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夏なんてカルキのにおいだけだよ

薄金の髪の毛がきらきらと潮風に吹かれるのを見た、瞬間、恋に落ちる音がした。
でも、恋の奈落に落ちたのは、わたしだけじゃなかったみたい。

・・・

「夏休みだっ!」
短く語尾を跳ねて、百瀬桜子は言った。彼女の背中に垂らしたおさげと、セーラーの襟がぴょんと浮く。まさにその通り、間違いなく、夏休み。終業式の日の放課後の、喧しい昇降口だ。
「あっという間に終わるんだろうなあ」
「始まる前からそんなこと言っちゃあおしまいよ」
おっとりした声とともに眉尻を下げる松崎真由――正確にお伝えするならば松崎・マッケンジー・真由だけど――と、長いポニーテールを溌剌と揺らす西園寺南海、が、ふたりしてゲラゲラと笑い出す。箸が転がっても面白いお年頃こと、高校二年生の私たちである。
桜子が「早く、行こー!」と言って、微かに靴底のゴムの香り漂うその場所を飛び出し、私たちは校門へのまっすぐな坂道を下っていく。まだ高い、白っぽい太陽の光を四人の制服が跳ね返す。夏服は白い。真っ白な生地に際立つ、深海のような緑がかった濃紺のラインとスカーフが、私立溟海女学園の象徴。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう!」
すれ違う白い制服たちと、ハンカチで汗を拭き拭き立っている先生方に挨拶をして、お昼のお弁当の蓋を開けるときみたいにあくまで普通に、でも確かな胸の高鳴りと共に、夏休みがはじまる。いつもより冷たい夏になるってニュースでは言っていたけれど、気温が低い分眩しさばかりが際立って、全部嘘みたいに見えている。
一か月だけおさらばする通学路の、なにかに反射した光が目に突き刺さって、一瞬立ち止まる。ホワイトアウトした視界に、じわじわと色彩が戻っていく感覚。
「ひいちゃん、どうしたの?」
まだピントの合わない視界の中、桜子が振り返って待ってくれているのがわかる。私、こと、古賀ひいらぎ、盛夏生まれのまだ十六歳、は、
「夏休みだねえ」
にっこり笑って、トン、と軽くアスファルトを叩くように、歩き出した。


藤沢駅から小田急線でほんの一駅乗ったところにある溟海女学園は、江ノ島にほど近い。私たちはまっすぐおうちに帰ったりなんかせず、ただ、観光客で賑やかな海水浴場に赴くのには制服が目立ちすぎてしまうので、片瀬漁港で静かに海を見ることにした。
「焼けちゃうなあ」
歩きながら心配そうに太陽に手を翳す真由の髪の毛は淡い茶色。透ける瞳は緑がかってきれい。私も真似して太陽を遮る仕草をしてみる。
「小麦色になっちゃおうかな~」
「ひいらぎはいつでも真っ白じゃんか」
「ハハハ、ばれたか」
指の隙間から光が漏れて眩しく、一瞬天国についたみたいだけどただの漁港。でも色褪せた漁船がふわりふわりと揺れているのを見るのはとても心地よかった。大きな木の下に指定の、制服に使われているのと同じ深い海色のスクールバッグを放り出して、群生したシロツメクサの上に転がったり。
「四つ葉、あるかな?」
「あるでしょ」
「競争!」
「えっうそ」
急にはじまった四つ葉探し大会に、私も慌てて地面に這いつくばる。水分不足でくすんだ緑色の、しなしなのシロツメクサは葉っぱの枚数がひどく見分けにくい。指先で一枚ずつ
地道にチェックするほかない。
あった、と思ってもふたつの三つ葉が重なっているだけだったり、葉っぱが破れているだけだったり。それにしてもやけにみんな真剣で、話し声が止むと波の音が大きいから海だなあと思う。
真剣に探しているのが可笑しくなってきて、集中力が途切れる、緑の上を目が滑る。幸せを探しているふりをする。さわさわと、指先に触れる弱弱しい葉っぱの感触を楽しむ。
「あ」
声が先に出て、気付いた。私の左の小指の触れた先に、四つ葉。最初からここにいましたよというような、涼しげな顔をして。シロツメクサに顔なんてないけど。
「ねえ」
四つ葉、あったよと言おうとした。みんなを見たら、みんなは何かを見ていた。緑の地面でも、私のほうでもない。港の、さきっぽのほう。なあに?
どうしたのと声を出すのもまた間に合わなくて、はじめに南海が、続いて真由が、立ち上がって駆け出す。白い靴下にいくつかシロツメクサをつけたまま。私もすぐに追いかける。出遅れた桜子があとにぴたりとついてくるから、訊いた。
「どうしたの」
「あのね、誰かいたの。きらきらの人が」
「え?」
きらきらの人ってなんだ、それ。
「あ、ひいちゃん四つ葉見つけてる」
指をさされてはじめて、自分がさっきの四つ葉を摘み取って、持っていたことに気づく。風が吹いて、私は指先に少し力を籠める。ちいさな四つ葉はほんのちいさく煽られるだけだった。桜子は『きらきらの人』のことはどうでもよくなったみたいに、にこにこしている。
「早く行こ」
四つ葉を持っていないほうの手で桜子の手首を掴んだ。


港の先の、細くなっているところに、『きらきらの人』はいた。見た瞬間、桜子がそう言っていた意味がわかった。
その人はまず、きらきらの銀色の、車いすに座っていた。海の光を鏡のようにうつして、光っている。それから、きらきらの金色の髪の毛をしていた。茶髪の延長の金髪じゃなくって、白に近い色。太陽の光をまっすぐ浴びて光っている。それから、その人はとても華奢で、美しい顔をした、男性だった。どれくらいきれいな顔だったかといえば……まず、芸能人かなと思って、そのあとすぐ、芸能人だろうな、と思ったくらい、かな。
ほんとのところを言えば、すごく失礼なのはわかっているけど、きれいな人が車いすに乗ってると、嘘で乗ってるみたいだなあと思ったのだった。
南海と真由が、ぎりぎり本人には声が届かないくらいの場所で、ひそひそしているのに加わる。
「きれいな人だね?」
「あのね聞いて、ひいちゃん、さくちゃん」
「聞いてるよ」
「あの人たぶん、絶対……」
南海が吐息半分で囁いたのは、なんだか聞いたことのある名前。真由が補足説明を加える。
「つまり、南海が去年ハマってた、アイドルグループの人!」
「なんでこんなところにいるわけ?」
桜子の当然の疑問に、南海は猛烈な早口で答える。
「彼ね、三か月前に体調不良が原因でグループを脱退したの。真相は分からずじまいなんだけど、もしかして病気で、それで車いすなのかもしれない。それで療養のために江ノ島に来てるのかもしれない、きっとそうに決まってる、だってあの顔の人が滅多にいる?」
「みなみん、落ち着いて……」
「本当だったら、すごいよね」
「元アイドルかあ、そりゃあきらきらするだろうなあ」
口々に、好き勝手に感想を述べたあと、少しの静寂が走る。私は恐る恐るって感じで口を開く。
「で、どうする?」
真由は悪い笑いを浮かべている。
「話しかけに、行く?」
「あったりまえでしょ!」
「ふふふふ」
行動力抜群の南海のことだ。こんなチャンスを逃しはしない。
「じゃ、そういうことで」
咳ばらいをした南海に笑かされつつ、私たちは不自然に寄り添いながら『彼』へ近づく、一歩を踏み出す。そして、二度と踏み出す前には戻れなくなる。


南海が、彼になにやら話しかけていた。日本語だけじゃなくて、私にはわからないどこかの国の言葉も使っているようだった。でも、そんなのは本当にどうでもよかった。私はひとりで、ひとりぼっちで奈落に突き落とされていた。
近づいて、目が合ったと思ったのだ。実際には不審にも近づいてくる四人の、白い服の、女の子、そのかたまりにチラリと目をやっただけなのだろうけど。切れ長で、涼しげなその目。髪の毛も肌の色も洒落たグレイの洋服もやけに白っぽいのに、瞳だけが真っ暗だった。瞼で影がかかって光を拾わないその黒色が、こんなに眩しい夏なのにひんやりと暗くて、だからなんというか、目が合った、というのは、こっちを見られたという感じではなくて、不意に穴をのぞき込んでしまったという雰囲気で。
恋に落ちるとは言うけれど、まるで飛び降りて死んじゃったみたい。
南海の声に、真由の声が混ざって、私の声もときおり混ざっていた。私は彼と、なにやら会話をしたらしい。みんな、彼を見ていた。一瞬たりとも見逃したら損ってくらいの勢い。
「ね、」
耳元に吐息。びくりとして反射で顔を動かすと、桜子だけはなんでか私を見ていた。例外だ。なんで彼を見ないの?
「ひいちゃんに、似てる」
彼と、私が。はあ。よくわからないけれど、桜子が、私を通して彼を見ていたことにひとまず安心し――例外っていうのは、胸をざわざわさせるから――南海の声に耳を傾ける。
「えー、毎日ここに散歩しにくるんですか!」
彼が頷くと、真由が提案する。
「じゃあ、明日も会いに来ていいの?」
「ちょっとマッケンジーそれはさあ」
「なんでミドルネームで呼ぶのよ。いいじゃん、会いたいくせに」
彼が、ぽっぽっと空気を吐き出すように笑って、私はその空気を瓶に閉じ込めて百年持っていたいと思った。片手に収まるくらいの小瓶に、コルクでぎゅうっと栓をして、耳の近くに持っていくとぽっぽって笑い声がする、そんなもののことを考えた。
「でもだって、そんなの迷惑ですよね?」
笑うばかりで話の進まない彼らとぼうっとしている私に、桜子がしびれを切らしたらしい。すごくなめらかにコーティングされているけど、ホワイトチョコレートの中に少しだけ不機嫌が透けて見えるような声色。でも彼は、会いに来てよ、と笑った。上辺だけをぺろりと舐めて、甘いねと言った。そこで私は、この人がアイドルだったらしいということを思い出した。恋に落とさせるのが、仕事のひと。だから、好きになっちゃだめ。
「明日も、絶対来ます」
力強く宣言して、みんなに笑われたのは、どうやら私のようだった。

その日、どうやって家に帰ったのか、帰ってどうしたのか、あんまり覚えていない。断片的な記憶が、それらしいけど大したメッセージ性はないミュージックビデオみたいに浮かんでは溶ける。暑いからって湯船にお湯は溜めないで、シャワーを浴びたこと。そのとき、自分のひどく白いおなかや、髪の毛のからまった手のひらを眺めて、桜子が似てると言ったのは色のことだろうなと思った。あとは、夕飯のデザートが桃、だったこと。見た目はとろりとして美味しそうに見えたのに、味はなんだか残念だった。桃が、間違えて二メートルくらい先に味を発生させちゃったみたいな、そういう遠い感じがした。喉にいがいがした感触が残って、コップにぬるい水道水をそのまま入れてごくごく飲んで寝た。


呪われたように江ノ島に通う日々がはじまってしまった。初日は、四人で。思い思いにおめかしをして集まると、それぞれの好みの違いが浮き彫りになって、げらげら笑った。
「みんな可愛くていいなあ、あたし、センスないからさ……」
「みなみんは、そういうのが似合うからいいんじゃん」
真っ赤なTシャツにデニムパンツの南海を、紺のマリン風ワンピースを着た桜子が励ます。真由は淡いピンク色のブラウスを纏って、普段よりぐっと大人っぽい。「本当に似合ってる?」ともじもじする南海は自分のTシャツと同じくらい顔を赤くして、
「あの人に、可愛いって思ってもらいたいな」
そう言った。ひゅうひゅう、と冷やかされて、もっと赤くなる南海は、本当に可愛く見えた。私は少しの間、下唇を噛んだ。
せっかくの夏休み、時間はたっぷりある。その日は、朝から海で遊んで、彼に会う頃にはへとへとになっていた。拾ったシーグラスを見せると、彼はいいなあと笑った。車いすじゃ、砂浜には行けないからって。
「それに、あなたは有名人だから、海水浴場なんかにいったら大変!」
真由が言えば、彼は薄い唇に人差し指を当てて、ヒミツのポーズをした。なんでもないようにウインクしたのを、私だけが見たのか、みんな見ていたのかわからない。
次の日も、四人で集まって、昨日とは反対側の浜に出て貝殻を拾った。桜子は、大きくて面白い形のやつ、南海は虹色に光るやつ、真由はちいさくて薄いのをいっぱい、私は真っ白な貝殻ばかりを集めた。彼は私たちの頑張りに敬意を表して、ちょうどいい具合に穴の開いたものをネックレスのチェーンに通して首に下げてくれた。私は白い貝殻が一番似合うと思ったけれど、彼がつけたのは南海と真由の拾ったのだった。夕日のせいでわからなかったけど、南海の顔はきっと赤かった。
また次の日。今度は島に渡って、タコせんべいを食べた。海を見下ろす展望台で、並んでぷらぷらと足を揺らした。毎日遊んでも、話すことはなくならなくて、ずっと楽しい。とりとめのない話題やふざけあいで、あっという間に夕方になる。漁港に向かいはじめると、なんとなく言葉少なになって、彼を見つけた瞬間また、えさを求める小鳥のようにおしゃべりになるのが変だった。彼は騒がしい私たちを見て、ぽっぽっと笑う。
そして次の日も、とはいかない。こんなペースで遊んでいたら、いい加減お小遣いもなくなってしまうし、塾の夏期講習だってあるし、南海と真由はテニス部の練習もある。だから私は、ひとりで彼に会いに行くようになった。どうしても毎日は行けなかったし、漁港まで行ってその姿をみとめて、それで満足して帰ってしまう日も多かった。それでも、できるだけ。出会った日に見つけた四つ葉のクローバーは、手帳に挟んで持ち歩いていた。節約のために、江ノ島に行って帰ってくる間ずっと喉の渇きを我慢していたら、帰り道で熱中症になりかけた日もあった。気持ち悪くて歩けなくて、汚い自動販売機によりかかって眩暈をやり過ごしながら、彼のことが好きだなあと思った。


〈ひいちゃん、遊びに行こうよ〉
桜子からは、よくLINEが来た。お誘いは、うれしい。推薦で決める生徒が大半とはいえ、来年は受験生だ。何も考えずに友だちと遊んでいられるのは今年限りかもしれなくて、ただそんな話をしていると、もっと充実した夏休みにしなきゃいけないような気がして少し疲れてしまう。
〈暑いよお〉
〈じゃあ涼しい場所でいいよ、カラオケとか〉
マイクを持ったウサギのスタンプ。私も持ってるやつだ。ずいぶん前にゆるい線のイラストが気に入って買って以来、こればかり使っている。桜子も買ったのかな。
〈ねえ、ひいちゃん~~〉
〈わかったわかった〉
OKの文字を掲げるウサギを送信。すぐに笑顔のウサギとスキップするウサギと感激するウサギが返ってくる。反応の速さが面白くて、しばしウサギの応酬。白いふわふわで画面が流れる。
〈じゃあ……江ノ島でいい?〉
私のメッセージに既読がついて、そのまま画面が動かなくなった。どうしたんだろう、と思ってしばらくぼうっと眺めていると、三分くらい経ってようやく返事が来た。
〈うん、いいよ!〉
ウサギはもう現れなかった。


桜子と遊んだ日も昨日ひとりで行ったときも話しかけられなかったから、今日は絶対勇気を出して話しかけよう、と思って、きちんと水筒を持って、一番気に入っているチェック柄のスカートを履いて家を出る。もう何も考えなくても、自然とたどり着けるようになったし、何度目かなんて数えるのもやめていた。面白かった本の話でもしようと、かごバッグには文庫本が詰めてあって、やけに重い。晴れているのに汗が噴き出すほど暑いというわけでもなくて、ただ眩しくてチカチカする。白飛びしてしまった写真みたいに、景色の細部があいまいなまま歩く。
いつも通りの色褪せた漁船が並ぶ港に、彼はいた。でも、ひとりじゃなかった。ふたりでもなく、三人。見覚えのある茶髪と、ポニーテールの、真っ白なセーラー服だ。ラケットケースを担いで、前に会った時よりこんがりと小麦色になった、南海と真由だった。
私は、青ざめて、バレないように走り去ろうとした。勢いで、荷物を入れすぎているバッグから水筒が転げ落ち、耳障りな音を立てた。三人がこちらに気づく気配がした。そうだ、南海だって彼のことが好きなんだ。こっそり会いに行っていたのがバレたら嫌われる。彼は私のことを話しただろうか。あるいは今までバッティングしなかっただけで、実はふたりも私以上に彼に会いに行っていたのかも。それならどうして彼は私にそのことを言わなかったの。ねえ。
「ひいらぎ?」
真由の声を無視して、私は逃げた。


ラッキーなのか、アンラッキーなのか、とにかく翌日は登校日だった。考えすぎてしまう前に、南海と真由と、それから桜子と、私たちはいつも通り四人で集まった。午前中だけで先生方には「ごきげんよう」をしたから、制服のまま、江ノ島の有名なパンケーキ屋さんに並んだ。
「昨日のこと、だけどさ」
店の前、遮るもののない強い日差しの中で、観光客に挟まれて肩身狭く寄り添い、私たちは小声で話す。
「ごめんね、逃げたりして」
「ううん。……びっくりした、けど」
桜子にもわかるように一通り昨日のことを説明して、私がひとりで何度か彼に会いに行っていたことも伝えた。南海と真由も、部活帰りに何度か、と言った。それでなんだか急に思い切って。
「私、好きなの。あの人のこと」
と言ってしまった。口からつるんと滑り出た。そのとき前のお客さんが呼ばれて、店の中に入っていった。生クリームのたっぷり乗ったパンケーキのことを考えて、胸が詰まった。私が彼のことを好きだからなんだっていうんだ。誰だって、彼のことは好きに決まっているのに。あんな目で見られたら、好きになってしまうのに。
「応援するよ」
「え?」
南海が、真っ白な半袖からすらりと伸びる焼けた腕を、私の肩に回した。薄い夏服の生地を通して、腕と手のひらの形にじんわりと体温が伝わってくるのがわかる。
「あたし、そういう気持ちがあるわけじゃないから。会いに行ってたのも、嫌だったら、ごめん、もうやめる」
「いやえっと別に、私も別にそういうつもりじゃなくて」
「なんで、好きなんでしょ」
「でもさ、彼は入院してるし、年齢だって離れてるし」
「そんなの関係ないよ!」
南海の声が大きくなって、ちょっと周囲の注目を集める。真由がしぃーって「静かに」のポーズをして、私はまた彼を思い出した。別に全然似てはなかったけど。
「……と、とにかく。あたしは彼のファンで、彼には幸せになってほしいの。病気だからこそ、支えが必要だと思う。ひいちゃんなら可能性あるよ、絶対」
あまりの熱弁に、首を縦と横に振ることしかできなくなった私に、真由が何かを差し出す。
「はい、これ」
昨日私が落とした水筒だった。象牙色のそれは、内臓をひとつ取り除いたみたいに大きくへこんでいる。どういうタイミング?って思ったものの、
「なんにせよ、うちらの中で取り合いにならなくてよかった、ね」
真由のそのセリフに、みんな笑ったから、どうでもよくなった。それからすぐに店員さんに呼ばれたけれど、生クリームたっぷりのパンケーキはやっぱり胸焼けするほど甘くて、桜子が具合を悪くして途中で帰ってしまった。


パンケーキを食べた日には、三人で彼に会いに行って、なんでもない話をした。夏休みは残り半分で、私の誕生日はもうすぐだった。帰りの電車で南海がとんでもない計画を立てた。
「誕生日に告白する。それしかないっしょ」
南海は自信満々で、セッティングは任せて、と胸を張った。
作戦はこうだ。南海と真由が部活の帰りに彼に会いに行って、それとなく私の誕生日のこと伝えておく。その日に四人で江ノ島で遊ぶってことにして、だからその日は絶対会えるねって印象付ける。
「あの人なら、絶対になにかプレゼントを用意してくれると思うし、おめでとうって言ってくれると思う。だからそのときに、好きですって言うの」
ひいらぎのいいところいっぱい伝えておくよ~、って真由が茶化して、私はまた頷くだけだった。
でも、私の誕生日が来る前に、彼は真由に告白してしまった。告白というか、個人的に連絡を取り合わないかって、こっそり、南海がお手洗いに行ったタイミングで。計画は予想外の破綻。南海がパニックで泣きながら電話してきて、私のほうが落ち着いていたから可笑しかった。
真由とはLINEで話した。
〈断るよ〉
〈いいのに〉
〈だって、好きじゃないもん〉
〈そんなわけないよ、美男美女でお似合いだし〉
〈……怒ってるよね、ごめんね〉
〈怒ってない、マケちゃんは悪くない!!!これホント〉
〈ていうかもう断っちゃったから、気にしないで誕生日は会いに行きなよ〉
ウサギのスタンプに笑ってもらって、手帳に挟んでいた四つ葉のクローバーを、ごみ箱に捨てた。しなびた緑は、摘み取ったときよりさらに渋い色合いになっていて、さすがにこれじゃ幸せとは呼べないと思った。


「ねえ、ひいちゃん。忘れちゃおうよ」
誕生日は、桜子とプールに行くことになった。辻堂駅から、バスに乗るのが面倒で歩き出したら、思っていたより遠くて全然辿り着かない。だらだらと歩きながら、桜子がずっと私を慰めてくれている。サンダルを地面に擦り付けながら、下を向いて歩く。
「それにしても、さすがにあっついね」
「プール日和、なんじゃない?」
「たしかに! 帽子とか、かぶってくればよかった~」
見ると、桜子の真っ黒な髪の毛が、一心に太陽の光を集めていた。つやつやとして、熱された金属みたいで、ぐらぐらと熱そう。触ってみると、本当に結構熱くて、笑ってしまう。
「私と比べてみる?」
桜子が私の頭を触って、えーずるい、とかなんとか言う。ずるくはないでしょって頭を振る。私の、薄い金色の髪の毛がゆらゆらと動く。額の汗をぬぐう自分の腕も、相変わらず真っ白で、まったくもって夏らしい感じがしない。
「……もう慣れたけど、ひいらぎって名前で、この見た目って最構驚いたな」
「そう? うちの学校なら、珍しくないかと思ったけど」
「そりゃさあ、マッケンジー真由とかは、なるほどねって感じ」
「古賀ひいらぎは?」
「ちょっと違う」
「違うかー……、あの人は、染めてただけだし、ね」
「ひいちゃん」
「似てるって言ったのは、さくちゃんでしょう」
桜子の視線から逃げるように空を見上げると、地面ばかり見ていたせいで明るさに耐えられず、ぱっと光がはじけて、ホワイトアウトした。一瞬の空白に、何度も夢想した光景が浮かぶ。
漁港、きらめく波、きらめく車いすに、彼。いつもと違って、なにかを持っている。白い花だ。彼はとても花が似合う。
「ひいちゃんってば」
駆け寄る私、彼は花を差し出す。とてもいい香りがする。私は幸せで、泣き出しそうになる。お誕生日おめでとうと彼が言って、私は。
「あの人は、もういないんだよ」
「わかってるよ」
真由に声をかけて断られたのが気まずかったのか、あるいはもともといなくなる予定であんなことを言ったのか、それ以来、片瀬漁港に行っても彼はいなかった。きっともう、二度と来ない。どうやったって、もう会えない。
「四つ葉のクローバー、捨てちゃった」
「え? あ、……そうなんだ」
私がもっと彼に会いに行っていれば、連絡先を訊かれただろうか。誕生日がもう一週間早かったら、なにか変わっただろうか。もっときちんと、幸運であったならば。
「私、あの人のことが忘れられない。あんな、あんな瞳をして、人を恋の奈落に突き落としておいて、知らんぷりのままなんて、ひどい。許せない、そんなの……」
私はいよいよ泣き出して、アスファルトに座り込む。隣に、桜子が座って、背中を叩いてくれる。トン、トン、トン、トン。
「そりゃあ、許せない、よねえ」
「うん」
「ひどいよね、無責任だ」
優しい言葉をかけられるほど、涙が止まらない。ゆらゆらが風景を覆ってしまって、嗚咽やら鼻水やらで桜子の声も聞こえづらくて、プールの中に沈んでいるみたい。トン、トン、トン、トン。規則正しく水が揺れる感覚に包まれて。
「でも、好きなんだもんね」
「……うん」
「わかるなあ」
トン、トン。急に波が止まる。私はちょっとびくりとして、水面から顔を上げて桜子を見る。桜子は不思議な表情で、私のことをじっと見ていた。
「その気持ち、すっごくわかるよ」
黒い髪が、光をすべて吸い込むように迫る。私は急に怖くなって、ちいさく息を呑む。
「…………わたしも、同じだよ」
そして桜子は、今まで見たことのない顔で、美しく微笑んでみせた。

・・・

わたしは、あのとき生クリームのせいにした吐き気が今度こそ抑えられなくて、唇を引き結んで耐えていた。きっとおかしな表情をしていた。ひいらぎの薄金の髪の毛が、夏の光のせいでほとんど白く見えるのがひどく眩しかった。

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