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毒親を捨てた私

この度母親を捨てました。

私、56歳。母親は84歳。

こんな高齢者を捨てるなんて、なんて人非人なの‼︎非常識だ‼︎と思われても仕方ないです。そう思うあなたはとても素敵で優しい両親に育てられたんだと自信を持って下さい。

私はどう思われようがいいのです。でも、『捨てた』と言っても介護放棄をしたわけではありません。介護といっても母は何一つ病気はありません。年相応の足腰の衰えがあるだけで父が亡くなった後、ずっと一人暮らしをしてきているので今はまだ大丈夫だけどあと10年は生きるであろうと思われる期間、病院に行ったり、買い物に行ったり細々とした用事を私に代わってサポートしてくれる事業所にお願いしたのです。

母と関わることは生きている間はない…つもりです。いろんな手段を使ってきますのでまだわかりませんが。

次に会うのは逝去してからです。

ここに至るまでをお話しします。同じような体験している人の参考や一歩踏み出す勇気を与えられればいいなと思います。

私は物心ついた頃から両親の不仲が堪らなく嫌でした。夫婦喧嘩の域を超えたプロレスのような姿はまだ赤ちゃんだった妹を抱きしめてよく泣いていました。父の母への暴力は凄まじく母は顔に漫画のような青タンをよく作っていました。母は母でそんな姿を世間に見せるためわざとよく外出していました。眼帯とかマスクとかせずに。

私は学習能力がなかったのかよく叱られて叩かれて抓られていました。二の腕の柔らかい場所を抓るので夏は恥ずかしくて嫌でした。当時は自分が叱られるようなことをしたのだから自分が悪い→罰を受けた自分を晒されている…そう思っていました。

母へのDVも今、思えばDVの毛はあったけれども口の達者な母を黙らせるには暴力しかなかったのかと父が亡くなり8年も経ってから気がつきました。私は父から暴力を受け母からは心ない言葉で傷つき泣き、家族団欒なんて知らずに成長してきました。テレビドラマの家族団欒の姿や友達の家族、そして自分の家族すべて違和感でしかなかったです。

具体的にあげていくと母は子供が好きじゃなかったのか子供と遊ぶ事もなかったけど生まれて間もない妹が泣いていてもあやしたりオムツを見たりというお世話をほとんどしていなくて4歳の私が膝に抱っこしたり飲みかけで置いてあったミルクを飲ませたりしていました。

母は4年毎に鬱になるらしく1日中寝て家事をしない期間が長い時で半年続いたりしていました。妹が泣いている時も「そこのミルク飲ませて!」「オムツ替えて!」と布団の中から言われたことを覚えています。

小学生の時運動会が平日に行われた時が数年ありました。うちの両親は運動会に来たことはありませんでした。平日でもお父さんが会社を休んできている家庭が多い中私も妹は決められた教室で同じように親の来ない子供達の寄せ集めた静かな教室で食べるお弁当は美味しいわけはありませんでした。妹は私が卒業した後小3から小6まで辛かったと思います。妹は小さい時から家族のなかで目立たないよう自分の部屋に篭り交流を取らなかったです。うちは父がリビングを陣取りテレビを独占していたので食事が終わるとそれぞれ自分の部屋に戻れ!と命令されていました。

私、小学校に入ってすぐ家に帰りたくなくてランドセルを背負ったまま夜8時まで帰らなかった事があります。公園で時間を潰したりしていたけど、家出は無理だと感じたのでトボトボと帰ったのです。予想通り半殺しの目に遭いランドセルを背負ったまま外に放り出されました。妹がこっそり鍵を開けてくれてそおっと自室に入りベッドに潜り込みました。暫くすると父の足音がして部屋のドアが乱暴に開きました。“また殴られる‼︎”息を殺してじっとしていたら戻っていきましたが怖かっです。しょっちゅう殴られていても慣れないのです。いつも父の顔色を伺う子供でした。父が亡くなる8年前まで。

今思えば小1の子供が8時まで家に帰らない状態で両親が家にいるっておかしいです。1人は電話番で家にいても1人は必死に探すと思うんですよね。

私なら私と夫なら家にいて待つなんてできないと思いますけど。

長くなりますので今日はこの辺で。読んでくださった方ありがとうございます。

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