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僕がこの世に存在した形跡を残したい〜お墓問題その後

おじいちゃんのところに、いってきた。
お墓どうしようか、と。青山墓地にはお墓がなくて、小平だって、
というと、最初の一言が
「小平なんてイヤだ!」
だった。

誰もそんな所には来てくれないだろう? 
どこにあるのかさえわからないような所に。
埋葬された後、誰も来てくれないような所は絶対に嫌だ!
とおじいちゃん。

だったらさぁ、品川のカトリック教会の共同墓地にする?
そうしたら、駅から5分ぐらいだよ。頼んでみないとわからないけど。
というと、大分考えていた。
カトリックか……。
おじいちゃんはイギリス人だから、たぶん英国国教会というヤツで。
英国国教会ってローマ法王が王様の離婚認めなくて
怒った王様がカトリックやめて自分で宗教作っちゃった宗派だもんねぇ。
いやなのかなぁ、カトリックだと。

カトリックは避けたい……
でも、誰も来てくれない小平はイヤだ。

天国に行っちゃったら、誰がお参りに来たかなんて気がつかないような気もするけれど……なんていうことは、さすがに言えなかった。
一緒にいったキョーコさんも、亡くなった後も、そんなにみんなに来てほしいのね……とちょっと驚いたようだった。

すると、おじいちゃんが、
誰ももしお墓に来ないなら、他に僕が存在したことを残す方法はないか、
と言い出した。
何か、自分がここにいたことを残したい、
というのだ。

なるほど……と思った。
多くの人の場合、子どもという「ここに存在したことの形跡」がある。
人によっては、子どもだけじゃなくて、孫やひ孫がいる人もいるだろう。
それは、よくも悪くも、自分が存在したことの形跡なのだ。
でも、生涯独身だったおじいちゃんには、それがない。
子どもがいれば、私達が面倒を見ることもなかったし、
何かの形跡を残したいなんていうことも、考えもしなかったかもしれない。
でも、今、おじいちゃんは、自分がいたことの形跡が何も残せないまま
旅立つことにフラストレーションを感じているというか
むなしさを感じているというか。
そんなかんじだった。

ふと思い出して、
でもさ、教会にこの間、賛美歌集寄付したじゃない?
と言ってみた。
そうだっけ?
とおじいちゃん。
そうだよ、ほら、ここに一部あるでしょ?
そういって真新しい賛美歌集を見せると、
裏表紙に、「この賛美歌集はXXXXXXによって寄付されました
2022年クリスマス」と印字されていた。
おじいちゃんの顔がパっと明るくなった。
そうだった、これはいいね。
キョーコさんが、こういうものをもう一つくらい残せるように考えますね、
と言葉を続けた。
名前を刻字したベンチとかがいいかしらね、と。
そうだね、それがいい、とおじいちゃん。
急に表情がにこやかになった。
そして、じゃぁ、小平でもいいかな。
みんながお墓に来なくても、僕の名前が刻まれたものが、
都心にあって、みんなが思い出してくれればそれでいい。
自分からそう言い出した。

一件落着。
しかし。
そういうもんなんだね。

なんとなく、あまり深く考えたことがなかったけれど、
死の淵にあるとき、自分の子どもという、目に見える形で私の存在を示してくれる存在があることは、きっととても心強いことなんだなぁ。
母も、死の際にそう思ってくれたのかなぁ。
何をやっても不十分な娘だと、
両親が常に思っているのはよくわかっていた。
それでも、とおじいちゃんの話を聞きながら思った。
私がいたことが両親の存在の証明になるとすれば、
そう思って多少でも心穏やかに旅立っていけるのであれば、
できが悪くてもなんでも、いるだけで価値があったのかも、私、なんて。



得意技は家事の手抜きと手抜きのためのへりくつ。重曹や酢を使った掃除やエコな生活術のブログやコラムを書いたり、翻訳をしたりの日々です。近刊は長年愛用している椿油の本「椿油のすごい力」(PHP)、「家事のしすぎが日本を滅ぼす」(光文社新書)