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さいきん「怒り」について考えている2つのこと

(1) わたしが演じている「怒り」について

 今年はオラトリオやオペラなどの「劇音楽」を演奏する機会が多かった。そのほとんどが、音楽がまだ修辞学的に作られていた時代のものである。すなわち音楽が感情をありありと描いていた、バロック時代のものだ。わたしはヴィオローネ(コントラバス)奏者であるから、わたしがふだんの仕事ですることは、基本的には全体の響きを(誰にもわたしの音だということを気付かれないよう)まろやかに増やしたり、あるいはコントラストをつけるために合奏全体のサウンドにエッジを効かせたりすることである。前にしゃしゃり出ることはほとんどない。つまり、全体で鳴っている音の塊を内側からぼんやりと奥行きを持って押し広げるか、あるいはその音の塊のフチを力強く掘り出すか、そんなことをしているのである。
 ヴィオローネの音というものが、ゆいいつ前に出ても良い、あるいは出るべきだと思っているのが、「怒り」の表現である。修辞学的に書かれた音楽を演奏するうえでは、かなり直截的に、そして演劇的に表現することが求められる。演奏者は聴衆に対してそこに生の「怒り」があるように見せ、場合によっては、それを舞台上だけでなく、聴衆の心のうちにも作りあげることが必要とされる。そのとき、わたし(ヴィオローネ奏者)は前面に立って仕事をする。なぜなら「怒り」を表現するうえで、ドスの効いた低音は欠かせないからだ。地の底から鳴り響いて空間を揺らがすほどの母音、ツバが飛びそうなほどに凄まじい子音、楽音の範疇を飛び越えたノイズ、それらを駆使して、その場面にもっとも合う「怒り」を作り出す。これは容易ではないが、わたしはこれに文字通り全力を注いでいる。そしてそれは技術の鍛錬や史料的な追求にとどまらない。なぜなら、そこで求められていることが、生の感情の表現だからである。
 だからわたしはこれらの表現をするために、日本のヤクザ映画を観て、どんな表現のなかに怖い迫力があるのかを勉強した。それから、いや、こんなことを書いてしまうのは恥ずかしいが、わたしは街中で喧嘩があると野次馬のように見入ってそれを観察する。ほんとうに怒っているひとは、どのような目線で、どのような声を出すのか。東京にはキレる大人がたくさんいる。山手線の車内、歌舞伎町の路上……理性によって抑えつけることのできない生の「怒り」を見ることは(非常に憂うべきことではあるが)2023年の東京においては困難なことではないのである。
 世の中に、バロック音楽を演奏するために高倉健を観たり歌舞伎町へ行ったりするひとは他にいないかもしれない。しかし、いまでは「クラシック音楽」などと呼ばれ、コンサートホールに閉じ込められてしまった文化ジャンルが、かつて獲得していた大衆的な熱狂を実現するために、つまり「その作品が作られた当時の聴衆たちが抱いたであろう感情を、現代の聴衆のうちにおいても作り出す」ために、わたしは演奏家が良い音だけでなく表現する音を目指し、そしてあるときには「人間」に迫るべきだと考えている。だから、わたしは自ら選択した楽器の性質から、特に「怒り」についてときに身体性を持って学ぶ必要がある。

(2) 自分のなかで湧き続ける「怒り」について

 ところで、先月東京芸大で授業をさせていただいたとき、最後に学生からこんな質問を受けた。「作品を作るエネルギーとかきっかけって、どういうところにあるんですか?」と。わたしは少し悩んだあと「不満、みたいなものですね。わたしは末端の人間、演奏家や書き手としてさまざまな公演や企画に参加させてもらってきました。そしてそれらのほとんどは、自分なんかが作る公演よりもとても規模の大きなもので、お金もひとも多くかけられている。そんなとき、自分に納得できない部分があると『自分だったらこうするのに』『なんでこんなにお金があってお客さんも来てくれるのにこうするんだ?』みたいな不満がどんどん溜まっていきます。というかほとんどの現場で、何かしらの不満が溜まります。溜まれば溜まるほど、自分でやってみたくなる。それでコンサートをやりたいという、半ば衝動のような気持ちが湧いてくるのです」といった内容のことを答えた。
 その翌日の夜に初めて行ったバーで、わたしよりひとまわり以上は上の世代にあたるパフォーマーの方に会った。その方はご自身で脚本・演出・出演をされるようで、作品のお話を伺うと非常に面白そうなことをされているなと思った。そして面白いことに、その方が、作品を作るエネルギーは怒りだと、そう仰ったのである。会話の仔細についてここに書くことは控えるが、もちろん怒り続けることは疲れることだし、そんな原因はないほうが幸せに決まっている。
 しかしながら、わたしは日々生きていくなかで、さまざまな怒りが湧いてくる。けっこう怒りっぽいほうなんだろう。しかしその対象は人物ではない。それは不条理というほどでもないのだけれども、その場ではどうしようもできないようなことばかりで、だからこそ怒りが蓄積されていく。そして、わたしは作品を作らざるをえなくなるのだ。
 怒りなんてないほうがいい。ないほうがいいに決まっている。
 だけれども、日々生きていくうえでまったく怒りがなくなってしまったとしたら、それはわたしがいろんなものを見れなくなったり、気が付かなくなったりしていった証拠なんだと思う。もちろんわたしが怒りを抱いたって、それだけで社会が変わることなんてないし、それがなんのプラスにつながるわけでもない。しかし、わたしは人間だから怒りを抱くし、けっきょくそういうどろっとしたものこそが、表現やドラマとなり、そして代えがたい文化を作ることにつながるのではないかと考えている。

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