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アリス、イン、ワンダー

昇降口、って言葉を何年かぶりに思い出した。四角い靴箱が積み重なって図書室の本棚みたいにずらり。コンクリの床の上にすのこが敷いてあって一段上がった床に接続してる。そういう、学校でしかあんまり見ないような広めの玄関口に私はいる。つんと塩素のにおいがして、余計に懐かしい気分になった。
「さあ、靴を脱いでロッカーに入れるんだ!」
 目の前を浮遊している白くてふわふわした物体が甲高い声を出す。
「それくらいこの光景を見たらわかるけど」
「ボクがついているから安心して!」
「耳とかある?」
「くんくん、なんだかプールみたいな匂いがするな」
「そのくだりはもうさっきやった」
「なんだか学校の入り口みたいだね! こういう場所ってなんて呼ぶんだっけ……」
私は頭の悪いふわふわことラビの、頭頂部に結ばれた真っ赤なリボンがひょこひょこ揺れるのを無視して、靴を脱ぐことにした。
季節は夏。黒い革のサンダルをロッカーに仕舞えば素足。プールを連想したのもそのせいかもしれない。私はロッカーの番号を覚えた。024番。
「こうやって靴を仕舞うと、なぜだかまたここに戻ってこられるんだって思い込んでしまうよね!」
キンキン声が頭上でぐるぐる。ラビは靴を脱がない。なぜなら靴を履いていないから。ていうか足ってあるんだろうか。おしゃべりな口と鈍感な耳と普通の鼻はあるんだろうけど、詳しいことを私は知らない。自分の守護霊にさわることはできないから。
ぺたり、と音を立てて足の裏が床に吸い付く。石のようなひやりとした感触が背筋まで伝わって、ふるりと身体が揺れた。
「ふるえてる! 寒いの?」
寒いわけでも、暑いわけでもない。人工的に作り出された完全な適温だと思う。風もなくて、皮膚と空気の間があいまいに溶けていくようで、なんだかぞわぞわする。
「こういう快適な温度は骨を疲れさせることがあるよね」
「エアコンの話? 寒くないなら早く進もう!」
「わかった」
私はもう一度、目の奥が乾くような水素のにおいを大きく吸い込んで、進むべき方向へと歩き出した。

先ほどからわが物顔で物語を進めている「私」はいったい誰なのか? と思われた方はちょっと我慢して先に進んでもらえれば、きっとわかるときがくるからね。勘の良い人ならもしかしてすぐにわかってしまうかも。
それでもこのままじゃあまりにもよくわからないだろうから、今が令和23年の7月25日で、私は19歳ってことを教えてあげる。家出をしたいお年頃だから、人のいない埋立地のほうに迷い込んでみたの。そうしたらラビが急にこっちこっちって時間に追われているみたいに走り出して、追いかけたら海のすぐ近くなのにもじゃもじゃの緑に覆われた大きな建物に辿り着いた。廃墟かと思ったけど裏に行って電源装置を蹴りつけたら電気がついて、満を持して玄関に突入したのがさっきのこと。
ここでなにか見つかるといいのだけど。例えばサラが死んでしまったわけとか。

「滝だ」
「滝だ!」
私は光の滝の前に立って、馬鹿みたいに見たままのものを声に出した。
「滝だ!」
ラビに至っては大きな声で二回も言う。ラビは本当に馬鹿なのだ。
裸足で進んできた道は、途中からカーペットのような感触になって、少しだけ上り坂の一本道だった。どんどん暗くなってぽつりぽつりと足元に光が灯って、森に落ちてるパンみたいに私たちを容赦なくそちらへ誘った。一度角を曲がって、そうしたら突然光の滝。
暗闇に眩しさ。はじめただ一本の光としか認識できず、なにか特殊な力をたたえた剣とか槍とか、そういうものが暗闇の中で浮きあがってきらめいているのかと思った。でも急にそんなファンタジー展開がはじまるはずもなく、上から下に向かって落ちる、滝だった。光の滝。でも実態はある。手を伸ばすと本当に水が落ちてきていて、ああだからこそ、こんな風に光るのか。
「どんな風に?」
大きな宝石が連なって、回転しながら落ちていくように。ひとつづきのはずの水が光によって区切られて、あるいはひとつながりのはずの光が水によって分散させられて、虹色をたっぷり含んだ白い、輝き。それがまあまあのスピードで目の前を通り過ぎ続けている。とめどなく、だけど本物の滝のような半永久の凄みはなくて、きっと誰かがスイッチをピッと押したら一瞬で終わってしまうのだろう不安定な軽さがある。
「きれいだねってこと?」
「そういうこと」
「ボクもそう思う!」
ラビは嬉しそうに回り、ぷりぷりと白い残像になる。それを見たら私も嬉しくなって、ラビに聞いてみる。口角が上がってにやにやしているのが、自分でもわかる。
「私がここに何をしにきたか、覚えてる?」
「当然だろ! ええっと……えっと……」
「カミサマを探しにきたんだよ」
「そうだ、その通り! カミサマというのはだなっ」
白くてふわふわがぼんやりと浮かび上がって、赤いリボンは闇に沈んでよく見えない。私のそばにずっと居てほとんど私なのだけど、ラビという外部がなんとなくバランスを取ってくれている気がしていた。今まで、ずっと。
「ラビ、ごめんね、嘘だよ」
私はそう言って、滝の横に見つけたぽかりと空いたドアに、ゆっくり足を踏み入れる。視界の黒が急激に濃くなって、目を閉じた。ころんとひとつぶ涙が落ちた。

足元がぐらりとして、身体の重心を保てなくなる。両手を振り回してもどうにもならなくて、重たい頭が私を傾かせる。
「危ないっ!」
結論から言えば危ないなんてことはなく、私は柔らかいソファのようなものに倒れ込んだ心地よい感覚を味わい、そのあまりの平和さに混乱してしまう。なんだこれ。辺りは濃い闇でなにもわからない。手を伸ばしてもなにも掴めず、突然床がふかふかしはじめた世界で心地よく溺れる。
ソファみたい、と言ったのは本当で、伸縮性のある布に包まれた細かいビーズの感触。立ち上がろうとしてもうまくバランスが取れなくてまた倒れ込み、大の字で埋もれていくのが気持ちいい。さっきより少し涼しくなった空気と、身体を包み込むクッションが脱力を導く。家のベッドで起き上がれないまま二度寝する感覚を思い出す。出かける時間なのにお父さんの化粧がまだ終わっていなくて、ママがイライラしている声。あるいは平日に、妹がクリーニングに出した制服のズボンを探して歩き回っている音。それらが扉を隔てて遠くから聞こえている瞬間のこと。私はまだ起き上がれなくて、サイドテーブルに落ちている、死んだようなラビを薄目で見ている。
「大丈夫? こっちのラビを見て!」
 主張の強い声のおかげでうつらうつらと迷い込んでいた過去の世界からはっと目覚める。まぶたを何度かぎゅっとつむって、暗闇に目を慣らす。気付くと水のにおいが消えていた。
「甘い匂いがするよ。眠くなるような仕掛けだね!」
 見上げると、ぴこぴこと左右に激しく動く白い姿がある。眠気を振り払っているらしい。ぐるりと見まわせば広めのリビングダイニングくらいの四角い部屋で、壁や床がすべて黒いビーズクッションで覆われているのだった。入ってきたドアの対角線上に、もうひとつドアがある。
「ラビ……」
「大丈夫、ボクがついてるよ!」
私は頷いて、泳ぐように出口に向かう。細かいビーズが滑らかな布を通じて私の形に歪んでいく。水に浸かることは抱きしめられることと同じだから、みんな海やプールに入りたがるんだ。けれどずっとそこでは暮らせない。自分の輪郭をはっきりさせるのは、孤独を実感することと同じだから。
サラは、世界に愛されていないと言った。どんなに私がサラを愛しても、世界の大きさには勝てなかった。自分のことなんて知らないほうがいい。世界のことなんて誰かに任せておけばいい。でも。
「さあ、次へ!」
辿り着いた次のドアは、黒いヴェールで覆われていた。向こうからぼんやりと明るい光が見えている。

『カミサマについて学びましょう』
と先生が、デジタル黒板の前で逆光になりながら、言っていた。悪役みたいに眼鏡だけが光っていたのをなぜだかよく覚えている。小学校高学年になると、週に一回カミサマの授業があって、と言ってもカミサマが授業をしてくれるっていうことじゃなくて(そうだったらいいのに)、カミサマについての短いエピソードを元に班になってディスカッションをしたり、それを代表の子が発表したりする時間ってことだ。中学生になるともう少し長い教材映像を見たり、実際にいろいろなカミサマを持つ人の話を聞きに行ったり一緒に体験したりもする。
私はちょうどその〈カミサマ体験〉と生理を止めておくための子宮の手術が重なってしまって、話を聞き損ねたのだけど。別にそういう女の子は珍しくない。どうしたって生理周期に合わせて予約をするしかないのだし、自治体からの通知が来るのは突然だ。学校行事の日程なんて一年も前から決まっている。もちろんあとからオンラインで補講を受けることもできる。
私が画面越しで話したのはふたりの女性で、ひとりめのカミサマは大学のサークルで知り合った男性だった。私のママとかと同じで、互いをカミサマとし、同じ家で暮らしている。ただ、その人は子どもを産みたくはないと言った。
『子どもを産んだとしてもわたしのカミサマはこのひとでしかないし、子どものことをカミサマにできないと思うから』
30分くらい話をして、その人には父親がいなくて、母親の唯一のカミサマとして育ってきたからそういう風に思ったんだと分かったけれど、別に母親や父親のカミサマなわけじゃない私は、それでもママのことが一番好きだけどなあと思った。私がママのおなかから出てきたことだけは永遠に事実だから。誰とも繋がれなくても、揺るがない繋がりだから。
ふたりめのカミサマはダンスだった。ひとりめの人がどんな人だったか正直全然覚えていないのに、この人の高い位置のポニーテールと、黒く跳ね上がり白で装飾が加えられたキャットラインは今も忘れられない。黒目の割合の多いつぶらな瞳がリングライトの丸い光を受け止めてきゅるるんと瞬いて、蛍光オレンジ色の分厚い唇が大きな笑みで薄く引き伸ばされたとき、私はずきゅんと恋をした。
『ダンスが大好き! 今はスタジオ付きの講師として子どもたちから大人まで、週に10クラスを受け持っているの。小さな事務所に所属していて、たまにバックダンサーの仕事をしたりチームを組んでイベントをやったり……』
はきはきと動く口元や揺れる髪の毛、それから少しハスキーな声に聴き入ってぼうっとしていた。この人がアイドルだったらいいのにと思った。私はアイドルをカミサマにするのは、ちょっといいなあ、と思っていたから。
『もっとダンスで有名になりたいけど、結局生活のためにはダンス講師の仕事をこれ以上減らせないし、難しいなあって! それでもあたしは踊ってれば幸せだから』
あたしのカミサマはダンスだから。と笑うその顔に、胸の奥が痛めつけられて心臓がどきゅんどきゅんと過剰な酸素を全身に送った。沖縄と東京っていう距離がなかったら、そのときすぐに彼女をカミサマに決めたってよかったくらいだったのに、質疑応答で精いっぱい延長した45分が終わったら画面の中からケロリと消えてしまって、そうしたら私の気持ちも2日くらいであっさり消えてしまった。友だちにそのことを話したら、恋を愛に育てるのは大変だよねと言われた。
『アイドルをカミサマにできる人は、すごいよ。遠い存在に恋するのは簡単だけど、愛まで育てて永遠にするのは簡単じゃないもん』
ていうかこの前の炎上、見た? と友だち。未婚であることがバレて叩かれていたアイドルのこと。タイムラインにはたくさんの気持ちが飛び交っていてとても怖かった。たくさんの人のカミサマになるための職業であるアイドルは、結婚している、つまり既に誰かと互いにカミサマでありそれに契約で鍵をかけていることが貞淑のために当たり前とされる。別に法律でもルールでもない。ただ、当たり前。
『あ~あ、結婚してアイドルになりたいなあ』
その友だちは可愛くて、歌が上手くて、人との関係を築くのも上手で、確かにアイドルに向いていると思った。卒業するまではずっと一緒にいたのに、いつの間にか会えなくなって、今は少しも友だちじゃないからさみしい。友だちって、相手が自分のことを嫌いじゃないって信じられることだ。こんなに離れてしまって、私はもう信じられなくなってしまった。あの子も、あの子も、それからあの子も。
高校生になると残されている時間は少ない。20歳になる前に、自分のカミサマを探して決めておかなくちゃいけないんだ。私は、私のカミサマを探して彷徨った。そして高校を卒業して、19歳になった。

「ひゃっ」
ヴェールをくぐって一歩踏み入れた瞬間、私は素っ頓狂な声を上げた。声の響きで天井が高いことがわかる。いやそんなことより。
「どうしたの?」
「見てわかるでしょ。ここ、浅いプールになってる」
「本当だ! プールだ! さあ泳ごう!」
「だって私のふくらはぎくらいまでしかないけど、ラビなら泳げるんじゃない? でもなんだか白濁していて……これ、入ってよかったのかな」
「うわあ! 白い水だ! 気持ち悪い……」
「気持ち悪いって言わないでよ、それに現在進行形で足をつけてるんだから」
「嫌だ~、ボクに絶対水をかけないでね~」
自己中心的な白い毛玉が高い天井を上へ上へと飛んでいくのにため息をついて、私は慎重にこの部屋を観察する。さっきの部屋よりは薄明るくて、ただし人間の視野に十分な光量とは言えない。水の温度はぬるま湯くらいで、冷たいという感覚はなかった。最初から感じ続けていた水素のにおいの発生地はたぶんここで、ということは殺菌されているのだという安心感が少し。ぬるぬるすることもなく、ただ床から20センチ程度が水没しているだけの部屋。さっきのソファの部屋といい、なんだか変な部屋ばかり。
「早く次に行こうよ~、あるいはもう帰ろう!」
「ちょっと待ってよ、進んでるけど怖いんだから」
「ねえ~ボクなんのためにこんなところに来たの?」
ラビの声が遠くから弱々しく届くのを無視しようと、顔を床に、つまり水面に向けたとき、何かが通り過ぎた気がした。まるで魚、みたいな動きだった。こんな水で生き物なんて、と【魚】が逃げた方向を見やると、また視界の端に違う動き。それを追いかけるとまた。
「ねえラビ、見てよ!」
気付けば白濁した水面のあらゆる場所に、色とりどりの【魚】たちがすいすいと泳いでいる。もちろん本物じゃない。天井が高いのは水面にまんべんなく映像を映すためで、水が濁っていたのはスクリーンにするため。天井から照射されるカラフルな光が、魚のように水面を踊っている。足のすぐ近くを通り抜けるとき、なにもいないはずなのに不思議とくすぐったいような気持ちになったり、あるいはわざと水面を乱すと魚たちは形を保てなくなり、白濁の水に取り込まれて消える。
「ラビってば! ラビ?」
見上げてもラビらしき姿はなく、慌てて探したら水面に落ちてびしょびしょになっている固まりがどんぶらこって流れてきた。突然天井のライトが発光し出したのに驚いて落ちたらしい。まあびしょびしょだろうがなんだろうが、ラビがいたので私は安心する。
「私がなんのためにここに来たか、本当のことを教えてあげようか」
返事はない。魚たちの動きはどんどん激しくなる。輪郭をとらえられないほど速く、たくさんの魚たち。様々な色の残像が交じり合って、水面全体がだんだんと白く光り始めている。
「サラが死んだからだよ」
魚はもう魚ではなく、太くたくましい光として水面に見事なラインを描く。赤、青、紫、オレンジ、ピンク、強い原色の光が、筆で描いたような力強い軌跡を水面に消えずに残す。広いはずの水面はあっという間に埋め尽くされて、すべての色になって、真っ白に光り輝く。
「サラはどうして死んだんだろう!」
ラビの声がした。重そうな身体で水面ぎりぎりを不安定に飛行しているのも見える。赤いリボンが水に濡れて、血のように身体に張り付いているからぎょっとする。鮮やかさを増し続ける水面が眩しくて、目がしぱしぱ。水素の刺激臭も相まって、涙が出そうだ。
「サラはカミサマを見つけられなかったんだよ」
20歳というリミットが迫るにつれて、サラはどうしようもなく泣いてばかりだった。カミサマはなんてなんでもよかったのに。泣いたってカミサマは見つからないのに。
泣いてぐずぐずになると、虹彩認証がうまくいかなくなるから、涙を流しているときはいつもパスワードを打ち込むんだってサラは言っていた。サラの瞳は黒色だった。光の強い場所では緑がかって見えることもあった。サラはひどく泣き虫で、真っ黒な瞳をよくよく濡らしていた。
「涙をいっぱい流しても顔が濡れるだけで、血をいっぱい流したら面白いんじゃないかなと思った」
私はあのときのサラになりきってつぶやく。
「流した分だけ死んでいく感じとか、あるいは生きている感じとかがして、楽しいだろうな」
「でもきっと痛いよ! 涙と違って服とかも汚れるし」
「涙でも服は汚れるよ」
「そうなの? 透明だから平気なんだと思ってた!」
「体液なんて全部汚いに決まってるじゃん」
水面の光の盛り上がりが最高潮に達したその瞬間、ろうそくを吹き消すようにすべてが消えた。薄暗い部屋と水に足を突っ込んで泣いている私だけがそこに残り、拍子抜け。
「行こうか」
私は次のドアに向かって、惨めにちゃぽちゃぽと水音を立てながら、ぼたぼたと水滴を落とすラビを連れて歩く。

ドアを出ると続けざまに次の部屋、ではなく、待合室みたいな、街の中でほっと一息できるところみたいな、要するに座って足が拭ける場所が用意されていて、私は設計者の意図に転がされるように椅子に腰替え、足を乾かした。壁や床と同じ、暗い赤色のタオルが畳んで積んであるけれど、さすがにいつから置いてあるのかわからないそれらを使う気にはならない。と思っていたら馬鹿なラビがタオルの山に思いっきり飛び込んだ。
「ひゃっほう! タオルがあるなんて親切だなあ!」
「…………」
「うぉ! なんだかカビ臭い? うわあ! 埃まみれだ!」
「…………」
汚れを落とそうと床に転がるラビはしかし、すでに本来のふわふわを7割くらいは取り戻して元気そう。私はひらひらと足を揺らして水滴を落とす。
「ねえ、もしかしてここって廃墟? だあれもいないし!」
「…………」
「そうだ、廃墟だった! 運よく電源が作動したんだったね」
私はなかなか乾かない足を、ラビのように床に擦り付ける。ごしごし擦る。きっとこの床だってタオルと同じくらい汚いのだから、タオルを使えばよかった。少なくとも床よりは優しく、この足を包んでくれただろうに。
「でもさあ、おかしいな! 電源装置を蹴り飛ばしたくらいでこんな大きな施設が何事もなかったかのように動くかな?」
最初の部屋に戻りたい、と思う。暗くて、ふかふかで、心地よい。きっとこの先はもっと明るくて、私にはきっと耐え切れない。
「ねえ、さ――」
「ラビの寿命がもうすぐだから、それで奇跡でも起こしたんじゃない?」
「意地悪なことを! まあ確かにボクの寿命はあと……」
「一週間」
守護霊は20歳の誕生日に死ぬ。守護霊はカミサマを見つけるまでのパートナー。守護霊と別れることも大人になるためのワンステップ。誰もみな、自分の一部を殺して大人になる仕組み。感謝の気持ちを伝えて、きちんとお別れをするデモンストレーションなんて、現実じゃほとんど役に立たないのにね。
「ラビは幸せだった?」
「え! うーん? ちょっと待ってね今思い出すから」
「こういうのってすぐにいい感じの答えを出さないと意味ないけど」
「だって思い出せないんだ! でもなんかたぶん、幸せだった気がするよ!」
ラビの大馬鹿。そんな信頼のおけない答え方されて、信じられるわけないのに。それでも薄汚れた白い毛玉は、満足げに私の頭上に浮いている。
「ボクは、ずっとボクでいられて幸せだったよ!」
「じゃあさ、サラも、幸せだったかな?」
「きっとそうだよ! たぶん!」
頭の悪そうなラビの声が静けさを性質として蓄えている壁たちに吸い込まれて一言残さず消えていくけど、私はその台詞で少しだけ気持ちを上向かせる。私はサラが好き。とても大好き。サラの水色のワンピース、黒い瞳、長くゆるやかにうねる髪の毛、そのすべてが、かけがえのないものだと思う。サラはきっと幸せだったってたくさんの人が言ったらいい。適当でも嘘でもいいから。
「ラビ、行くよ」
次の部屋へ。スカートのすそを翻して、立ち上がる。どんな場所だとしても、先に進むしかない。私にできることはもうそれしかない。

網膜に閃光が焼き付いて、目を閉じてもピンクと緑が眩んでいる。
「なんだっ、ここ!」
目を瞑ったまま、光の渦の残像に翻弄される。踏み入れた瞬間、思わず両手を顔の前に出して、いわゆる眩しい人のポーズをしてしまった私は、一度気持ちを落ち着けてゆっくりと目を開ける。そこは上も下も右も左も降り注ぐ光のシャワーに覆われたまばゆい世界だった。鉄琴を叩くような金属由来の硬く弾ける音の集団がうねりを帯びて鳴り響き、それに合わせて光のシャワーも素早く姿を変える。白から赤へ、赤から青へ、グラデーション、そして虹色。
「大丈夫?」
私はラビに声をかける。ラビは大きな音や強い光は比較的苦手なほうなのだ。ラビはもふもふした両手らしきもので目だか耳だかを抑えながら、頷くような動きをしてみせたのでよしとする。
今までの四角く見渡せた部屋とはかなり様子が違い、チカチカときらめきやまない中をよく見れば、一本道がある。私は慎重にその道を進む。
しばらく光を浴びていると、その動きの演出パターンはいくつかのバージョンの繰り返しになっていて、きちんとプログラムされたものだとわかってくるけれど、それでも突如移り変わるその気まぐれにいちいち心臓が驚いて、恐ろしいものと心動かしてくれるものの差異なんてほんの少ししかないのだと悟る。
「明るい宇宙、みたい」
「ちょっと音がうるさいけどね!」
暗闇の中で懸命に輝く星たちに対して、ここにいるのはこんなにも明るい中でさらに輝くものたちだ。どっちのほうがつらいかな、なんて。
「輝くのはつらいことなんかじゃないよ!」
「ラビ、」
「輝くために輝いてる人なんていないよ! それを懸命にとか必死にとか形容するのはなぜだかその輝きを鑑賞する側に回って安穏している輝くのをやめた人たちの勝手だよ! 全ての魂は生まれつききらきら光っているんだよ! 忘れないで、絶対に忘れないで!」
ラビの高い声がキラキラ音と融合し、この広いであろう部屋中に響き渡るように聞こえる。頭を直接揺らされているような逃れられないアナウンス。反響。
「ただ輝いていたいだなんて、そんなの許してくれないくせに」
「そんなこと!」
「そんなこと、あるよ」
ゆるやかにカーブしながらしばらく進んで、そろそろなにか変化がありそうという気配は感じていた。部屋という限られた空間にいるはずなのに、床という確かな地面を踏みしめているはずなのに、どこまでも広がる光のシャワーの中、ぽかりと浮かんでいるような感覚に浮足立って、私はどうしてそんな風に見えるのか、単純な仕組みについて考えるのを忘れていたのだった。
視界が開けて、ぽかりと空いた場所に出る。向こう側に、誰かがいた。
私が近づくと、誰かも近づく。だんだんと人影が、女の子の姿になる。鮮明に見えてくる。水色のワンピース。長い髪。
「ああ! ボクはなんてことを忘れていたんだ! ああ!」
ラビが苦悶の声を上げる。本当に、馬鹿で可愛い。私の一部。
黒い瞳がこちらを射抜く。少し汚れたままの素足でぺたりぺたりと迫ってくる。それは、その顔を紛れもなくサラだ。
「ボクはもう、ええ? そんな!」
喚くラビの悲壮なキンキン声が盛り上がり続ける音楽と共鳴して、部屋中が音叉になったような耳をつんざく震えが走る。無機質な光たちはもう宇宙には見えなくて、それは鏡張りの部屋に大量のLEDライトを吊るした、美しさと刺激のための、効率的な方法だ。
私は鏡を見る。そこにサラは立っている。
「サラはどうして死んでしまったの?」
私は言う。
「この世にあるなにもかも、信仰したくなんてなかったから」
私は答える。

「目の前にいるのがサラだってことと、サラが死んでるっていうこと、どっちも知っていたのに結びつけるのを忘れてたんだ!」
「だからラビは消えずに済んだんでしょ」
「そうだよ! ボクはサラの守護霊なんだからサラが死んだら消えるのに! サラは死んだんだ!」
「そう、それで私がサラだよ」
大広間から続きの道を見つけ出した私は、仕掛けのわかってしまった部屋をすいすい歩けるようになった。ただし、興奮状態のラビはあっちこっちにぶつかっては鏡に跡をつけて神秘的空間を台無しにしている。
「じゃあさ、ボクは今すぐに消えたほうがいいってわけ?」
「いやあ、もうだいぶ経っちゃったし、少しくらい伸びても構わないんじゃないかな」
「それもそうか!」
「私はラビがいてくれると嬉しい」
「ええ~照れるなあ~、相棒!」
「気がまぎれるし、馬鹿すぎてどうでもよくなるからね。それに相棒じゃなくてラビは私。だから私たち、じゃない」
「ひどいな~落ち込むな~、もう消えようかな……」
「そういうところが」
「大好き?」
「全然好きじゃない」
ふふ、と微笑んで軽やかに次のドアをくぐる。そこは私の身長よりひとまわりくらい大きなボールたちが跳ね回る、日本指をぴっと広げて拡大したボールプールの底みたいな部屋。経験則上このまま部屋の対角線をたどっていけば次の部屋がある。
「でもちょっと、ボール遊びでもしちゃおっか」
「それってすごくいいアイデア!」
「どうせもう死んでるし」
「ハハハハハ!」
ラビの笑い声に乗せて、私は思い切り走り出した。手近なボールに身体ごとぶつかると、乳白色だったボールは青色に発光したからこれは楽しい。そこらじゅうのボールを触りまくって、持ち上げて、壁にぶつけて、床にたたきつけて、部屋中が私の筋肉の躍動と飛び散る汗でイルミネーションされていく。極彩色の光をコアに持ちながらミルキーカラーに淡くまたたくボールたちがあっちへこっちへぼよぼよと跳ねくり返って、ラビに直撃したりして、それを笑っていたら私の後頭部にもぶつかった。
ボールはゴムのようなシリコンのような、やわらかく張りのない素材で、私が両手で頭上に持ち上げられるくらいの重さしかない。それでも大きさのせいでそれなりに勢いをつければ人ひとりくらい簡単に倒してしまう。後ろから思い切り突き飛ばされた形になった私は床に両手をついて、荒く息をしながら笑っていた。
「この場所って本当に、なんなんだろ」
「わかんないけど、たのしーね!」
「ラビが連れてきたんじゃん」
「そうだっけ? 忘れた……」
「馬鹿だね愛してるよ」
水色のワンピースの裾を直して立ち上がり、乱れた髪の毛を手櫛で整える。一番近くにあったボールに右のてのひらでゆっくりと触れて、黄色かったボールは穏やかな白色へと変化する。なにか神聖な儀式のよう。私が、なにか力を持った存在だと錯覚できるような。
「19歳になるまでに、きちんとカミサマを見つけさえすれば、誰からもよかったねと言われるんだから簡単なルール。カミサマに向けて育むのが愛で、その人がカミサマを見つけられるかを心配するのが、カミサマを見つけたとき心からほっとしてくれるのが友愛で、それだけ。昔はもっともっと複雑で、大変だったって習った」
私が触れるボールの上に、ラビがふわりと舞い降りた。遊び疲れて眠る子どものように、なにも不安のない、やすらかな顔で横たわる。
「死ぬ前の私はカミサマを見つけられない私のことを、ひどくひどく嫌いになってしまったみたい。私が私を好きなだけで、それだけで生きていけたらよかったのに」
左手もボールに添えて、白い光が滲むように桃色へ変わる。ラビの白い長毛が少し色づいて、はらりと落ちた赤いリボンも美しさを増す。
「なにかを信じてしまえば楽だよね。私はあまりにも私だったから、私を信じるしかなかった。もちろんそれは不安定だし、だけどきっと、できたはずなの。そう思うよね、ラビ」
ラビは動かない。
「私本当に、死んじゃったんだなあ……」
ボールから手を離し、とぼとぼ、歩き出して。胸に濁流が押し寄せるように激情が、吐き気のようにこみ上げるけど、ごくり、と飲み込んだ。もう泣かない。

私はラビを失って、ボールの部屋を出た。次の部屋までまた暗い廊下があって、目を慣らすためにぱちりぱちり瞬きをしながら、迷いなく歩く。
黒いヴェールのその先で、いっとう最初に飛び込んできたのは鮮烈な赤だった。花だ。
そこはふっくらと丸い天井を持った黒くつるりとした部屋で、上から巨大な花が降ってくる。リアルじゃない、投影だけれど、だからこそ非現実的なサイズの花が、存在しないはずの重力をきちんと感じてこちらに落ちてくる。
踏み入れた瞬間は真っ赤な薔薇があまりにも大きな欠片として落ちてくる最中で、それを赤と認識したあと、花のような気がしたのだった。それから緑の葉を適度に含んだ小花たちが降り注いだり、紫と黄色、ブルーのグラデーション、ピンクとオレンジ、色彩を変えながら、花たちがいつまでもいつまでも、私の上に降り積もる。
とてもきれいだと思った。この部屋の外にいる、とても大きな誰かが、貰った花束を解いて、投げ捨てている。そんな風に思った。ゴミ箱の底に私はひとり膝を抱えて座ったまま、ずうっと落ちてくる花たちを見上げている。花束を投げ捨てなければならなかった人たちの代わりに、私が祝福を受けている。
ああそうか。世界に愛されていないと思ったけれど、世界は誰のことも愛しちゃいないんだね。
いつまででもここにいられそうで、ここにいるだけでいろんなことがわかるような、なにもかも解決してしまうような気がする。例えば私はカミサマを見つけられなかったけれど、私が誰かのカミサマになることはできたかもしれない、とか。そっちのほうが私はきっと得意だった。私は私らしく在ることだけが得意分野だった。私がもっと自覚的にカミサマになってみんなに幸せを、与えて。ううん、それはなんだか違う。ラビも言ってた。輝くために輝くのはおかしいって。私が私らしくいて、もしかしたら誰かのカミサマになっているかもしれないなんて、そう思えたら私が幸せになれたんだ。
私は私が死んでしまったことに後悔なんてしてないけど、サラが死んでしまったことは少しだけ寂しくて、切なくて、この感覚わかるかなあ? ちくちくと心を蝕むけれどそれも悪くない。ずっとここにいてそんな心の動きを慈しんであげられたら。
それでも、出口があるなら次へ行かなきゃ。
私はまた、対角線上の出口を見つけていた。どこまでこの部屋たちが続くのか、いつまでこの世界が続くのか、わからないけどここが通り道であることだけが。
生も死もすべて等しく通り道であることだけが、私にとってのハッピーエンドだ。

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