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「なんでもいい」の呪い

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例えば人に「晩ごはんになにが食べたい?」と言われたらどう答えるだろうか?

中華?イタリアン?蕎麦?そもそも家で食べるか外で食べるかという問題もある。


そうした考えを全てなかった事にする言葉

それが「なんでもいい」である。

これは時と場合によっては、とても失礼な言葉である。人がせっかく聞いているのに、思考を放棄している。それに人に合わせてあげますよっていう傲慢さを兼ね備えているからタチが悪い。その癖人から何か提案されると「それはちょっと…」というのだ(これは明らかに特定の誰かを指してますね。少し黙りましょう)


しかし、かくいう私自身も結構この「なんでもいい」という言葉を多用していたように思う。


まぁ、本当になんでもいいのだ。


今日の晩ご飯がカレーだろうが、麻婆豆腐だろうが、そこにさしたる変わりはない。

それならば、他の人間の意見に従えば万事上手くいくだろう。

…と思っていた。

だが、この言葉は呪いの言葉だったのだ。

それに気付いたのは新しい服を買いに行った日のこと

私は服屋をひと通り見回って途方に暮れていた。

「どんな服を買えばいいのか…わからない…」

そう、普段から自分の意見を考える事を放棄した代償に、自分の好みがすっかり分からなくなってしまっていたのだった。

恐ろしい事である。自分のことなのに自分が何を欲するのかが分からない。

私は可愛い服が好き?それとも大人カジュアルな服が良いのか、ダボっとしたストリート系?


そして考え疲れた私は思わずこう思ってしまった。

「着ておかしくなければなんでもいい…」


その時、なんといえばいいのだろう。


自分のアイデンティティだとか個性だとかが何もかもない気がした。


私には好きなものに囲まれて、お気に入りのものだけで生活していきたいというささやかな夢があった。


でも、自分が何が好きか考える事を放棄したせいで、私の「好き」という心はすっかり錆び付いて、ボロボロになってしまっていた。



一度なくしたものを再構築していくのには時間がかかる


今も、私はどこか空っぽな穴を抱えて生きている


ただ「なんでもいい」という言葉を意識的に使わないようにしている


コンビニのスイーツも、今日のばんごはんも、今着ている服も、それが良いという理由を考えながら(なかなか時間がかかるのだが)選ぶことにしている



それが再び自分の心を作ると信じて

祈るように選んでいる


サポートされたら、すこし贅沢して美味しいものを食べて、そしてそれをエネルギーにしてまた書いていきます。