2019年観劇はじめ

去年も言ってた気がするけど、今年はアウトプットを増やしたい。
手始めに観劇した舞台の感想を書くぞー!ということで、2019年の観劇はじめとなった「マリー・アントワネット」の感想をしたためようと思います。
公演も終わっているので、ネタバレ含みます。

1月5日17:00@梅田芸術劇場メインホール
劇場の入口にはお正月らしく門松が飾ってありました。

この日のキャストは以下の写真の通り。

私はソニンが観たかったので、とりあえずソニン回を!ということでこの日を選びました。
大阪公演ではフェルセン伯爵は古川雄大くんのシングルキャストでした。

席は3階の後ろから2列目センターブロック通路横です。
梅芸の3階はだいぶ角度あります。上から見下ろす形にはなるけど、死角はなし。これは舞台のセットとかにもよるので、その公演にもよるけど(例えばEndless SHOCKは一幕終わりの階段上の見せ場にシャンデリアがかぶって役者さんのお顔が見えないため3階席はおすすめしません…)

本編の始まりは古川くん演じるフェルセン伯爵がマリー・アントワネット処刑の報せを手紙で受け取るところから。
古川くんはじめましてだったけど、最初に思ったことが「顔が!小さい!」っていう。3階からなので肉眼で見たらもちろん小さいんだけど、それを差し引いても顔がべらぼうに小さい。
男の人にこんな表現をしたことはないけれど、立ち姿がお人形さんみたい。顔が小さくて腰が細くて足が長い。なんとまあ舞台映えする人だ、そりゃ売れっ子だわ、トート閣下もやるわ、ってまず思いました。
生で初めて聴いた歌声は力強さより繊細さを感じました。か細いわけではなく、柔らかい印象。
記憶が薄れつつあるので、思い出したところから書いていきますが、笹本さん演じるマリーはすでに母親でもあるけれど天真爛漫で少女のよう。マリーが主催するパーティーに紛れ込んだソニン演じるマルグリット。そこにいる招待客である貴族たちにとって薄汚れた格好の庶民であるマルグリットは嘲笑の対象でしかないのに対して、そんな貴族たちをたしなめてマルグリットの話を聞こうとするマリー。これが同じMAというイニシャルを持つ対照的な女性2人の出会い。
「市民には食べるパンもない」と訴えるマルグリットに対して「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」と嘲笑混じりで返したのはマリーではなく、取り巻きの貴族。マリーは決してマルグリットを馬鹿にするようなことは言わないけれど、それは王妃の余裕でも何でもなく何も知らないからでは?という印象を受けた。10代前半で異国に嫁ぎ、少女のまま王妃となったマリーにとっては、ベルサイユ宮殿の外のことは「外」のことでしかない。
マリーには夫であるルイ16世との間に2人の子供がいる(史実とは違うっぽい)家族4人でのシーンはあたたかく、朗らかで、見るからにしあわせそうなのにマリーはフェルセンと逢瀬を重ねている。ルイに対しては家族愛としての愛情はあるんだろうけど、フェルセンに対してのような恋情はこれっぽっちもないんだろうなあと思うとルイがかわいそうに思えた。
マルグリットは革命を企むオルレアン公爵と知り合う。公爵を演じる吉原光夫さんの歌声がすごい。わたしはただの素人だけど、吉原さんの歌声は空気が震えるという表現がしっくり来るような迫力と説得力があった。
公爵による先導で市民たちによる革命が起こり、捕らえられたマリーたち。マルグリットはそこに世話役としてマリーに仕えることになる。
マリーとマルグリットは立場の違いもあって、最初はお互いに歩み寄ろうとはしない。マルグリットからしたらマリーは市民の生活を困窮させる原因にもなった浪費家のワガママ王妃であり、マリーにとってマルグリットは自分を監視するスパイでしかない。この辺はもっとじっくり掘り下げて欲しかったなあと思うのだけど、マリーの子供たちに対する母親としての姿を一番近くで見ていたマルグリットはだんだんマリーに対しての態度が変わっていく。幼い頃からひとりぼっちで生きていくしかなかったマルグリットと、自分の意思など関係なく異国に嫁ぐしかなかった自分自身を重ねたのか、マリーのマルグリットに対する視線も変わっていく。
ここでフェルセンからマルグリットに対してひとつの可能性の話が語られるけれど、最後までそれが真実かどうかはうやむやのまま終わる。真実ならばそれは驚くべき事実だけど、それによって今までのマルグリットの人生が変わるわけではないし、マリーの人生も変わらない。
子供たちの乳母が殺され、子供たちとも引き離されたマリーは一気にぼろぼろになっていく。髪は白くなり、美しかった美貌は失われ、一方的な裁判にかけられる。罪状は国費の浪費と、首飾り事件、そしてでっちあげられたスキャンダルの数々。革命派でもあるはずのマルグリットはマリーにとって不利な証言者となるはずだった。そうでなければならなかったのに、マルグリットの証言はマリーを庇うものだった。
異母姉妹かもしれないという可能性がマルグリットにそうさせたのか、子供を奪われたマリーに対しての同情がそうさせたのかは観客にはわからない。
ただマルグリットひとりがマリーを庇ったところで何も変わらない。マリーは史実通りこの舞台でもギロチンで処刑される。
マリー・アントワネットという実在した女性と、架空の人物であるマルグリット・アルノー。この舞台はフランス革命の話ではなく、MAという同じイニシャルを持つ2人の女性の話であり、フェルセン伯爵もオルレアン公爵もルイ16世も脇役でしかないように感じた。
「わたしもあの家に生まれていれば」「わたしとあの子の立場が逆だったら」そんな風に他人を少しでも羨んだりしたことのある人ならマルグリットに寄り添いたくなるし、子供を持つ母親ならマリーに寄り添いたくなるのだろう。

マリーは処刑された。マルグリットは生きている。決してハッピーエンドではないのに、カーテンコールで手を繋ぐふたりのMAを見ると自然に涙が溢れた。そこにいるふたりのMAは立場が違っていたらあんな風に笑いあえていたのかもしれないと思わされた。
題材として、絶対にハッピーエンドはありえないのにこのふたりのハッピーエンドを見たかったなあと思わせてくれた作品でした。
2019年の観劇初めがこの作品でよかった。

これはめちゃくちゃただの余談なんですが、マリー・アントワネットとフェルセンとの関係は史実ではもちろん、フランス革命を題材にした創作物でも散々扱われているけど、どうしてフェルセンはあそこまでマリーのことを愛し続けているのだろうというごくごく素朴な疑問が解決できる日は来るのだろうか…。

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