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何となく山城のことを知りたくて。

長浜城歴史博物館40周年 長浜築城・開町450年記念
特別展「長浜城主・秀吉と歴代城主の変遷」関連講座がありました。

「秀吉と北近江の山城ー最新の発掘調査成果からー」

戦国時代に山の上に築かれたお城…と言ってもいいのか?な遺構の話です。
うまくまとめられていないので感想止まりです。


 「曳山博物館」内の伝承スタジオで講義がありました。私、長浜に生まれ住んで40年越えてますが、曳山博物館に入ったのは初めてです。しかも見学するのではなく聴講するために入るなど、以前の自分をはっきりと覚えているため意外過ぎています。それほどに長浜について興味を持っていなかったということなのですが。


正面玄関ではなくこちらから入りました。
まずはこれを見たかった。普段から閉まっているようです。

 講師は石田 雄士氏(米原市生涯学習課主任)です。私より若くて精力的に活動されていることを、自己紹介で知りました。

 今回の講義で紹介されたのは「横山城」、「長比城」、「須川山砦」。

 「長比城」
 これ、私は最初読めませんでした。(ちょうひじょう?ながくらべ?)読める人は読めます。「たけくらべじょう」。(読めん!)地元では「野瀬山城」と呼ばれていたりもするようです。

長浜市
米原市(関ケ原)

 須川山砦は長比城より南に下ったあたりの山にあったらしいです。文献にほとんど出てこないらしいのですが、存在したようです。

 これらの城と砦は浅井・朝倉方の拠点だったようです。
 遺構の虎口の造りが朝倉方に多く見られる造りだということです。これもいまいちわかっていませんが、戦の時に直進できないようにわざと入り組んだ地形にしている、人工物と言うことなのでしょうか。

 後に織田方に奪取され、いろいろあって姉川の合戦で浅井氏は滅びたようです。まだまだ勉強不足。


 無知な状態で今回の講義を受け、一番に印象に残ったのが土塁。

 以前に野鳥センターのガイドウォークで賤ヶ岳登山に挑戦しましたが、山とは自然の山そのものだと思って、何の疑問もなく登っていました。

 そんな自然の一部に人工的に石垣を作っていたのだと思い込んでいましたが、地に足付けて歩いているその場所自体が既に人工的に盛られた、盛り土なのだということを知りました。

 自然地形の歩きやすい道に礫や粘土質の土を盛ってわざと歩きにくい、通り抜けしにくい道にしていることを知り、山城があった山や砦がとても歩きにくい、進みにくいのだと知りました。賤ヶ岳が結構険しかった理由を今回の講義で知り、なんと無謀なことをしたものかと感心しました。

 ちなみに今回の講義で初めて発掘調査について知りました。県境のすぐ先は手が出せない。米原市が長浜市の遺構を調査できない(長浜市が長浜市の遺構を調査することは可能)。その逆も同じく。発掘前の測量とかとても大変そうです。


 山歩きに慣れたら、こういった城跡、砦跡にも行ってみたいと思っています。

 横山城は近いので行こうと思えば行けるのですが、いまだに足を踏み入れていません(ノ´∀`*) 。


 「どうする家康」は全く見ていませんが、ドラマの中でこういった山城跡などの名前も出てきたりしているのでしょうか。
 見ていない理由は…役者がちょっと…あれなもので。戦国時代。年若い頭領でもくたびれた感が出て、少し年齢より老けて見えるはずなのに、そういう所が見れないのが今風だなと。つまらんケチ付けで申し訳ないです。
 というのはこじつけで、単に初回を見そびれて、そのままずるずる来てしまっただけの話です。

鉄道博物館
瓢箪の向こうに長浜城歴史博物館

 山城とは、稲葉山城(金華山 岐阜城)のようなお城だと思っていました。

 「現存する山城」でググったら、「備中松山城」と出てきました。岡山観光WEB『日本で唯一現存天守が残る山城として有名です!』

 岐阜城は再建されたお城だということを失念していました。あと、私が想像する山城とは役割が少し違っているようなイメージもあります。時代背景が山城の役割を変えているのでしょうか。

 今回の講義で紹介された山城は室町から桃山時代にかけての遺構。形として残っていない山城です。

 山城の役割について、もう少し勉強してみたいと思いました。

 万葉と言い、三成と言い…。そして山城。

 文学と戦国史。根本はとても近い何かな気がします。そうでないと私がこれらに興味を持つことなどないと断言できます。

山や川と言った自然…。かな?多分そこには鳥も出てくる…。

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