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(変化する意思に関わらず)変化する

あと3ヶ月で晴れて大学生を卒業し就職することが決まっている。

突然だが、私は就職したら自分の意見と呼べるものが極端に少なくなるんだろうなという直感がある。

というのも、私は何か名前のつくものを自分のステータスにできた時点で、ある程度安心してしまう人間であるからだ。

この場合、「正社員」という肩書きがつく。


社会の歯車になるということは悪いことなのか?

ステータスにより、ある程度安心してしまうことをある程度表現してくれていたのが、最近読んだ村田沙耶香の『コンビニ人間』だった。

この本の主人公はコンビニ店員である時の自分が、人間としての自分よりも合っていると考えている。

それは、人の気持ちの機微が理解できないことで社会に馴染めないことが気にかかっている主人公にとって、コンビニ店員であることは社会の歯車となることであり、安心できるからであった。

この主人公の場合、働いていることに安心しているというよりも、さまざまなタスクを機械的にこなしていく中で、社会の歯車であることを自覚できる「コンビニ店員」として働いていることに安心しているという点で、今から述べる私の感情とはずれがあるかもしれない。

ただ、この「社会の歯車になる」という感覚は、一般的に否定的な言説として扱われがちだが、私にしてみればそんなに悲観することでもないんじゃないかとも思う。

そういう私だから、正社員になり社会の歯車になることは、今まで大学生だったために、これからどうなるかわからない不安と共に生まれた悩みの大半を消すことになるんじゃないかと楽観的に考えている。


内省の中毒性

今の私は内省がとても好きで、悩んでいる状態が実は他人よりもずっと好きなのかもしれないと最近感じている。

しかし、この悩むという状態もタスクが少ないからできることであり、基本的にバイトや卒論で忙しい時は悩んでいる暇すらないと感じているし、書いている日記の文字数は明らかに減る

だから、悩むという行為の回数が減ってしまうんじゃないかと思う。

それは、今の私から見たら驚異なのかもしれないけれど、働いている私からみれば幸せなのかもしれないのだ。(何視点?)


話が逸れるが、よく若いバンドマンが、社会の歯車になることを嘆くような歌詞を書くことがある。しかし、あれは「社会に馴染めなかった自分が悩んで」書いたことではあると思うものの、「自分が悩みたくて社会に馴染まなかった」という状態を作って維持するための歌詞でもある気がする。

それくらいに、悩むという行為は気持ちがいいものでもあるのではないか。

バンドマンを否定するつもりはさらさらないし、私もそういう音楽が大好きであるが、私は悩み続けることよりも先に変化する(=就職する)ことを選んでしまった。

そして、社会の歯車になるということは、それ自体が苦痛であるわけでは必ずしもないのかもしれないと、卒業が近づくにつれて感じはじめている。


ただ、今まったく悩んでいない人間関係に悩むかもしれない。人間関係に悩んでいないのは、嫌な人間関係を全て取っ払ったからだ。

しかし、会社内で人間関係を避けるというのは不可能に近いだろう。私の会社の場合、コミュニケーションがとても大事と言われる部類の仕事なので、余計に難しい。


さいごに

ただ、色々悩むことはまだあるものの、タイトルにもあるように、(変化する意思にかかわらず)変化するのだ

私は変化することを恐れつつも、就活をして、もうすでに変化する未来が予定されている今日まで来てしまったのだ。

今自分が一番取ることで後悔するかもしれない姿勢は、変化を拒むこと、その一つだけであると思う。

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