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「可愛い」で人を踏まないで

私のことをある程度知っている人であれば私が自分の顔面に対して並々ならぬ絶望を抱いていることはうっすらご存じではありそうです。最近はまあマスク生活だしそんなに気にしてなかったのに証明写真を撮る機会があったことと、とある流行り歌を聴いたことがきっかけで久々にどん底を見たので筆を取りました。

思い返せば中学生とか高校生くらい、自分の容姿みたいなものにやっと自覚が生まれてきた頃、なんであんなにまぶたの線にばかり拘っていたのか、懐かしくないですか?
私は元々一重まぶたで、例に違わずどうして二重まぶたじゃないんだろうと泣き喚き絶望し、二重にする道具をバラエティショップで端から買っては自分のまぶたはそれでもうまく二重にはなってくれないという事実にさらに崖から突き落とされ、私は顔が悪いせいで今後の人生は何ひとつ上手くいかないんだろうなと確信、生まれつき顔の良い人間に対して厳しい感情を抱くようになりました。まあ結論の部分は今もそんなにかけ離れたことを思っているわけではないのですが、まぶたの線だけでそこまでいくのはちょっと早急ですね。
でも「一重まぶたの絶望」について客観的に擁護すると、その頃のファッション雑誌やなにかに載っているお化粧というものは全て、二重まぶたであることを前提に解説されていたという事実があります。つまりお化粧やなにかに興味が出てきたウブな女子中学生や女子高生が希望を持ってページを捲ったその先で、あなたはそもそも例外であると、そういうことをする権利すらないのだと突きつけられたらそりゃ悲しいですよね。そうして見渡してみれば一般に美しいとか可愛いとされている顔はみなぱっちりおめめの二重まぶたで、ロールモデルなんていなかった。
もちろん顔についても「流行り」というものがあり、タイミングが悪かったのもあるでしょう。実際今は一重まぶたの美しい人も多くメディアに露出しています。私はまだ若く、見えている世界も狭かったし自分の美的感覚というものも磨かれていなかった。毎日お風呂で二重まぶたになれるようにマッサージをしていました。

大学生になって、日常的に化粧というものをするようになり、またその頃同時に顔を可愛く加工してくれるアプリというものが台頭しはじめました。私は募らせたコンプの影響で同年代の中では比較的遅いほうだったと思いますが、YouTubeで大きなメディアで取り上げられているような理想系よりもっとリアルなメイクの手法に出会い、自分だってこういうメイクをしたっていいんだと気づくことができたことにより、自分がよりよく見えるような手間暇をかけはじめます。化粧をして、さらに加工アプリを通して盛れる角度で見た自分の顔は、初めて可愛く見えました。ずっとではなくてもそう見える瞬間がありました。とても嬉しかったです。

ちなみに私がコンタクトレンズにせず度入りの眼鏡をかけ続けているのは、単純にコンタクトレンズにかかる手間暇(私の目は小さいのでレンズを入れるのがとても大変)やお金、という面もありますが基本的には眼鏡を外して歪みのない顔面を晒したときと、眼鏡をかけてある程度顔の作りを隠したとき、後者の方が「まだマシ」という理由によるものです。コンタクトレンズにして垢抜けるとかガチ眼鏡だと盛れないから云々というのは顔面の造形が平均以上の人特有の別世界の話だなと眺めています。プリクラで顔が反応しなくてご迷惑をかける点は本当にすみません。
でも、私は眼鏡をかけて、一重まぶたにごてごてのアイシャドウを塗りたくり異常な長さのアイラインを引いて下まぶたにラメを塗り、唇に真っ赤な口紅を差した自分の顔のことは許せていたのでした。写りの悪い写真は保存せず、ちょっといい感じの写真はひとつひとつ丁寧に加工アプリで顔面を修正してからカメラロールに並べることで自尊心を保つことができるようになったのでした。メイクが上手いねなんて言ってもらえることも増えました。元が悪いからこその創意工夫と手元の器用さを褒めてもらえて悪い気はしませんでした。

社会人になり、マスク生活の中で私は歳を重ね、誰にも見られないまま老けていきます。老けるのが悪いこととは思っていません。むしろ私は「若い女」として求められる平均点の高さからは一刻も早く逃げ出したくて、それでも自分の顔が変化していくという単純な受け入れられなさはとてもあります。そもそも微妙なバランスで保たれていたギリギリのクオリティが崩れると私はまた自信を喪失してあの頃に逆戻りです。
半年前かそのくらいから、片方のまぶただけが二重になって、戻らなくなりました。中高生のころのマッサージの賜物でしょうか。あんなに欲しかった頃には決して手に入れられなかったものが、本当に絶対に今じゃないタイミングでやってきました。人生ってそういうものです。
私はあの頃と違って、色々なものを見て自分なりの美的感覚も得て、私の顔の悪いところは一重まぶたではないことに気づいています。輪郭やパーツ配置、その大きさ、骨格の立体感。整形をしたいと思ったことは実際ないのですが、今は心から、どう改善しようもないとお手上げです。
二重まぶたの目は顔のバランスをより一層崩し、小さな黒目をより貧相に見せ、間抜けな表情です。一重のままのじっとりとした目と並んで左右であまりにも違う顔をした自分が証明写真機から排出されたとき、私はその醜さにちょっと泣いてしまいました。

整形や美容医療については、その世界に踏み込めるレベルの顔を持ち合わせていないこととは別で色々考えていて、あれは見た目の良さが特に女性にとって生きやすさに直結することを、その胸糞悪い事実をどちらかといえば加速させる産業だと感じます。美しさはお金になります。今私たちが生きている世の中はそういう世の中なので、そこに適合して生きていく上でその選択肢があるとき、選ぶも選ばないも自由だと思います。嫌なビジネスだなと思ってしまいますが、多くの人の心を救っている仕事でもあると思います。
こんなことを言いながら私は写真において自分の顔を加工をする人間ですから、何の整合性もありません。加工といってもフィルターをかけてとか、肌を明るくきれいに見せるとかそういうレベルではなく、パーツひとつひとつを歪ませてサイズを変えて写真の上で整形を行なっています。これこそ自分を救うために始めた手法だったけれど、可愛く加工できたら今度は人に見せびらかしたくなるし、自分の中だけにはしまっておけない。「顔は綺麗な方がいい」という価値観に縛られた上で周りにも少なからず発信してしまっているという意味で美容医療産業を批判する資格もないですね。

すでにここまで読んでいる人がいるのかわからないくらい長いですが、最近流行っている曲を、何気なく聴いてものすごく怒りが湧き起こった話をしてこのnoteを締めます。

私が私の事を愛して
何が悪いの?嫉妬でしょうか?
痛いだとか変わってるとか
届きませんね。そのリプライ
可愛くてごめん/HoneyWorks feat.かぴ

タイトルでやや警戒はしていたもののセルフラブというテーマ性を感じられるこの冒頭は私の大好きなITZYの曲にも通ずるようで、ふむふむと聴き始めました。ちなみにこの曲がどれくらい流行ってるのかというのは正直知りません。私はボカロの踊ってみた動画をよく見るので最近話題の新曲だなと思ったまでです。

Chu!可愛くてごめん
生まれてきちゃってごめん
Chu!あざとくてごめん
気になっちゃうよね?ごめん
可愛くてごめん/HoneyWorks feat.かぴ

タイトル通りのキャッチーなサビも、流行りそうだな〜というくらいでキレる要素は別にありません。ただ、サビの後半がちょっと地雷でした…。

Chu!可愛くてごめん
努力しちゃっててごめん
Chu!尊くてごめん
女子力高くてごめん
ムカついちゃうよね?ざまあ
可愛くてごめん/HoneyWorks feat.かぴ

なんか、この人の可愛さには他人を見下して「ざまあ」って思わないという要素は入っていないんだなと思ったら、あまりにも見えている世界が違う気がしました。この曲の肯定してくれる「可愛い」は私が思っているものじゃないんだとやっと理解して勝手に怒りを抱いただけで曲は悪くないかもです。そもそもターゲットではなかっただけなので。

私もこの記事ではあえて容姿に対して美しさ/綺麗さ/可愛さという表現をごちゃ混ぜにして使っていますが、この曲が表現している可愛さは、ある程度明確に容姿のことだと思います。こだわり抜いた自分の容姿の完成度に救われながら生きていく女の子を応援する歌ですよね。HoneyWorksさんの曲はステレオタイプをうまく使って共感を呼ぶところが特徴的なので、「女子力」とか「あざとさ」「ぶりっこ」という言葉の使い方や女子同士の陰口といったモチーフの使われ方がなんか古いなとは思いつつ、実際マスに届くのは今やっとこのくらいなのかなと…馬鹿にしすぎですか?すみませんキレてて。

私の顔はやや醜いです。それは美しさという基準がある中で事実です。そのまま壁にかけて飾って眺めたくなるような美しい顔があったとしたら、私の顔ありのままは直視すると気分が害されるかもしれません。それをスキンケアやお化粧で綺麗にすることはできます。造形が美しくなくても綺麗にしておくことで対人印象は良くなり、自分にとっても気持ちの良いことです。
可愛い、は美しさや綺麗さとは別の概念です。もちろん「顔が可愛い」というときそれは造形を差していることがありますが、しかしそれは美しさとは違う基準です。とにかく大きな瞳が可愛いと思う人もいれば、控えめでつぶらな瞳が可愛いと思う人もいます。可愛いは多様性です。
それに、延々と顔面と容姿の話をしてきてやっとここに辿り着きますが人間は見た目だけではありませんね。声や動き、表情や性格や発言、そういうものがあります。もちろん「可愛くてごめん」の女の子だって洋服やメイク、振る舞いやマインドを含めてなんとか自尊心を保って、理想の可愛いになれるために頑張っているんだと思います。それがちょっとテンプレートにすぎたとしても。それはいい。
でも、ステレオタイプに迎合してそうじゃないものを踏み潰すのはやめてほしい。時代の正解の輪に入れていることに安堵するばかりなのは。それはやがて自分の首を絞めることだし。例えば若さこそが美しさと信じ込んでいる人は歳を取ったらどうするんだろう。マイノリティの側が一生懸命育ててる「それぞれの可愛さだよね」なんなら「可愛くなくたって別にいいよね」などをざまあと汚い言葉で見下さないでよって思いました。あなたが勝ち組であり、そうあり続けたいことはわかってるし全然面白くない。

(私は「結婚しないでもいい時代にあなたと結婚したいと思ったのです」的な某コピーが必死で育てた「結婚しないでもいい」を笑顔で踏み潰してるのが全く許せないという思想の人間です、悪しからず)

今歌にして可愛いを歌うなら。可愛くなくて苦しめられてなんとか可愛いになれても過去の自分を苦しめたいわけじゃない、そういう微妙な気持ちとか、まだ誰も見つけてない可愛いを見つける話とかがしたい。フィクションの力を借りて私の左右対称なまぶたの形は、もしかしたら可愛いになれるかもしれません。

かわいそう抜きでもかわいいし
わたしをぎゅってしないなんておかしい
family name/METAMUSE(ZOC)

可愛くなりたいと願ってしまったみんなが、手持ちのカードに関わらずぎゅってされる世の中でありますように。

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