ベートーヴェンという物語をアップデートする

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以下の文章は、「ベートーヴェン、交響曲前夜。」で配布されたプログラムに掲載されたものである。

ベートーヴェンという物語1 ベートーヴェン・メモリアル

 ひとびとは固有名詞に対して特定の「物語」を与えたがる。「物語」は言葉の理解を容易にするが、事実を超えてしまう危険性を常に孕んでいる。染み付いてしまった偽りの「物語」は、いつの間にか事実よりも肥大になってしまう。ベートーヴェンも例外ではない。
 ベートーヴェンに関する逸話はよく知られているだろう。「運命はこのように扉を叩く。ジャジャジャジャーン」「月明かりの街を歩いていたときにインスピレーションを得て《月光》ソナタを書き上げた」「《英雄》交響曲はナポレオンのために書いたが、彼が皇帝に即位したという報せを聞いたベートーヴェンは、怒りに任せてスコアの表紙を破った」など。これらは全くの嘘、あるいはおそらく事実ではないと認められていることだ。しかし、これらの「物語」が嘘であるといくら丁寧に説明したところで、特にポスト・トゥルース時代のいま、これらの「物語」から生まれたベートーヴェン像を揺るがすことは難しい。すなわち「怒りっぽい」「苦悩」「意志」「重厚で長大な楽曲を書く」「もじゃもじゃ」「ゲルマン民族」という真贋が入り乱れたイメージである。そういった「物語」を形成した要因のひとつに、メモリアルイヤーがあるのではないだろうか。

 今年はベートーヴェンが生誕した1770年から250年の記念年である*1。メモリアルイヤーという考えはベートーヴェンの作品それ自体には全く関係のないことであるが、ベートーヴェンが受容されてきた歴史を考えるときにそれを無視することはできない。
 ベートーヴェンの生誕75年にあたる1845年が最初のメモリアル・イヤーだ。リストが立役者となり、第一回ベートーヴェン音楽祭がボンで開催された。ベートーヴェン・ホールが建設され、イギリスのヴィクトリア女王やプロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が臨席するなか、シュポアやドラゴネッティらが参加し、ベートーヴェンの作品やこの日のために作られた楽曲が演奏された。しかし最も特筆すべきことは、いまでも残る銅像が建立されたことだ。大きく立派なベートーヴェン像は、ゲルマン民族のナショナリズム運動が盛んであった当時、「民族の英雄」としてひとびとが持つベートーヴェンのイメージの形成に大きく寄与しただろう。
 生誕と没後100年では更に盛大な式典が営まれた。普仏戦争と重なった生誕100年の1870年には、新たなベートーヴェン・ホールが建設され、式典に参加しなかったワーグナーは「ベートーヴェン」という論文を発表し、プロイセンの勝利とベートーヴェンの勝利はドイツ精神の勝利であると展開する。1927年の没後100年でも独墺併合と重なり、ベートーヴェンの英雄性とゲルマン民族が更に結びつくきっかけとなった。
 1970年の生誕200年では、日本では大阪万博と重なってカラヤンがベルリンフィルと共に来日してツィクルスを行い、ウィーンでは楽友協会ホールの100周年と重なって盛大なメモリアル・イヤーとなった。祝祭、楽聖、ベートーヴェン。全くもっておめでたいイメージである。
 様子が変わったのは直近のメモリアル・イヤーである没後150年の1977年だ。東ベルリンで開催された国際ベートーヴェン学会において、「会話帳の伝承に関する幾つかの疑惑」という発表がなされる。ベートーヴェンの秘書であったフランツ・シンドラーという男が、会話帳*2にさまざまな改竄をし、ベートーヴェンの「物語」を作っていたというのだ。シンドラーはベートーヴェンの没後すぐに伝記も作っていたから、会話帳が改竄されていたということは、19世紀以来ひとびとがベートーヴェンに対して抱いてきたイメージが大きく崩れるはずの大事件である。とはいえ、それを境にベートーヴェン演奏が大きく変わったわけではない。
 次のベートーヴェン・イヤーが今年である。これまでのベートーヴェン・メモリアルと異なる大きな特徴は、「古楽」が登場したことだ。

演奏と聴取のねじれ 前近代/近代/過近代の軸で考える

 「古楽」とは、作曲された当時の楽器や演奏法を用いることで、その作品が作曲家の死後から現在までどのように演奏されてきたかということは踏まえずに原典に立ち返り、楽曲や作曲家の素顔に迫る態度である。「ピリオド」や「オリジナル」とも呼ばれ、「ピリオド演奏」や「オリジナル楽器」といったふうに使う。「バロック・ヴァイオリン」などという言葉もよく耳にするだろう。
 「バロック」という固有名詞にも問題がある。クラシック音楽の歴史を「中世・ルネサンス」「バロック」「古典派」「ロマン派」「近代・現代」と分けることは、クラシック音楽をよく聴いたり本を読んだりする方々にはお馴染みだろう。しかしそれは後世の人たちが与えた名前であり、何より作曲に関して付けた区別に過ぎないのだ。例えばこんにち「バロック弓」と言われるものはいわゆる古典派の時代でも使われていたし、「モダン弓」の原型は19世紀初頭、ベートーヴェンが生きていた頃にはすでにあった。もちろん弓の形状が作曲に対して与えていた影響はあっただろうが、「この楽曲は古典派(クラシカル)だからクラシカル弓で弾くべきだ」とは限らないのである。
 もっとも大きな問題は、聴取だ。聴衆がどのような態度で音楽に臨むかということも、時代と共に変遷してきた。それは「バロック聴取」だの「ロマン派聴取」だのというふうに区別することができない。バロックだのロマン派だのという言葉は、やはり楽曲のための分類である。

 そこで私は「前近代/近代/過近代(=ポストモダン)」という三分類を提唱する。この分類は楽曲にも楽器にも演奏スタイルにも聴取にも使用することができる。例えば、野外で演奏されるような機会音楽は「前近代」であり、「芸術のための芸術」となった音楽、すなわちベートーヴェン以後の楽曲は「近代」である。調弦が狂いやすいガット弦や音によって(演奏者の意志と関係なく)音色が変わるナチュラル金管楽器は「前近代」で、弓元から弓先まで一定に演奏できるようになったフランソワ・トゥルテの弓は「近代」となり、やはり一定の音を出すために登場した金管楽器のバルブやロータリーも「近代」だ。20世紀になると楽曲は「ポストモダン」も増えていくが、ここは演奏における「近代」の黄金期である。国際コンクールが登場し、ミスをせずに正確に演奏することが「良い演奏」の必要条件となった。
 そして、こんにちのクラシック音楽の演奏会へ足を運ぶ聴衆は「近代」である。演奏会の最初から最後まで皆が同じように静かに聴き、楽章間では拍手をせず、途中で飽きたとしても、トイレに行きたくなったとしても席を立つことは難しい。非常に「近代」的である。しかしモーツァルトの時代の聴衆は違った。演奏会の最中に飲食や喫煙をするのはもちろん、おしゃべりやトランプゲームをしていたひともいたようだ。「前近代」である。こういった「前近代」的聴取をワーグナーが批判していることから、このような態度はいわゆるロマン派の時代-すなわち作曲における「近代」の時代まであったのだろう。作曲と聴取において「前近代/近代」のねじれがあったから、ワーグナーは不満を抱いたのである。「ポストモダン」としての聴衆は、コンサートホールに来るまでの電車の中でiPhoneから音楽を聴いていたあなたや、フェスに行ってその画像をインスタグラムにあげる人々である。彼らは、音楽を自らの手で操作しながら聴きたいものだけを選んで聴く。
 現代の「古楽」のコンサートには、ねじれが存在する。演奏や楽曲、楽器は「前近代」–あるいは演奏は「ポストモダン」かもしれない–であるのに、聴取だけが依然として「近代」なのである。別の言葉を使うなら、聴取における「古楽」という視点が欠けているのではないか。
 私は特に聴取において「ポストモダン」と「前近代」には親和性があると思う。最初から最後まですべての聴衆が同じ「物語」を聴くのではなく、それぞれが聴きたいところを聴くからだ。例えばモーツァルトの手紙に登場する自作自演演奏会のプログラムを紹介しよう。

1 ハフナー交響曲第1~3楽章
2 歌劇《イドメネオ》からアリア
3 ピアノ協奏曲
4 独唱のためのシェーナ
5 協奏交響曲
6 ピアノ協奏曲とそれによる変奏
7 歌劇《ルーチョ・シッラ》からのシェーナ
8 フーガの即興と、パイジェッロの歌劇の旋律による即興変奏、それにグルックの歌劇の旋律による自由な変奏
9 声楽のためのロンド
10 ハフナー交響曲の最終楽章

 現代の「近代」的な演奏会とはまるで異なる。現代ではメインに君臨するはずの交響曲が分割され、その間にオペラアリアや協奏曲などが並ぶ豪華で雑多なプログラムだ。コンサートと言うよりも、iTunesのプレイリストや、フェスのセットリストという趣ではないか。
 わたしは本日のコンサートのプログラムを、モーツァルトの演奏会の例に則って決定した。ふたつの理由がある。まず、「近代」と「ポストモダン」が倒錯した現代に生きるわれわれは、「近代」にのみしがみつくことの危険性を、世界大戦やチェルノブイリとフクシマの事故などを通して知っている。そして、今回演奏する楽曲はすべてベートーヴェンが18世紀のウィーンにいた頃の作品である。19世紀後半のドイツでも、戦後の日本でもない。《七重奏曲》は初演でも分割して演奏されたわけではないが、むしろあえて分割することによって、より楽曲の本質に迫ることができるのではないか。わたしはそう考える。

本日のセットリスト

 ベートーヴェンをドイツ・ロマン派としてではなく、18世紀ウィーンから見たときにこそ、ベートーヴェンの本質が見えてくるのではないか、と前章で述べた。それはすなわち、ベートーヴェンのアヴァン=ギャルドさである。では、本日演奏するベートーヴェンの作品は、何が新しいのだろうか。
 ベートーヴェンに特有のもので「陥没楽句」というものがある。これは突然挿入される遠隔調のことだ。古典派の時代は転調したとしても近くの調にしか行かないことが多かったが、突然臨時記号がたくさん登場し遠い調性へと転調する。しかし、すぐに元に戻るのだ。
 例えば《交響曲第7番》の第3楽章は、他の楽章がイ長調とイ短調であるのに対して、そこから離れたヘ長調である。一見離れた調だが、関係性がないわけではない。第2楽章終盤に突然ハ長調のカデンツァが現れる。「陥没楽句」だ。これは第2楽章のイ短調の平行調のカデンツァが現れたのではなく、第3楽章のドッペルドミナントと属和音が現れたと解釈すると分かりやすい。すなわち、次の楽章の予告である。第3楽章のヘ長調に入ると、今度は一瞬イ長調になる。これは他の楽章の主調あるいは同主調である。
 こういった楽章を超えた結びつきを、中期以降のベートーヴェンは積極的に取り入れている。《交響曲第5番》において、何度もあの「ジャジャジャジャーン」が出てくることが分かりやすいだろうか。
 実は今回の演奏会でも、ベートーヴェンの「陥没楽句」を強調させるために、この手法を取り入れたプログラムをしている。《七重奏曲》第1楽章変ホ長調、第2楽章変イ長調の次に、《チェロソナタ第1番》ヘ長調が演奏される。近くはない調性だ。しかし、《チェロソナタ》には「陥没楽句」がいくつか登場し、その中でも印象的な楽句が、直前に演奏される《七重奏曲》第2楽章と同じ変イ長調なのである! その《七重奏曲》第2楽章においても、変ホ長調で解決したあとに突然ハ長調が訪れる場面(譜例1)があり、その直後にチェロが高音域で美しいソロを奏でる。ハ長調はヘ長調の属調である。すなわち、そこは次の《チェロソナタ》の予告になっているのだ。

 他にベートーヴェン特有の手法として、旋律を一拍前から始めるということがある。有名なのは《第九交響曲》のいわゆる「歓喜の歌」だ。最初にチェロとコントラバスが弱音で奏でるとき、最後のひとフレーズがタイで繋がって、一拍早い(譜例2)。このことによって、フレーズがとても長いものへとなる。あるいはその後の合唱で、Alle Menschenと連呼する箇所で、ffの最初だけが他よりも一拍早く出ている(譜例3)。これは強調するために使われたのだろう。この手法はシューベルトやシューマンなど後の作曲家たちもよく使った。
 これが、《七重奏曲》にも登場するのである。第5楽章変奏曲の第1変奏だ。1小節と5小節で半拍早く旋律が始まっている(譜例4)。

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ベートーヴェンという物語2 ベートーヴェン・アップデート

 ベートーヴェンの「物語」は、彼の死後に生まれたものだけではない。
 彼にとってのデビューコンサートは1778年3月26日、7歳のときだった。父ヨハン・ベートーヴェンがケルンで行った公開演奏会に、息子ルードヴィヒを出演させたのである。公演の予告には「当年6歳の子息を世に送り出す」と書かれていた。父が子の年齢を間違えたのではない。モーツァルトが6歳で輝かしい「神童」デビューをして話題になっていた時代だから、わざと若く見せたのである。ベートーヴェンはそのデビューから、偽りの「物語」を与えられていたのだ。

 「物語」が染み付いて肥大した事実を変容させるためには、古い「物語」を消去(デリート)するのではなく、「物語」を更新(アップデート)しなくてはならない。事実の訂正だけでは、染み付いた「物語」には立ち向かえないのだ。新しい「物語」を作ることが、「古楽」の役割ではないか。
 「ベートーヴェン、交響曲前夜。」はひとつの「物語」である。オルケストル・アヴァン=ギャルドはベートーヴェンの交響曲全曲を掲げて設立したオーケストラであるから、この公演は、スピンオフ的な性格を有している。しかしこのスピンオフ的な性格は、オルケストル・アヴァン=ギャルドの本公演に対してだけではなく、この世界に溢れる全てのベートーヴェンという「物語」に作用するのだ。

 本公演は、ピリオドである。18世紀のウィーンにおいて、楽章間で拍手することは憚れることではなかった。本公演において、もし拍手をしたいと思ったならば、たとえ楽章間でもそれを遠慮する必要はない。拍手をいただけることは、演奏家にとってもありがたいことである。ただし、ブラヴォーとブーイングの掛け声は、感染症対策の面からお控えください。


*1 1770年にボンで生まれたというのが最も流通している説だが、1772年にオランダのズトフェンで生まれたという説もある。ベートーヴェンには生後すぐに亡くなった同名の兄がいたため、洗礼証明書の記録だけでは断定できないのだ。この説についてはフォルテピアノの川口成彦氏による以下の文章に詳しい。
ベートーヴェンの真の生誕地と噂される街のピアノ博物館の危機|川口成彦のフォルテピアノ・オデッセイ 第3回 https://member.ebravo.jp/3604/
*2 「会話帳」は、耳の聴こえなくなったベートーヴェンが他者との会話に使った筆談ノートのことである。


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