見出し画像

月に行く


20XX年、大いに発展した人工知能研究はついに技術的特異点――シンギュラリティを迎えることとなった。そして、その瞬間から人工知能は人類に代わって地球運営を開始した。転換は人類がそれまで予想していたよりも遥かに自然に、小学生が中学生になるくらい当たり前のこととして行われた。また結果から言えば、AIはそれを受け入られなかった一部の人類を抹消したりはしなかった。彼らは派手な動きを見せずに、解決しないとされていた地球上のあらゆる問題を確実にひとつずつ潰していったのだ。AI反対派の人類はその恩恵を受けて、素直に降伏した。これは決して愛情などではなく、ただ単に太陽と北風のどちらが効率的かを計算した結果なのだろうけれど。
……なんて書くと、まるで昔のSF映画みたいだ。これは今から三年前、2065年の出来事である。もう歴史の教科書とかに載っちゃっているのかなあなんて、自分がすごくおばさんになったような気がしてヘコむ。わたしだってちょっと前までは学生だったのに、と考えてもう五年前だと気付き、またヘコむ。
一応社会人と呼ばれる立場になっても、シンギュラリティがあっても、わたしは五年前と大して変わっちゃいない。自分のやりたいことのために無理せずお金を稼いて、お金を使って暮らして、たまに文章を書く、こんな風に。

居場所なんてずっと、どこにもないと思ってた

大学時代の友人たちでなんとなく集まった飲み会の、二次会。二十分前のキコのひとことで、その場は大いに盛り上がってた。広くない個室に、紅潮した頬、頬、頬。懐かしい面々の懐かしい声のかたまりを、つい意味としてじゃなくただのかたまりとして聴いて、ぼうっとしてしまう。ああ、酔っ払い。わたしは自分の頬に手を当てて、みんなと同じように熱くなっていることを確認する。それなりに回ったアルコールと、あまりにもキャッチーな話題のせい。
キコが月に行く。なんて素敵なんだろう。もちろん驚いたし、会えなくなる寂しさとかそういう感情もあるはずなのに、あまりにもしっくりきてしまって思考停止。だってあのキコが、わたしたちのキコが、月に行くのだ。すごい。
さっきまでわたしの隣に座っていたのに、いつのまにか向こうの席にふらりと、とられてしまった彼女を遠く眺める。飲み会の席でも被ったままの青いチェックのベレー帽が揺れている。赤く染めた髪の毛が帽子から覗いて、満開の笑顔を飾るように縮れている。デニム素材のワンピースは今日集まった女子全員のうちで一番丈が短い。わたしたちはもう、女子、なんて口に出して堂々と言えないくらいの年齢になってしまった。でも、キコはキコだからそれでいいし、キコがそうやって変わらずにいてくれることはなんていうか、救いみたいなものにもなっていて。
何も変わらない日常が続いているようで、三年前にこの世界は結構変わってしまった。そのひとつは、結婚とか出産とかのこと。深刻な人口減と少子化への対策として出産と子育て――って呼ぶべきものなのかもはや分かんないけど――は、すべてランダムにAIが行うようになった。AIは国民から提供された卵子と精子を掛け合わせ、受精卵から生まれた新生児を全て管理し、義務教育までの支援を経て、一八歳でひとり立ちさせる、らしい。まだ三年目だからよく分からない。だけどつまりはもう、親子とか家族とかそういうものはなくなったのだ。確かに、わたしだって精子バンクの子どもで父親はいないし、そもそも誰かと生きていくなんてことは既に時代遅れだった。大学生のころには周りでも子どもを持ちたいという人はかなり少なくなっていた印象がある。けれどこんなにあっさりなくなってしまうとは拍子抜けだった。
「ユーコ!」
ピンク色のお酒を持ったミカがやってきて、空いたままになっていたわたしの隣に座る。
「キコさあ、すごいよね」
「うん」
「ね、ね。結婚したいとか、思ったことなかったなあ……」
「わたしも」
ミカはうんうん、と頷いてごくごくとお酒を飲む。左手に巻かれたブレスレットがきらきら光っている。よく見るとミカが大好きだと度々語っていたアニメのロゴが入っていて、つい微笑んでしまう。
そうそう、結婚という制度だけは残っているのだ。なぜか。たぶんまだ移行期間だからだと思う。それで、結婚してパートナーと暮らしたり自分の子どもを持ったりしたい人は、月に行くのだ。月はもうすっかり整備されて、ちょっと遠いけど、宇宙旅行に耐えて辿り着きさえすれば誰でも暮らせる。補助金とかも出るし。なんで結婚で月なのか意味不明だけど、AI曰く、それが人類の幸せだから、だって。

こんなに早くお別れが来るなら、もっと優しくできたかなあとか

キコと出会ったのは高校。でも、仲よくなったのは大学。高校のころのキコの印象は正直、なんか派手な子、だった。制服のスカートを躊躇なく短くして、細い脚が冬でもにょきっと、肌色が紺に映えていた。わたしは地味でありたかったし冬は寒いし、そういういわゆる女子高生にはなれなくて、うっすらとした嫌悪は憧れの裏返しだったんだろう。
大学に入って第二外国語のクラスが同じで、そこで仲よくなった。同じ高校だったよね、って話しかけてくれたのはキコのほう。女子高生から女子大生にアップデートされた激しい金髪と気合いの入ったお化粧にわたしはちょっとドギマギしちゃって、でも彼女は話し上手で明るいから一緒にいると楽しくて、すぐに慣れた。キコはやっぱり大学でも躊躇なく振舞って、友達をどんどん増やして、一種の有名人という感じになっていったけど、わたしとは変わらず仲よくしてくれてうれしかった。
なによりわたしとキコを繋げてくれたのは、小説だろう。娯楽過多のこの時代に小説を読むのが好きな人は稀で、しかもその上で読むものの趣味が合う人に実際に出会えるなんて思いもしなかった。ふたりでたくさん小説の話をした。昔の作家が書いたのも、AIが書いてる新しいやつも、インターネットの海から無数に拾い上げたどこかの誰かが書いたのも、ふたりで読んで感想を言い合えばぜんぶ面白くて。いつからか、読むことよりもそっちのほうが趣味になってしまったくらい。
親友とか言ったらたぶん言い過ぎ。キコにもわたしにも他に同じくらい仲のいい友達は数人いる、たぶん。でも結構、それなりにかけがえのない友達だ。少なくともわたしはそう思っている。キコもそう思ってくれているだろうか?

あたし、月に行くんだ

雨が降っている。雨が降ることは分かっていた、AIが教えてくれるから。どうせわたしは家の中で仕事をするので、雨の日は雨の音がBGMを奏でてくれるということだけ。アパートの最上階は、空に近くてとてもいい。
大学を卒業して一度小さなウェブ関連の会社に入り、しばらくしてフリーのエンジニアになった。AIの補助をするインターネットの末端の仕事だ。元いた会社から広げたちまちまとしたコネで、一人の生活くらいは問題なく賄える仕事をもらっている。本当は小説の校正者になりたかった。幼いころはじめて憧れた職業。だけどそんなのはとっくに廃れて文章校正システムにとって代わられていることを、知ったのはいつだったっけ。少し落ち込んで、それからわたしは自分で小説を書きはじめたのだった。
フリーになった理由は、小説を書きたいから。お気に入りの、少し古めかしい大きなデスクトップでぽちぽちと物語を紡ぎたかったから。わたしとキコがああやって繋がれたことを奇跡と感じているように、今どき小説を読む人は少ない。わたしの生まれたころまでは書籍という媒体がそれなりに流通していたみたいだけれど、わたしは学校の図書館でしか触れたことがない。埃をかぶった重い紙の束の中の文字を眺めるのには慣れなくて、いまいち昔の人の気持ちは分からないなあと思った記憶がある。でも書籍があったころの方が読者人口も多かったのだとしたら、羨ましい。
ともかく物語を読む人は減った。わたしだって仕事をはじめてからは、キコと語り合えなくなったこともあって、すっかり読んでいない。だけど、物語を書く人は減らないな、と感じる。読む人はもういないのに、みんな物語を紡ぎたがる。誰も読んでくれなくて悲しくて涙を流しながら、それでも生み出し続けてしまう。そういう人は、一定数この世の中に存在する。この前集まった大学の友人は、全員ではないけれど物語を紡ぐ人たちの集まりだった。定期的に集まる度に、まだ書いてる? と問うては書いてるよ、って応えるための集まりでもある、あそこは。
どうして執拗に物語を紡ぐのか、の答えは最近まとまってきた。わたしは、たぶんあんまり現実が好きじゃなくて、ぜんぶフィクションにしてしまおうとしている。現実の、地味でつまらないわたしも、物語にならない平凡な人生もぜんぶ。
雨音から、大粒の冷たい雨を想像する。ばちばち、ばちばち。とうめいの丸い形を保ったまま落ちてきて、灰色の屋根にふれて弾ける音。進まない仕事のファイルをぱちりと閉じて、書きかけの小説を開く。これが書きあがったらその次は、月、のことを書きたいなと思う。

ひとりでいたい、いたくない

ピンポン、と軽い音に慌てて立ち上がった。
「いらっしゃい」
「来たよ~」
画面の中で手を振る十分の一サイズのキコは、たっぷりのマフラーにくるまれている。地球温暖化がどんなに進んでも冬はやってくるのだ。昔と比べて温かくなったなんて言われても、わたしたちにとっては寒い冬。キコがうちに来てくれるというから、鍋でも食べようかと適当な具材を準備してある。
「お邪魔します!」
わたしはもう一度いらっしゃいと言う。なんだか形式ばっているのが面白くて、微笑み合う。マフラーの下から真っ白で大きな襟が現れて、キコの笑顔をぱっと明るく照らし出した。
「鍋、食べよ。用意してあるから」
「サイコー。お酒は買ってきましたよ」
「うれしい、ありがと」
一人暮らし用の小さなテーブルは、コンロと大きなお鍋を置いたらいっぱいになってしまう。ふたりで向かい合って鍋を挟み、ぷしゅっとお酒を開ける、わたしのは桃の甘いの。
「冬って感じだ」
期間限定みかんのチューハイをあおって、満足げなキコ。いつもとなんだか雰囲気が違うように感じて気付く。ハイセンスな帽子もいかついアクセサリーもつけていない、リラックスモードなのだった。この前赤かった髪はすっかり色が抜けて白に近いブロンドになっている。
やがてふたりの間でぐつぐつと音がしはじめ、わたしたちは怠惰に直箸でつつき合い、はふはふ食べた。熱くて涙目になりながら、いつもより早いペースでよく冷えた缶を開けながら。
「みんなのとこ訪ねてまわってるの?」
随分からだが温まって、手で顔に風を送りながら、尋ねてみる。
「うん、でもだいたい終わって、ユーコが最後かな」
キコがうちに来るなんて、はじめてのことだ。大学生のときキコの家に行ったことは何度かあったけれど、わたしはお母さんと住んでいたから。そういえばキコは高校のときから一人暮らしをしていた。キコもお父さんはいなくて、そう遠くないところに住んでいるらしいお母さんとは仲良し親子だったはずだ。
「なんかさ、死ぬ前にあいさつに行く人みたいだよね」
「え?」
ぼうっとしていた。キコのお母さん、それから自分のお母さんのことを考えていたせいで反応が遅れる。
「ううん、なんでもない」
母、という、地球上の人間にとっては必要のなくなった概念。昔から子どもたちをよくも悪くも悩ませてきた存在は、きれいさっぱり消えてなくなろうとしている。
「とにかくさあ、みんなに会えてこうやって話せて、すごい楽しかったよお」
キコが滔々と話しはじめる。お酒には強かったはずだけど、今日は頬が真っ赤に染まっていて可愛い。キコはいつだって可愛いし、特にわたしの前では可愛い。面と向かってそんなことなかなか言えないけれど。
「うん、よかった」
「寂しいよとか行かないでとか大好きとか言ってくれるし」
「わたしも……寂しい」
 本当に、思っていること。それから一呼吸置いてもうひとつ。
「それに、とってもカッコよくて、誇らしい」
「へへ」
月に行くのがカッコいいとかそういうことではなく、なんでも自分で決めて進んで行くのがカッコいいなってこと。キコはいつだって自慢の友達だっていうこと。この文脈でちゃんと伝わったのか、分からない。とにかく照れ笑いされると、こちらまで照れてしまってライチのサワーに口をつけたけれど、ほんのちょぴっとしか残っていなかった。ほとんど空になった鍋に視線を落としつつ、キコがまたゆっくり口を開く。
「全部本当にうれしかったよ、うれしくて、死にそうなくらい」
「ホント~?」
「ホントだってば」
ケラケラ笑って、お酒なくなっちゃったねー。飲みすぎだよ。お腹いっぱーい。でもアイス食べたい! とか。お行儀悪くそのまま真後ろに倒れこんでカーペットに沈む。今眠ったらどれだけ気持ちがいいだろう。でもキコともっともっと話したいことがある。冬用に取り換えたカーペットはふかふかだ。気を抜くと本当に睡魔に意識を奪われそうになる。
「死ぬときもちゃんとこういう風にできるんだったら、あたし月に行かないでもよかったなあ」
だからひとりごちたキコの声は、壁一枚隔てたみたいに小さく聞こえた。
そのあとわたしたちはずっと思い出話をした。座り心地の悪い椅子で何時間でもお喋りしていられた大学の、四角い白い部屋のこと。キコが使ってた赤いノートパソコンのこと。流行りだった透けるピンクのマニュキアや、オレンジ色のダッフルコート。誰かの忘れ物のミントグリーンの楽器ケースを眺めたことまで思い出した。キコはいつしか笑ったまま泣いてた。
「ねえユーコ、あたしの小説を書いてよ」
帰るとき、玄関先でそう言われた。わたしは黙って頷いた。

もうわがまま言わないから最後に、愛して

その日、出発式と名前を変えたかつての結婚式のようなものに招かれたわたしたちは、とても驚いた。もしかして、月に行くと聞いたときよりもずっと驚いたかもしれない。夢のようなドレス姿のキコはたったひとりで赤いカーペットを歩いてきて、宇宙船を背にした。それからは、誰も登場しなかった。
彼女はひとりで月に行くのだった。
キコのドレスは白ではなくて、月のようにほのかに黄色い、美しいものだった。派手好みのキコのわりにシンプルで、だけどすごく似合っていた。同じ月の色の髪の毛は、顎のラインで揃えて切ってあって、お人形みたい。
月に行く、というのはいつからか結婚することを指す言葉になっていたけれど、結婚を決めた相手がいる人だけが月に行けるというわけではない。誰でもいいから結婚したいとか、子どもを産んでみたいとかいう人も、きちんと登録をしてしかるべき相手が見つかれば月に行ける。そういう人はひとりで飛び立って、あっちでその相手と出会うのだ。
考えてみれば、結婚するにしては相手がどんな人なのか少しも話さなかった時点で、気付けたことだったのかもしれない。実際キコにそのことを尋ねて、ひとりで行くのだと教えられていた人もちらほらいたのだとあとから聞いた。だけどわたしや多くの人たちは普段そういう話をする土壌があまりにもなかったせいか、あるいはキコの聞くまでもないような笑顔のせいか、なんとなくそのまま、赤いカーペットを見に来てしまった。
式、と言ってもお見送りだけの簡単なものなのだ。残った人が、安全な旅を願いながら、ご馳走を食べてお酒を飲む。三年前からの、新しい儀式。こういうものだと言われれば、こういうものだという気がしてくるのだから人間は簡単な仕組みの生き物だ。かしこまって挨拶をする人もいるけれど、キコはそうしなかった。深く深く一礼をして、宇宙船へ向かってゆく。
あまりにも大きな宇宙船の前で、キコがとても小さく見えて、急にぎゅっと抱きしめたくなった。もう間に合わない。どうしてひとりで月に行こうと思ったのかも、聞けなかった。
キコは細いヒールの美しい靴でタラップをゆっくり登る。
せめて。せめてわたしはキコのために小説を書くよ。キコが主人公の小説を。わたしが憧れ続けて、今もそうなりたいとどこかで願っているフィクションの世界へ、キコは先に行く。わたしよりずっと先に行く。
階段を登り切って振り返った黄色いドレスが、大きく手を振った。地球に残る、キコの大勢の友達が、一斉に手を振る。わたしも。
またね、またいつか、キコ。みんなキコのことが大好きだってこと、忘れないで。

永遠にさよなら

ロケットは飛び立った。そのまままっすぐ月に行く。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?