仕事をしている時は所謂学級通信をよく書いていた。 他人の考えていることは、所作振る舞いや日々の言動からはわからないものらしく、でも書いたものを配るとそのギャップが埋まるようで、ずいぶん誤解が解けて味方も増えたし、仕事もしやすくなった。 発信していくのは手間も時間もかかる作業だ。だから最近は発信する面白さにみんな気づき始めているけど、それでも多くの人は受信するだけであんまり発信しない。それはよくわかる。面倒くさいのはすごく大きなマイナスだ。だけど、筆者(とりあえず自分
最も多い裁判の一つに薬物犯の裁判がある。実際、ネット上の統計データを確認しても窃盗と並んで日本で最も多い犯罪だそうだ。平成27年とやや古いが受刑者の男性26.6%女性39.0%を薬物犯が占めている。芸能人が逮捕されるとよく話題になる再犯率も高く平成28年には64.9%となっている。 実に3人に2人近く再犯している計算だ。「若い時に危険な遊びとして薬に手を出す」というイメージとは対照的に実際、傍聴していてもほとんどの場合、初犯ではなく再犯の被告で必然的に30代以上が多く年
「物語の登場人物にとって作者は神様である。それは、信仰の対象としての神ではなく全知全能の存在としての神なのである。」 上は授業で物語を取り扱う時に、創作者がいかに膨大な選択肢を取りうるかを説明するために、筆者がよく使う言葉だ。実際、死者をよみがえらせることも貧乏人を億万長者に変えることも戦争を終わらせて平和をもたらすことも人ならざるものに人格を与えることも作中ならできる。こんなことを現実に行ったら、まさに神の所業だろう。 しかし、読者は出来上がった作品を「荒唐無稽だ
裁判の傍聴を始めたのは数年前だったが、以来続いている。予定のない日に1日単発で赴くスタイルの傍聴。新件→審理→判決と何度も開廷される1とつの公判の全部を追えた事はないが、一期一会でもそこに非日常がある。 傍聴のきっかけは一年中仕事しかしていない日々の中「教員の常識は社会の非常識」と言われるのが嫌で、短時間でできる社会勉強はないものかと考えた始めたことだった。否、正直に言おう。当時、指導困難校に赴任していた私は、それまでの自分の常識外の態度や基準で行動する地域やそこに住む
お笑いコンビ「ピース」の又吉直樹が「火花」で芥川賞を取ったのは、2015年だから今から5年前になる。当時話題の本であり、全文掲載されている文藝春秋を買ってマクドナルドで読んだ記憶がある。 落ち着いた筆致の文体で読みやすく作家としての又吉直樹のファンになった。あまりわかってもらえないが、読みやすいと感じさせてくれる作家は貴重な存在だ。その作家は知らない世界や知識・発想を受け取りやすく提供してくれるアンテナになる。見つけたら、放してはいけない。 さて、「劇場」はそんな彼の
書き方が主観的なのでもしかするとさも、すごい事のように思われるかもしれないが客観的には月走120kmぐらいが限界だったからフルマラソンを走破する市民ランナーのおじいさんの半分ぐらい。実際、30kmの壁は何度挑戦しても越えられなかったし、坂道を走るトレールランは私がやるとトレールウォークになった。 ハーフマラソンの大会では足切りに遭うこと確実なタイムだった。かといって短い距離の参加賞的な部門にはエントリーする気が起きなくて、参加せず街歩きの延長のようにぶらぶらと自分のペー
始めて10年目の取り組みにマラソンがある。日記と同時期に始めたから、こちらも丸10年にはもう何か月かある。 始めた当初は1km走りとおすと翌日は寝込んでいた。運動すると持病の喘息発作も起きるので、およそ体力と呼べるものはなかった。只ある時、「気力=体力だよ」と聞いて一念発起したのだった。目的はうつを治すためだった。 最初「どんなにスローペースでもいいから限界まで走ろう」とか「走れなくなっても歩いて目的地まで行こう」とか「行きは走って帰りは歩こう」とかたくさん逃げ道を
プライベートで日記を書いている。大学ノートに書き続けて10年目になるから正確には丸10年まではもう数か月ある。 元々は、うつ病の発症以降記憶力の減退を感じたのでそれを補うために始めたのだが、かれこれ60冊も書いてしまった。書けば、頭が整理されるし仕事柄教える上でも量を書く訓練が必要だったので、重宝したのだ。 ページをめくると何年前の今日、自分が何をしていたのかわかったりするので、楽しい。ただ何年単位で見てみると自分の人生が小さな気づきや拾い物のような発見、体験の前後