見出し画像

さよなら

通り過ぎたものをいつか全部忘れてしまうことを知っている。思い出せるように書き留めておいたとしてもその何文字かの走り書きからでは決してそのときと同じものは思い出せなくてやがて書き留めたことすら忘れてしまう。とうめいな蛾、眼鏡についたちいさい水滴、おしろい花。ノートの端切れに見つけた言葉を自分がいつ書いたのかすらも。
「わたしが、全て覚えていてあげますよ」
物音を立てずに入ってくるのは癖だから仕方がないといつか言っていたのは覚えている、それくらいはわたしだって覚えているけれど。
「バルバラ」
「すべて覚えていますよ、あなたの代わりに」
自慢のコンピューターの脳みそを無邪気に指さして微笑むので無意識に微笑みを返す。嘘でも笑顔を作ると脳の働きが活性化するという話を聞いてから大事な試験の前にはひとりぼっちでニコニコするようにしている。人間の脳みそは単純で脆くすぐキャパオーバーをおこしほんの少しの情報しかとどめておくことができない。それにしても試験なんてもう何年も受けていないような気もする。
「わたしたちがはじめて会った日にわたしは何を着ていたっけ」
「サーモンピンクのサマーニット製のゆったりとしたポロシャツに濃いベージュのチノパンツ、です。シャツは律儀にズボンに入れて第一ボタンを閉め、ボロボロの茶色い革ベルトと同じくらい年季の入った黒い革靴でした。靴下は白」
今の自分の格好を見下ろす。青いニットとインディゴのジーンズをロールアップ。ベルトはぴかぴかの深い赤。そのときのわたしと今ここにいるわたしは本当に同じ人物なのだろうか。靴下は同じ白。
目の前にはわたしの靴下よりはるかに真っ白なきみが。
「変わらないね、バルバラは」
「はい」
何ひとつ嘘みたいに変わらない。突然タイムスリップが起きて昔のきみと今のきみが並んだとしてもたぶん見分けがつかないだろう。
「ずっと覚えていますから」

忘れることは別れることだと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?