ストリートピアノを殉職させてはならない。

鹿児島県の霧島市で、先週、ストリートピアノが壊されるという事件があった。犯行の様子は防犯カメラに記録されており、土曜日の午前6時に、男女計4人によって破壊されたそうだ。楽器は倒され、前板やふたが剥がれ、鍵盤は波打っていた。あまりに痛ましい。特に演奏家にとって、壊された楽器を見ることほど悲しいことはない。多くの演奏家にとって楽器は神聖なものであり、同時に我が子のように愛おしいものであるからだ。
一方で、ストリートピアノが全ての音楽家に受け入れられていたものではないことを、確認しておきたい。特に私の周りにいるピアニストの多くは、ストリートピアノを好ましく思っていないようだ。ある友人が「公衆ピアノ」と呼称していたことも印象に残っている。自らが崇拝し、寵愛するピアノとは異なるものだと認識しているようだ。
ストリートピアノは、限られた人々が持っていた、楽器を演奏して賛辞を得るという権利を、公共に拡大した。これは評価すべき面であろう。今日において賛辞を得るとは、その場での拍手に留まらず、それをアップロードすることで獲得できる「いいね」やリツイートの数である。
とはいえ音楽が持つ多くの側面を、公共的な「善」という面に一元化し、音楽の持つ「悪さ」を捨象してしまったことは、私は良いと思わない。今回壊されてしまったピアノは高校生がペイントをしたもので、東日本大震災の追悼イベントでも使用されていたようだから、尚更だ。批判されることを許さない。

ピアノはなぜ、壊されてしまったのだろう。酔っ払った勢いで、というのが考えうる最も合理的な可能性だろう。しかし、朝の6時では、ある程度酔いが冷めているかもしれない。それにピアノを倒すには力がいる。多少の計画性が必要ではないだろうか。すなわち、そこに思想があった可能性を捨て去ることはできないのではないか。検索すると、九州、特に鹿児島県にはストリートピアノが多くあるようだ。溢れるピアノの公共性に対し、敵意を持っていたとしてもおかしくない。
独占していた権利がパブリックドメイン化してしまったことへの選民意識からなる犯行だとしたら、それは自らの信仰対象を傷つけることになるから、成り立たないだろう。もちろん「公衆ピアノ」は自らが愛すピアノとは違うものと見ているのだろうが、無垢な鍵盤を前に、割り切って「殺害」することはできないだろう。
ピアノが放っていた公共的な「善」の押しつけに、辟易してしまったのではないか、私はそう思う。私もそれを完全に受け入れることはできないからだ。
しかし、それを破壊するという行為はあまりにも浅はかである。なぜならば、公共的な「善」の存在であったピアノは、壊され、人々から同情されることによって、絶対的な「善」に昇格したからである。すなわち、ストリートピアノは、殉職したことによって、階級が特進したのだ。公共的なピアノは悲劇のヒロインとなり、もはやそれを批判することは全くもって不可能だ。

だから私は、あえて、この文章を書いている。しかし死人を嬲る行為、すなわち相撲でいう駄目押しをすることはもちろん私の目的ではない。とはいえ、公共に開くということが、このような悲しい事件を招き、一方で公共性を強化させ絶対的なものに変えたということを忘れてはならないのだ。

ストリートピアノは誰にでも自由に演奏されるべきである。自由に演奏をしていいのだったら、ピアノを壊すという行為が音楽的に許されない「演奏」だとは言い切れない(もちろん、法律的にはアウトである)。しかし、公共的な文脈の音楽においては、絶対的に許されざることだ。なぜなら、ストリートピアノは、誰にでも弾かれるというその構造こそが「楽曲」なのであって、すなわちストリートピアノの前に立った人民は皆、その「楽譜」を演奏する「演奏家」である。楽譜に書いていないことを、演奏家はしてはならない。ストリートピアノは、終わりを持たない「楽曲」なのだ。楽器を壊すことによって暴力的に迎えた終止線、それは明確なルール違反である。音楽の持つ時間的な暴力性が、そこにはあった。ストリートピアノは公共的な「善」に留まっていなかったのだ。暴力的な終焉以外で、それを明示させることができれば、それが最も良い「演奏」だったのではないか。

当たり前のことを書こう。楽器を壊してはならないのだ。

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