観劇に誘われた際、「それなら家でスコアを読む」と言って断ったそうだ。イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)は、「翻訳家Traduttoreは裏切り者Traditoreだ」というイタリアの警句を使って演奏家たちへの不満を漏らしていた。この頃、少なくとも作曲家たちにとって「演奏」は音楽の「非本質」であったし、「演奏」が芸術とは言い難かったのかもしれない。
指揮者のヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)やヴァイオリン奏者のヤッシャ・ハイフェッツ(1901-1987)と言った巨匠たちが登場し、過去の「楽曲」を演奏すると、その「演奏」は紛れもなく芸術であり、音楽の「本質」だと認識されるようになる。ロマン派や近代の作曲家たちにとっては「非本質」であったはずの「演奏」が、どんどん「本質」へと移っていった。これはクラシック音楽に限らず、モダン・ジャズ(1940年代頃に成立)の即興演奏も当てはまるだろう。
そして1952年、ジョン・ケージ(1912-1992)の《4分33秒》が初演される。楽譜にはただ「tacet(休み)」と書かれ、一切の楽音がそこにはない。この楽曲のメインとなる音は、むしろ舞台の外側にある音、隣の客の鼻息や咳だとか、空調が動く音だとかそういった類の音だ。それまでの西洋音楽の歴史上「非本質」でしかなかったそれらの音さえ、音楽の「本質」となった。
音楽家が想定した「本質」がそのまま「本質」として受け入れられることも、もちろんある。わたしは演奏家として、我々が努力して作り上げた音楽の「本質」を、受け手には正確に受け取って欲しいと心から願っているし、恐らくほとんどの音楽家がそう思っているはずだ。
しかし芸術とは、人智を超えた体験である。すなわち、人間の意識の内側だけで完成されることはない。意識の外側という作り手にとっての「非本質」にこそ、音楽の「本質」が宿るのかもしれない。ジョン・ケージが《4分33秒》で行った功績は、彼が音楽の「本質」を転倒したことではなく、聴き手に「本質」を転倒させる場を与えたことである。聴き手が「非本質」だった音を「本質」だと認識しなくては――音楽でないと思っていたものに音楽を見なければ――その体験は得られない。音楽の価値が生まれるかどうかは、受け手に依存するのだ。
すなわち受け手の仕事とは、音楽に価値を見出すことである。それは必ずしも作り手が想定した「本質」ではない。むしろ「非本質」に「本質」を見つけることこそが、音楽の喜びではないだろうか。
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